第324話 21


 アリエルは突進してくる化け物の動きを見極め、横に飛び、転がるようにして突進をかわす。直後、奴隷の命を糧に誕生した忌まわしい化け物は恐ろしい咆哮をあげながら、凄まじい勢いで樹木の幹に突っ込む。太い幹が折れ、破壊された枝葉が飛び散り、不気味な音を立てながら倒れていく。


 木片と一緒に飛び散った体液やら肉片の影響なのか、辺りには鼻を突くような腐臭が立ち込めるようになる。しかしアリエルの視線は醜い化け物にではなく、ソレを生み出した張本人、〈クァルムの子ら〉の戦士に向けられていた。〈混沌の化け物〉を使役し、この地に災厄をもたらす者たちの存在は決して許されるべきではない。


 アリエルの心には怒りにも似た激しい感情が渦巻いていた。化け物を使役する〈クァルムの子ら〉を見逃せば、この地を守護する守人だけでなく、周辺一帯に暮らす部族民の命も脅かされるだろう。青年は躊躇ためらったが、すぐに戦士の追跡を開始することにした。


 暗闇に沈み込む木々の間に視線を向け、戦士が消えた方向を定めると、音もなく駆け出した。青年の背後ではおぞましい化け物が身体の向きを変え、不揃いの牙を剥き出しにしながら咆哮し、青年の背中に向かって突進する。その瞬間――暗い森に雷光が閃き、豹人の姉妹によって呼び寄せられた〈呪霊〉が姿を見せる。


 豹の姿をした半透明の〈呪霊〉は荒々しい青い稲妻をまとい、化け物に向かって真直ぐ飛び掛かる。雷光が眩い輝きを放つなか、〈呪霊〉は鋭い牙を突き立てながら化け物の首元にみつく。青い火花が飛び散り、空気には焦げた臭いが混ざる。化け物は怒り狂ったように抵抗するが、雷をまとった豹は首元に生えている触手ごと咬み千切る。


 ぶよぶよした皮膚が裂けて、赤黒い血液やら黄土色の膿が噴き出し、濃い瘴気で周辺一帯をけがしていく。だが化け物は怯むことなく、低い唸り声を上げながら〈呪霊〉を振り払おうと、その巨体を活かして暴れる。化け物の触手が伸び、異様な速度で〈呪霊〉に絡みつくと、雷に焼かれながら首を締め付けようとする。


 森を飲み込まんばかりの勢いで巨大な〈呪霊〉と異形の化け物が衝突し、闇夜に閃光が走り、鋭い衝撃音が響きわたる。その音を耳にしながら、アリエルは暗い森の奥深くに足を踏み入れていく。


 冷気が立ち込めるなか、草と土のニオイが微かに漂い、風の音が不吉なささやきに感じられるほどの静寂に支配されていた。アリエルは面頬によって研ぎ澄まされた意識と鋭い感覚のなか、〈気配察知〉の能力を最大限に引き出しながら、わずかに残された足跡や痕跡をたどるようにして戦士のあとを追跡していた。


 足音ひとつ立てないよう慎重に進むなか、興奮状態の頭の中で何とか状況を分析していく。あの異様な戦士たち──この森には元々存在しない種族は、守人が管理してきた〈獣の森〉にも、周辺一帯の集落でも見られなかった者たちだ。部族民にとっての新たな脅威になり得るこの種族は、おそらく他の地域からやって来たのだろう。


 かれらは間違いなく外部から来た侵略者であり、襲撃者たちに雇われて、この戦いに傭兵として参加した可能性がある。であるならば、いずれ守人の脅威になるのは間違いない。


 思考を巡らせていると、ふいに背後から嫌な視線を感じる。すぐに身を隠すと、〈気配察知〉を使い周囲に潜む脅威を探し出す。けれど近くで大規模な戦闘が行われているからなのか、瘴気によって気配が散らばっていて脅威は見つけられなかった。気の所為だろうか、冷ややかな視線で背後を振り返ったあと、再び意識を前方に集中させる。


 砦にいるルズィに状況を知らせる必要があると判断し、闇に溶け込むように歩を進めつつ、敵に会話を傍受される危険性を承知のうえで〈念話〉を使う。


 そこで思わぬ事態になっていたことを知る。どうやら他の敵拠点を襲撃していた古参の守人たちも正体不明の敵に遭遇し、予期せぬ戦闘に発展したようだ。その報せを受けると、アリエルの表情は険しくなる。想像していたよりも広範囲に亘って、〈クァルムの子ら〉が潜伏しているかもしれない。


 暗闇に溶け込むように進むアリエルは、周囲に警戒しながら〈クァルムの子ら〉について知る限りの情報をルズィに伝えていく。もっとも、かれの知識は古い書物によるモノであり、知っていることは限られていた。


 そこで彼らが奴隷を犠牲にして〈混沌の化け物〉をこの世界に顕現させるということ、そしてその忌まわしい儀式の目的が、どうやら〈クァルム〉という古き神に生け贄を捧げることだと伝える。奴隷の血肉によって召喚されるのは、紛れもなく〈混沌の化け物〉だと分かると、ルズィは深いため息をつく。


『つまり――』彼はいつになく深刻な声で言う。『その化け物が召喚される前に、生け贄にされる奴隷を始末すればいいんだな?』


 それは残酷な結論のようにも思えたが、脅威を排除するために奴隷を始末する、という手段が必要なことも分かっていた。たとえ、そこにある種の不条理さが存在していたとしても。〈クァルムの子ら〉に捕らえられ、精神そのものを縛られた奴隷たちは、今や儀式の道具でしかない。


 頭では必要なことだと理解しながらも、その非情な選択に重苦しさがつきまとう。森の民を守るために存在する守人が、その身を守るために部族の人間を犠牲にしなければいけない。それでも、アリエルは情報を伝えていく。〈クァルムの子ら〉の特徴──幅広い笠に、素肌を覆い隠す布や異様な形状の革鎧、素肌を見せない装束など。


 彼らの装いは夜の闇に紛れるのに適していて、つねに襲撃に備えなければいけない。ひと通り情報を伝えると、敵に感知される前に〈念話〉を終え、アリエルは再び戦士の追跡に集中することにした。冷たい緊張が周囲の闇を満たし、息を呑むほどの重圧となって迫ってくるようだった。


 敵の気配が近づいてくると、アリエルは木々の間にその姿を隠し、徐々に敵との距離を詰めていく。月明かりがわずかに射し込む森のなか、敵は無防備にも背を向け、目の前にある古びた石像を見つめている。


 その奇妙な石像は、苔とツルに覆われ、時の流れとともに忘れ去られた異形の神像を思わせる。その石像に絡みつくツル植物を無造作に引き剥がしていくと、隠されていた姿が徐々に露わになっていく。


 まるで雄鹿のような頭部を持つ異様な戦士の姿が見えた。角はねじれ、先端に向かって刃のように鋭い。その眼孔は深く暗い空洞で、不気味な虚ろさがある。それは見慣れない種族だった。かつてこの森に存在した獣人種か、それとも異界から来た者だろうか。判断のつかない異様さが、周囲の空気をひりつかせ、冷たい汗が首筋を伝うのを感じた。


 敵の隙を突く好機に見えたが、異形の戦士は重苦しい殺気をまとっていて、警戒を怠っているようには見えない。アリエルは息を潜め、枯れ葉や小石を踏まないよう、慎重に足を運び、より有利な位置に移動していく。戦いを前にして感覚がより鋭くなっていくが、攻撃の瞬間を見極めるたけ心を静めていく。


 やがて戦士は石像に手をかけると、ぐらぐらと揺らすようにして体重をかけながら押し倒す。石像は硬い音を立てて崩れ落ちた。砕けた石片が散り、静寂のなかに鈍い音を響かせる。それから戦士は残骸に手を伸ばすと、黒い物体を拾い上げる。


 なにか重要なモノなのだろう。戦士はそれを手に取り、しばしの間、じっと眺めていた。宝玉だろうか、くすんでいて暗い色合いをしていたが、微かに禍々しい瘴気を帯びていた。触れる者を蝕むかのような異質な気配が、遠くにいても感じられるほどだった。


 敵がその宝玉に注意を奪われている間、アリエルは息を整え、敵に視線を定めた。それから長弓を手に取ると、ゆっくりと矢をつがえて攻撃の瞬間に備える。

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