第323話 20


 アリエルは中段に剣を構えまま、じっと相手の動きを観察していた。広い笠を含め、その独特な容姿から、まず間違いなく〈クァルムの子ら〉だと推測することができた。ただでさえ異質な相手だったのに加え、彼らがその身にまとう邪悪な気配に、何か不吉なものを感じざるを得なかった。


 すると戦士のひとりが動きだした。奴隷が身につけていた薄汚れたボロ布を何の躊躇いもなく引き裂くと、手にしていた黒い刃で奴隷の腹部を無造作に斬りつけた。血液が噴き出す、というよりも、まるで熟れた果実が裂けるかのように皮膚がめくれてヌメヌメとした内臓が露出する。


 その動作のひとつひとつがあまりにも自然だったので、アリエルの反応が遅れてしまったほどだった。日常的に行っている仕事のように、一切の感情を感じさせなかった。それから戦士は、おもむろに小さな肉の塊を取り出す。それは湿り気を帯びた蛙の卵のように気色悪く、光の加減で半透明な皮膜が光を反射するのが見えた。


 戦士はその奇妙なモノを――薄い膜に包まれたブヨブヨとした物体を、奴隷の裂けた腹に押し込み、無言で一歩下がった。その間、奴隷は虚ろな目をしたまま立っていた。痛みすら感じていなかったのだろう。しかしやがて変化が生じる。


 ――つぎの瞬間、奴隷の全身が痙攣するのが見えた。四肢が硬直し、唇の隙間から泡を吹くようになる。すると腹部から肉の触手が飛び出すのが見えた。触手はうねうねと動き、獲物を探し求めるようにうごめきながら、太く、長く伸びていく。


 その異様な光景にアリエルは息を呑んだ。触手は見る見るうちに成長し、奴隷の腹から溢れるように広がり、どんどんその存在感を増していく。


 戦士は――〈クァルムの子ら〉のひとりは、その様子を淡々と観察したあと、すぐとなりに立っていたもうひとりの奴隷に向き合った。戦士の手が再び動き、今度は奴隷の喉を横に斬り裂いた。刃が空気を切り裂く鋭い音が響き、奴隷の首元から鮮やかな血が噴き出す。奴隷の身体から力が抜けると、かれは膝から崩れ落ちた。


 すると戦士はその奴隷の背中を蹴るようにして、先ほど触手が生えた奴隷の方へと無造作に押し付ける。すると触手は、血に飢えた獣のように奴隷の腹部から飛び出し、もうひとりの奴隷の喉に絡みついた。そのまま強烈な力で奴隷の身体を締め付け、血を絞り取るかのようにさらに締めあげていく。


 哀れな奴隷の喉からは弱々しい音が漏れ、白目を剥き、最期の瞬間を迎えようとしていた。抵抗することもせず、触手にのみ込まれながら倒れたふたりの奴隷は、一体化しながら異形の姿に変わり果てていく。冷酷な戦士は、ただその様子を見守っていた。


 それこそが、この世に存在してはいけない異形を顕現させるための忌まわしい〈クァルムの子ら〉の儀式だったのかもしれない。ふたりの奴隷が痛みと絶望に苛まれ、その命が無残にも奪われていく過程で、儀式はゆっくりと進行していく。彼らは、生け贄の苦痛と生命を肥沃な土壌として、この世界に異界の化け物を呼び寄せているのだろう。


 豹人の姉妹が膨大な呪素じゅそを使い異界から〈呪霊〉を呼び寄せるように、〈クァルムの子ら〉は人間の肉と魂を代償にし、この世のことわりそのものを歪めながら化け物を召喚する。


 しかし姉妹の呪術と比べれば、〈クァルムの子ら〉が行う儀式はあまりにも原始的で、残虐極まりないものだった。苦痛や悲鳴を祈りに変え、肉体そのものを異形の化け物に変える光景は、まさに混沌の所業そのものだ。


 やがて、ふたりの戦士はそれぞれの奴隷を連れて森の闇に消えていく。彼らには別の目的があるのだろう。拠点を攻撃した我々にも興味はないのだろう、その場に残されたひとりの戦士を除いて。かれは依然として、儀式を見守るように立っていた。そして――混沌から異形が生まれ出る。


 奴隷の肉体が奇妙に融合し、粘り気のある泥の塊のように溶け合い、混ざり合いながら膨張していく。浅紫色のぶよぶよとした皮膚が垂れ下がり、ヌメリのある湿った肉の塊が溶けた蝋燭ろうそくのように、ゆっくりと流れ落ちる。ところどころに不気味な肉腫が形成され、その周囲に太く刺々しい毛がぼつぼつと生えていく。


 禿げあがった頭部には、いくつもの眼球が不規則に並んでいる。それぞれの眼は異様に膨らんでいて、じっとりと濡れた大きな瞳孔が、キョロキョロと辺りの様子を窺っている。その眼に見つめられるだけで、奇妙な寒気が走るのを感じた。


 その眼球の下には異様に大きな口が――まるで横に引き裂かれたかのように広がり、その中に無数の牙がびっしりと並んでいた。牙は重なり合い、粘液質の涎を垂らしている。


 背中や胴体には、無数の肉のひだが生えていて、それはうねうねと絶え間なく蠢いていた。まるで異なる生物のように、その襞は独自の意思で動き、肉体を包み込んでいた。そして首元には、あの奇妙な触手が生えていた。それは獲物を捉えようとしているのか、つねに動いていて、先端からは粘液のようなものが滴り落ちていた。


 目にするだけでも狂気を呼び起こす化け物は、まさしく混沌の生物であり、それは決して森に存在してはならないモノだった。


 異形の化け物と対峙したからなのか、アリエルは右腕が微かに熱を帯び、〈獣の腕〉が脈動するのを感じた。脈打つたびに腕の筋肉が震え、猛獣が腹を空かせているかのような感覚に支配された。混沌を屠るためだけに存在し続けてきた〈呪われた獣〉――その忌まわしき力が、目の前の異形を認識し反応している。


 それと同時に、面頬も異様な反応を示していることに気づく。微かに聞こえていた波の音に、戦場の闇に囚われた亡者たちのうめき声が交じり合うようにある。意識の中で渦巻く衝動――その場で敵を叩き潰し、肉片に変えるまで襲い掛かりたいという、破壊への渇望がアリエルの心を支配していく。


 けれど相手は、古い書物でしかその存在が知られていない忌まわしき種族だった。ただの傭兵と侮ることはできない。まずは相手の動きを見極めるべきだった。


 ふと笠をかぶった戦士が一歩、また一歩と後退するのが見えた。この場から去るつもりなのだろうか。ほぼ無意識に反応し、瞬く間に〈石礫〉を形成すると、空中に漂うソレを〈射出〉の呪術で撃ち放つ。


 目にもとまらぬ速さで放たれた岩の塊は、鋭い唸りを上げながら飛翔していく。確実に戦士を捉えた。そう思っていたが、異形の化け物が突如として戦士を庇うように、その醜い身体を晒した。


 拳大の岩の塊は肉を引き裂き、ぶよぶよとした肉腫は破裂し、黄土色の体液が周囲に飛び散る。〈石礫〉は身体の奥深くまで食い込んだが、化け物は痛みを感じるどころか、怒りに突き動かされたように突進してくる。


 突進してくる異形の化け物は、まさに悪夢の具現だ。裂けた皮膚の隙間からはき出しになった内臓が見えていて、ヌメリのある粘液に濡れながら垂れ下がっている。その粘液が地面に滴り落ちるたび、腐臭を含んだ瘴気が辺りに漂い、息をするだけで喉を焼くような感覚があった。


 その肉の裂け目からは異様な触手が伸び、獲物を捕らえようと空中で蠢く。そしてヌメヌメとした光沢を帯びた触手の一本が、アリエルの顔をかすめるように伸びてくる。かれは横に飛び退くと同時に触手を切り裂くが、絶えず蠢く触手は猛然と迫ってくる。その恐ろしい化け物の攻撃に抗うように〈獣の腕〉が熱を帯び、青年に力を与える。


 アリエルは突進してくる化け物に向かって剣を振り下ろす。触手が瞬時に反応し、剣に巻きつくようにして伸びてくるが、〈獣の腕〉に宿る力がそれを許さなかった。鋸歯状の刃が強引に触手を斬り裂くと、ぶよぶよとした肉腫が剥がれ、気色悪い体液が飛び散る。


 だが化け物は怯むどころか、その傷口からさらに多くの触手を伸ばしていく。さらに醜悪な姿をさらしながら、化け物はアリエルを捉えようと這い寄ってくる。

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