第322話 19〈クァルムの子ら〉
アリエルは足元に転がる死体を眺めながら、飢えた獣のように標的を探していた。振り向くと、地面に突き刺さっていた血まみれの剣が見えた。その柄を握り、一気に抜き放つと、再び警戒心を高めていく。遠くからは、豹人の姉妹が放つ呪術の爆発音が鈍く響き、拠点全体に地鳴りのような振動を伝えていた。
地面が微かに震え、視界の隅で枝葉がざわつく。けれどアリエルの注意を引いたのは、周囲に立ち込める濃い瘴気だった。拠点内に漂う瘴気は淀み、空気そのものを重くしているようだった。それは呪術の影響なのか、それとも戦場に染みついた死と破壊が影響しているのかは分からない。いずれにせよ、それは悪い傾向だった。
ふとアリエルは眉をひそめながら、どこからともなく近づいてくる不吉な気配に注意を向ける。すると瘴気に引き寄せられるかのように、忌まわしい気配が近づいてくるのが分かった。
暗闇に沈む木々の間をじっと見つめていると、ぼんやりと影が揺れるのが見えた。その姿がハッキリと見えるようになると、みすぼらしい格好の部族民が姿をあらわす。彼らは痩せこけていて、骨と皮だけになっていた。身につけている薄布は汚物にまみれていて、布の裂け目からは化膿した傷口が見えていた。
ボロ布のような衣服は、彼らの苦しみを物語っているようでもあった。顔は泥と血にまみれ、目は虚ろで、希望のかけらもない。もはや人間としての尊厳すら失われてしまったかのようだった。
彼らは犬のように錆びついた鎖で繋がれていた。その鎖は無造作に引き
その鎖の先には、見るからに怪しい者たちが立っていた。呪術師かと思われたが、その怪しげな恰好からは何か奇妙な気配が感じられた。鎖を握る手は力強く、奴隷たちを冷酷に支配している。
異様な静けさと邪悪な気配をまとった者たちを見て、アリエルは砦の書庫で見つけた古い書物のことを思い出していた。
その忌まわしい種族は混沌の神々に仕えていて、混沌の化け物に奴隷の命を捧げる儀式で知られていた。彼らの風体は異様で、過酷な環境と暗黒の世界に適した格好をしているという。アリエルは突発的な戦闘に備え、体内の
まず目につくのは顔を覆う黒い頭巾だ。厚めの黒い布が何層にも重なり、目以外の部分を隠すように巻かれている。露出した目の周囲は、まるで焼け
頭には鉄紺に染められた広い笠をかぶっている。この笠は古びたものであり、ところどころ破れ傷ついている。笠の影が彼の顔に重なり、さらに不気味で近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
黒い装束に合わせて深い青紫色の羽織を身につけていたが、どこか薄汚れていて、赤黒い染みや乾いた泥が付着しているのが見られた。戦闘だけでなく、忌まわしい儀式にも使われているのかもしれない。
彼らは奇妙な形状の剣を手にしていた。この剣は刀身が湾曲していて、先端が重く鋭くなっている。刃は血で錆びついているが、それでも異様な気配が感じられた。単なる武器ではなく、呪術の効果が付与された遺物なのだろう。刃には見慣れない文字や符号が刻まれていて、呪術的な力を秘めていることが分かる。
裸足で歩き続ける奴隷たちの絶望と苦痛を余所に、彼らは機能性を重視した革の長靴を履いていた。それは薄い鉄板や毛皮で補強されていて、密林や雪にも対応しているようだった。やはりただの奴隷商人ではないのだろう。数世代にわたる邪悪な歴史と、呪われた血統を持つ〝戦士〟なのだろう。
アリエルは奴隷を連れた者たちの姿を観察しながら、頭の中でこの異様な種族の名前を必死に思い出そうとしていた。奴隷を引き連れ、暗い瘴気の中を移動するその姿に、何か記憶の奥底に引っかかるものがあった。やがて古びた書物に書かれていた名前が浮かび上がってくる。
――〈クァルムの子ら〉と。
その名を思い出した瞬間、ゾクリと背筋に冷たいものが走るのを感じた。〈クァルム〉は神代に実在した〈死者の神々〉の一柱とされていた存在だ。しかし、その名は多くの書物から抹消されていて、邪神について詳しいことはほとんど知られていなかった。もちろん、砦の書庫にも関連する書物は存在しなかった。
わずかに残された記録によれば、〈クァルム〉は森と異界の狭間にある暗い領域を徘徊する者の名であり、生と死の間を彷徨う者たちの魂を死者の国に連れ去ることを使命とする恐ろしい神であったという。
その〈クァルム〉に仕える者たち、すなわち〈クァルムの子ら〉は、暗い領域に生息する生物を操り異界の力を手中に収めるため、恐ろしい儀式を繰り返してきたという。彼らは敵対的な部族の捕虜を奴隷として〈クァルム〉に捧げ、生け贄によって神の祝福――あるいは呪いを授けられると心から信じていた。
彼らが信じるその〝祝福〟は、体内に異形の力を宿し、生と死の境界を曖昧にするものだと記録されていたが、多くの場合、異界から化け物を呼び寄せるために行われるという。
奴隷たちは儀式の場で生きたまま神の前に引き出され、次々とその血が捧げられる。神に捧げられた魂は二度と戻ることはなく、その肉体は〈クァルムの子ら〉によって操られる。奴隷たちは死と共に生き、永遠に死者の従僕としてこの世に留まる運命にある。
荒れ果てた地で行われる忌まわしい儀式、鎖につながれた生け贄が用意され、異様な風体の者たちが狂気じみた声で呪文を唱える。生け贄が次々と血を流し、死んだような瞳で虚空を見つめるなか、〈クァルムの子ら〉はその肉体を従わせ、まるで操り人形のように彼らを使役する。
儀式によって異界の力を操るようになった〈クァルムの子ら〉は、常人の理解を超えた神との繋がりを持ち、魂を媒介にして混沌の闇をこの世に呼び出す。だからこそ、彼らの周囲には濃い瘴気が漂い、つねに死臭が漂うのだ。それこそが彼らが持つ恐怖の力――死者を自在に操り、生者を死者へと変える闇の力の正体なのかもしれない。
相手は三人で、それぞれがふたりの奴隷を鎖でつないでいる。奴隷たちは飢えと疲労で痩せ細り、虚ろな目で足元を見つめている。ぼろ布をまとい、泥にまみれたその姿は生きる屍のようだ。鎖が引かれるたび、鈍い金属音が静寂の中に響き、瘴気の漂うこの異様な戦場に不気味な緊張感を漂わせていた。
アリエルはそこで面頬が――まるで意思を持っているかのように、〈クァルムの子ら〉に反応していることに気がついた。あの囁きが耳元で聞こえる。くぐもって聞こえていた声は、今では明瞭に聞こえ、耳の奥で木霊している。
その声は不吉だが、どこか魅惑的でもあった。それはアリエルの心を操ろうとするかのように冷たく、そして誘惑的でもあった。この面頬もまた、邪神を信奉する者たちに由来するものであり、今も混沌の影響下にあるからなのか、あの忌まわしい種族との間に何かしらの繋がりを感じているのかもしれない。
奇妙な囁きが続いているにも
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