第328話 25


 巨竜を倒したことで、ようやく森は邪悪な気配から解放されつつあった。アリエルは荒れ果てた地面に膝をついたまま、ふと近くに転がっていた宝玉に目をとめた。先ほどまで禍々しい輝きを放っていたソレは、今や輝きを失い、くすんだ石のような姿に変わり果てていた。


 無意識に手を伸ばして拾い上げると、冷たく硬い感触が指先に伝わるが、重量感がなく奇妙なほど存在感を失っているように思えた。青年はちらりと鉄紺に染まる自分自身の指先を見つめたあと、すぐに奇妙な宝玉に視線を戻す。


 すでに瘴気も放出しなくなっていて、あの禍々しい気配も感じられない。ただの石に見えるものの、アリエルはそこに潜む未知の力を警戒していた。


 それでも砦に持ち帰って調べることに決めた。豹人の姉妹は〈鑑定〉の呪術が使えるので、この宝玉に秘められた呪術の一端を見抜くことは難しくないはずだ。ただし、その正体について知ることはできないと理解していた。〈鑑定〉の呪術はそこまで便利なものではない。けれどそれで充分だ。宝玉の特性を知ることができればいい。


 それに、砦には武具師の〈石に近きもの〉がいる。彼は古代の彫像や不気味な造形物に関して無類の知識を持っていた。〈クァルムの子ら〉が破壊した彫像についても、何か分かるかもしれない。


 力の一部が失われたようにも見えたが、宝玉を持ち歩いても危険性はないのだろうか。あれこれと考えたあと、氷で完全に覆い尽くして、そのなかに閉じ込めることにした。これで瘴気が噴き出すような事態になっても、外に漏れることはないだろう。


 アリエルは息を整えながら、呪われた右腕に籠手を装着し直す。治療されたばかりの敏感な皮膚に触れるたび、微かな痛みがじんわりと感じられたが、そんなことに構っている余裕はない。籠手をしっかり締めると、暗い森に視線を向ける。


 敵拠点では、今もノノとリリが戦っているはずだった。すぐに彼女たちの支援をしなければいけない。ラファに声を掛けたあと、暗い木々の間を駆け出した。


 しばらくすると呪術による爆発音と怒号が聞こえてくる。どうやら、まだ激しい戦いが繰り広げられているようだ。閃光が炸裂するたび、木々の影が揺れ動いて、進むべき道を見失いそうになる。けれど今は気配を隠す必要がなかったので、全力で駆け抜け、敵拠点にたどり着くことにだけ集中する。


 その道中、戦場から逃げ出してきた蛮族の戦士や傭兵たちの姿が見えた。疲れ果てて武器を手放した者や、負傷している者がうめき声を漏らしながら座り込んでいる。アリエルは相手にせず、冷たい目つきで前方だけを見つめる。


 彼らのことは放っておいても、いずれ〈獣の森〉に生息する捕食者や混沌の化け物が処理してくれる。今はそれよりも、豹人の姉妹が待つ敵拠点に向かうことを優先する。


 しかしその脱走兵のなかに、アリエルとラファの行く手を阻む者たちがいた。狂気を帯びた眼で武器を振りかざし、斬りかかってくる数人の蛮族たちの姿が見えた。鋭い刃が夜の空気を切り裂く。


 アリエルは瞬時に身をかがめ、敵の懐に向かって踏み込む。彼の手は自然に腰に差していた剣に伸びていて、左手の籠手で相手の刃を受け止めると同時に反撃の一閃を繰り出す。


 鋸歯状の刃に斬り裂かれた蛮族のひとりが呻き声を上げて倒れると、アリエルは振り返ることなく走り続けた。執拗に行く手を阻もうとする者もいたが、ラファが的確に矢を放ち、彼らを射殺していく。短い戦闘の音は風にかき消され、再び緊張感をはらんだ静寂が戻ってくる。


 そこに森を揺るがすような轟音が響いて足元に振動が伝わる。前方の木々が次々と薙ぎ倒され、無数の枝葉が空中を舞いながら地面に降り注いだ。そしてその中に、気色悪い生物の巨体が見えた。


 ぶよぶよとした脂肪と無数の腫瘍に覆われたその化け物は、爆発的な音とともに地面に衝突する。衝撃で大気が炸裂し、耳をつんざく衝撃波が残響となって広がる。


 その化け物は、〈クァルムの子ら〉が奴隷を犠牲にして顕現させた異形だった。無数の手足が奇妙な角度で折れ曲がり、裂けた腹部からは吐き気を催す内臓がこぼれ落ちている。


 脂肪に覆われた体表はひび割れていき、黄土色の膿が溢れ出る。それが徐々に勢いを増し、膨れ上がっていた腫瘍がぷつぷつと破裂し、腐敗した臭気が辺りを包み込む。青黒い肉塊が体内から崩れ落ちるようにして剥がれ、骨や臓器の残骸がドロリと音を立てて地面に転がる。


 濃い腐臭と共に瘴気が立ち昇る。その瘴気は重く、まるで化け物の残り香のように地表スレスレを漂いながら、低木や植物を一瞬で枯死させていく。化け物の表面を覆っていた脂肪も液状に変わり、黒い水溜まりのように広がって地面を蝕んでいく。


 姉妹の〈呪霊〉がやったのだろう。これほどの大規模な破壊を起こせるのは超常の存在だけだ。その破壊に巻き込まれた戦士たちの呻き声を耳にしながら、アリエルとラファは敵拠点に侵入する。


 火の粉がちらちらと風に舞い、倒れた柵や倒壊した見張りやぐらが地面に散らばっている。地表は土と灰が混ざり合い、そこかしこで燃え残った倒木が黒く焦げているのが見えた。戦闘の爪痕は拠点全体に深く刻まれている。姉妹が呼び出した〈呪霊〉と化け物の激しい戦闘の影響だろう。


 暗がりからは、傷を負いながらも生き延びた戦士たちの声が木霊していた。耳をそばだてなくても、負傷者たちの喘ぎ声が聞こえ、喉の奥から絞り出されるような痛みと絶望が混じっているのが分かる。


 そのすぐそばには、呪術師たちが用意したと思われる深いほりがある。森に潜む捕食者の侵入を防ぐために用意したのかもしれない。


 しかし運命は残酷だった。戦士たちは戦闘に巻き込まれないように、その堀を避難場所として利用しようと考えたのだろう。堀の底には折り重なるように戦士たちの死骸が高く積まれ、その表情は恐怖に歪んでいた。


 化け物の体内から噴出していた濃い瘴気は、空気よりも比重が重く、堀の底に溜まっていたのだろう。深い堀に閉じ込められた濃密な瘴気は、そこに逃げ込んだ者たちを容赦なく襲った。


 戦士たちの多くは目や耳、鼻や口から血液を吐き出しながら死んでいった。彼らの表情には苦痛と恐怖が残され、その目は半ば開き、血で濁っていた。


 その瘴気には悪臭と腐臭が混じり合い、息を吸うごとに喉を焼くような刺激を伴っていた。アリエルは一瞬立ち止まると、闇の中に沈み込んだ堀に視線を向けるが、すぐにその場から離れた。


 激しい戦闘の音が風に乗って耳に届くなか、凄まじい破裂音が鳴り響いて、続いて〈火球〉が赤い閃光を発しながら飛んでくる。


 それはすぐ近くの地面で炸裂し、土砂と火花を巻き上げ、熱波が襲いかかる。アリエルは思わず顔をしかめ、その熱に焼けるような感覚に一瞬、目を細めた。


 すると黒煙の中から傷だらけの呪術師が姿をあらわす。老婆の身体には無数の傷がついていて、衣服や毛皮は炎に焼かれ、あちこち焦げている。目は血走り、狂気と恐怖が同居するような奇妙な表情が浮かべていた。彼女も戦闘から逃げ出してきたのだろうか。


 アリエルたちの姿を目にすると、老婆は力を振り絞り、声にならない呪文を唱え始める。その震える指先は光を帯び、再び攻撃を仕掛けようとしていることが分かった。しかしその瞬間、ラファが放った矢が音を立てて飛び、彼女の喉を鋭く貫いた。老婆の目は大きく見開かれ、喉から血が噴き出す。


 彼女はその場に膝をつくと、薄く開かれた唇から泡立つような血を吐き出す。最後の力を振り絞るかのように手を合わせようとしたが、その眼はすでに力を失っていた。やがて老婆は崩れ落ち、冷たい地面の上で動かなくなった。


 もうすぐ豹人の姉妹と合流できる。ふたりは気を取り直して、あちこちで炎が立ち昇る激戦地に足を踏み入れた。

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