第122話 22〈糸を紡ぐもの〉


 崩壊した遺跡の陰に肉食昆虫の死骸が横たわっているのが見えた。その死骸には親指大ほどのニクバエが群がっていて、絶えずあつかましい羽音を立てている。


 そこにゴキブリだろうか、二の腕ほどの大きさの昆虫がやってきて、蛆と寄生虫がうごめく死骸におおかぶさる。それは吐き気をもよおす光景だったが、湿地のあちこちで見られる珍しくもない光景のひとつでもあった。


 でもだからといって、その光景に慣れることはできなかった。たとえば、ニクバエにまれてしまうと、その傷口から腐っていくだけでなく卵を産みつけられてしまう危険性もあるのだ。そうなると、異常がある箇所の大部分をえぐり取るように除去しなければいけなくなる。


 けれど問題はそれだけではない、蠅の唾液や体液に含まれる毒も危険なのだ。激しい痛みや吐き気、手足のしびれに眩暈めまいを伴う症状は卵を除去しても身体からだに残ってしまう。


 ヴィルマの遠吠えが聞こえると、ラファは昆虫の死骸から視線を外して、背の高い雑草の間に姿を見せた傭兵たちの姿を確認する。偵察に出ていた〝影のベレグ〟の報告通り、赤ら顔のバヤルが指揮する傭兵たちは武器を手にしていて、すでに襲撃の準備を終えているようだった。


 少年は地面に突き立てていた矢を拭き抜くと、敵から視線を外すことなく矢をつがえる。それから弦を引いて、正確に狙いをつけるために引き絞ったままの状態を維持した。と、そのときだった。少年を標的にした矢が何処からか飛んできて、不可視の障壁によって軌道をらされる。〈矢避けの護符〉を使用していなければ、致命傷になっていたかもしれない一撃だった。


 しかしラファは冷静だった。狙いが定まると敵に向かって矢を放った。が、傭兵も護符を使用していたのか、狙い澄ましたように飛んでいった矢は雑草の間に消えていく。少年は慌てず、地面から二本目の矢を引き抜いて弓につがえた。矢避けの効果は長続きしない。そう思って矢を射るが、今回も狙いが外れてしまう。どうやら傭兵たちが使用している護符は、豹人のノノが作製した上等な護符だったようだ。


 ラファは舌打ちすると、地面から三本目の矢を引き抜いた。と、そこに敵の射手が放った矢が飛んでくる。少年は反射的に遺跡の陰に身を隠し、一呼吸したあと、矢が飛んできた場所を確認する。しかし敵は巧妙に姿を隠しているのか、その姿を見つけることはできなかった。〈境界の砦〉にいるときは、獣や怪物の相手ばかりしていたので、少年は人との戦いが苦手だった。


 しかしすぐに苦手意識を捨てなければこちらがやられる。ラファは息をついたあと、猛然と駆けてきていた傭兵に最後の矢を射る。さすがに三度目の衝撃は防ぎきれなかったのか、少年が放った矢は若い男の喉に突き刺さる。その矢を放った直後に駆け出していた少年は、またたく間に敵傭兵に接近すると、その胸に容赦なく刀を突き刺した。


 血を吐きながら前屈みに倒れようとしていた男の身体を蹴るようにして刀を引き抜くと、草むらから飛び込んできた男に視線を向ける。


 血走った目をした髭面の男は両刃の斧を振り上げていて、今まさに少年に向かって斧を振り下ろそうとしていた。その刹那せつな、男の表情に勝利を確信したいやらしい笑みが浮かぶのが見えた。しかし彼の思い通りにはいかなかった。疾風しっぷうごとく駆けてきた白銀のオオカミに、傭兵は腕を咬み千切られてしまう。


 痛みに悲鳴を上げていた男を斬り殺したあと、ヴィルマに感謝の言葉を口にする。彼女は少年の胸に頭を擦りつけたあと、敵を排除するため、背の高い草むらのなかに入っていく。オオカミの姿が見えなくなると、少年は傭兵の頭を踏みつけるようにして首に突き刺さっていた矢を引き抜くと、攻撃のために手放していた弓を拾いに行くことにした。


 一方、遺跡の周囲に林立する枯れ木の陰に潜んでいたベレグは、野営地に対する襲撃を指揮していたバヤルの姿を探していた。しかし優先的に排除される対象に指定されていることを知っているからなのか、その姿を見つけるのは困難だった。あるいは、別の場所に隠れていて、この襲撃には参加していないのかもしれない。いずれにせよ、次々と姿を見せる傭兵たちに対処する必要がった。


 遠征隊に参加していた傭兵たちに仲間意識を持っていなかったからなのか、ベレグは容赦なく敵を排除していく。種族特有の能力〈影縫い〉で敵傭兵を拘束すると、〈抵抗の丘〉で入手していた飛びクナイを投げ、こちらの動きを察知される前に殺していく。


 その両刃の小さな武器の柄尻にはひもを通す輪がついているので、敵に姿を見せることなく武器を回収することができた。クナイに使用されている紐は、柔軟性と剛性に優れた硬度の高い大蜘蛛の糸が利用されている。


 ちなみに〈リントォ・フィアング〉、糸をつむぐものとも呼ばれる蜘蛛は、家屋かおくほどの体長があり、特別な訓練を受けた調教師と世話人によって巣が管理され、貴重な糸を手に入れるために保護されているのだそうだ。


 それにしても、とベレグは次の標的を探しながら思考する。傭兵たちはいくつかの小部隊に別れて湿地を探索しているはずだったが、その部隊の多くが合流して野営地に攻撃を仕掛けてきていた。それはバヤルが、呪術器に頼らなくても各部隊と連絡が取れる手段を事前に準備していたことを意味しているのかもしれない。


 襲撃者たちは遺跡の中心部に設置された転移門のそばにまだ姿を見せていなかったが、彼らが沼地から追い立てた〈キピウ〉の群れがあらわれて、門に対する断続的な襲撃が行われていた。〈白冠の塔〉につながる門は照月家のふたりの武者と、女性たちの護衛を任されていたメアリーが数名の女戦士と一緒に警備していたので被害は出ていなかった。


 そこに数人の傭兵が姿を見せる。彼らは呪術を使うことはできなかったが、偵察任務に出るさいにルズィから支給されていた〈呪符〉で――攻撃に特化させた護符で攻撃を仕掛けてきた。


 呪符が燃え尽きて灰に変わる一瞬のあと、呪術の炎が放たれるのが見えた。〈火球〉はキピウを相手にしていた女戦士に向かって真直ぐ飛んでいく。が、すんでのところでイザイアがあらわれて、女性の身体を後方に引っ張ることで直撃を逃れることができた。どうやら偵察に出ていたイザイアも傭兵たちに襲われて、野営地まで逃げてくる必要があったようだ。


 彼は女戦士の無事を確認すると、〈黒の戦士〉に相応しい達人めいた剣術で襲撃者を斬り伏せると、キピウの群れに対処するべく、メアリーの指揮下に入り戦闘を継続した。


 戦狼いくさおおかみのアルヴァを連れて偵察に出ていた豹人の姉妹が遺跡に戻ってくると、戦場になった遺跡は、いよいよ混迷の様相ようそうていするのだった。



〈リントォ・フィアング〉あるいは、〈糸を紡ぐもの〉。


 温厚な性格で知られる希少な大蜘蛛であり、攻撃されることがない限り人を襲うことはないとされている。腹部からではなく、口から吐き出される貴重な糸を手に入れるため、名家や商人たちによって管理され世話をされてきたが、その生態については謎が多く、どのように繁殖するのかも分かっていない。しかし金の鉱脈を探し求める山師のように、豊富な知識と経験を持つ人々によって巣は発見されてきた。


 大蜘蛛の巣となる洞窟は悪臭が漂い、蜘蛛の餌となる獣の腐敗臭と果実が腐ったような刺激臭に満たされるため、世話人の多くは過酷な労働環境で働くことを強いられることになるが、糸によって得られる莫大な利益は人々を魅了してやまないため、かれらは率先して蜘蛛の世話をするとされていた。


 また〈糸を紡ぐもの〉は人間よりも遥かに長い寿命を持つ生物であり、利益を独占するために大蜘蛛の存在は秘匿され同族経営が貫かれていることでも知られていた。

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