第259話 40


 三人は夜陰にまぎれるようにして〈境界の砦〉を出発し、〈巨頭の丘〉に向かった。夜の森は冷たく静まり返り、深い暗闇に包まれていた。足音を立てずに進むアリエルたちの姿は、あるいは闇に溶け込む影のように見えたのかもしれない。


 青白い月明かりが木々の隙間から射し込み、地面に淡い光と影を浮かび上がらせていく。遠くからフクロウの鳴き声が聞こえると、暗闇に沈み込む茂みがざわざわと揺れた。


 暗い森を進むにつれて、空気はますます冷たく、そして重くなっていった。風がうなりをあげて木々の間をすり抜けていく音が、ときおり幽鬼のささやき声のように聞こえる。道中、豹人の姉妹が先行して、その軽快な身のこなしで周囲に異常がないか調べながら進んでいた。彼女たちの獣めいた敏感な感覚は、風に乗るニオイや音まで拾い上げていた。


 暗闇に浮かび上がる姉妹の大きな眼は、月明りを反射して煌々と輝いていた。しばらくして〈巨頭の丘〉が見えてきた。高台にそびえる無数の巨石人頭像が月光に照らされ、森に不気味な影を落としている。


 その静寂のなかに漂う厳かさと呪素じゅその残滓が、かつてこの場所が聖域だったことを静かに物語っているように感じられた。巨石は数百年の時を経て苔むし、樹木の根に埋もれながらもなお、その威圧的な姿を誇示していた。木々の間から漏れる月光が石の表面をあやしく照らし出すと、巨石が森を見つめているように見えた。


 緊張感の漂う重苦しい空気のなか、三人は深い茂みをかきわけるようにして遺跡に近づく。そのさい、〈虫除けの護符〉に反応して多くの昆虫が驚いて飛び退くのが見えた。


 遺跡に侵入すると周囲の景色だけでなく、空気すら変化したように感じられた。木々の枝葉が風に揺れ、ずっと遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。しかしひっそりと静まり返る遺跡に生物の気配はなく、瘴気や混沌の影響も見られない。夜の静寂は一層深まり、執念深くて、冷たい憎悪を抱く何かに見つめられているような嫌な感じがする。


 それでも背の高い雑草を刈りながら進むと、倒壊した石造りの建物が樹木の根に覆われている光景が見えてくる。崩れた塔からは紫の葉を持つ巨木が突き出していて、月明りを受けて燐光を帯びるように微かな光を発していた。


 人頭像も太い根に覆われて樹木に埋もれていたが、いくつかは当時の状態で残されていた。人の顔を模した像だが、獣人種族だけが持つような特徴を有していた。鼻口部が長く、下顎から突き出すイノシシのような二本の牙、それに彫りの深い顔立ちが特徴的だった。この地を支配した部族を象ったものなのか、それとも神の姿なのかは分からない。


 遺跡の中心に足を踏み入れると、周囲の空気がいっそう冷たくなったように感じられた。崩れた壁や倒れた列柱が、かつての繁栄をしのばせる。足元に視線を落とすと、古い石畳と水道の残骸が所々残っているのが確認できた。苔が生い茂り、年月の経過を感じさせたが、当時の建築技術の高さを窺い知ることができた。


 そのなかを警戒しながら進むと、しだいに視界を遮るものがなくなり遠くまで見渡せるようになる。深い暗闇のなか、焚き火の灯りによって敵陣地がぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。本来なら鬱蒼と生い茂る木々に視界が遮られ、全体を把握することはできなかったのかもしれない。


 しかし襲撃者たちは本陣を広げるために周囲の木々を切り倒し、広大な空間をつくり出していた。彼らの行動と油断が、我々にとって戦術的に有利な状況をつくってくれていた。アリエルは砦にいるルズィに状況を報告したあと、すぐにつぎの任務に移る。


 敵本陣に動きがないことを確認しながら適当な場所を見つけると、簡易的な見張りやぐらを立てることにした。遺跡内に危険な生物が潜んでいる可能性は捨てきれないので、三人は慎重に行動しながら本陣を見渡せる高台の一角に目をつけた。そこは人頭像の陰に隠れていて、櫓を立てるのに最適な場所になっていた。


 アリエルは〈収納空間〉から必要な物資を次々と取り出していく。木材の重さが手に伝わり、粗い縄が指に食い込んでいく。世話人が用意してくれた工具は使い込まれた形跡があり、信頼に足るものだった。青年はそれらを一旦地面に並べ、姉妹と必要な素材について相談していく。


 それからノノとリリは資材を手に取り、植物を自在に操る高等呪術を駆使しながら、手際よく櫓の柱を組み立てていく。太い根が木材に絡みつきながら、しっかりと柱を支えていくので釘は必要ない。三人が役割を分担しながら手際よく作業を進めていく姿からは、これまでの任務で培った経験と訓練の成果が見て取れた。


 夜の冷気が肌を刺し、嫌な緊張感が彼らの心を引き締めていく。森の静寂の中で、三人の呼吸音だけが微かに聞こえる。今は鳥や昆虫の鳴き声すら聞こえない。風に乗って運ばれる葉擦れの音が耳をかすめる。時折、木々は生き物のように騒めいていたが、異変は感じられなかった。


 櫓の骨組みが形成されていくなか、青年は慎重に周囲を見回し、敵の気配がないかを確認する。しかし襲撃者たちの影は見えず、月明かりに照らされた遺跡の巨石だけが、静かに彼らの作業を見守っているかのようだった。


 見張り櫓が完成すると、三人は次の作業に取りかかった。遺跡の周囲に敵の侵入を防ぐための環状陣地を構築することにしたのだ。月明かりが荒廃した神殿に影を落とすなか、かれらは迅速かつ慎重に作業を進めた。


 崩れていた遺跡の残骸を利用して、簡単な障壁を築いていく。巨石人頭像のそばには、かつての神殿の一部と思われる柱が横たわっている。その柱には古代文字が刻まれていたが、苔生していて解読することは困難だ。姉妹は柱の残骸と柵を利用して、次々と障壁を形成していく。


 彼女たちの呪術によって植物が急成長したかのように動き、崩れた石と木材を縛りつけながら障壁に変化していく。太い根が石材をしっかりと固定し、鋭い棘を持つツルが木材に巻き付いて侵入者を阻む障壁を作り上げた。まるで自然そのものが彼らの味方をしているかのようだったが、姉妹の消耗も激しい。


 植物の力を利用した呪術は便利だったが、繊細な操作が必要なだけでなく、多くの呪素を必要としたので使い手は限られていた。それに加えて、森を徘徊しているであろう斥候や敵の呪術師に気づかれないように、さらに慎重に呪素を操る必要があったので大変な作業になった。


 それでも三人は手早く動いて、周囲の状況を確認しながら適切な場所に防御陣地を築いていく。詰め所になる場所も必要になるので、天幕を張り、植物で完全に覆い隠していく。


 見張り櫓が完成し陣地としてある程度機能するようになると、三人はさらに慎重に次の作業に取り掛かった。青年は櫓に登り、遠くを見渡せる位置に立ちながら偽装網を使いながら櫓を覆い隠していく。その間、豹人の姉妹は陣地の周囲を巡回し、呪術を使いながら簡単な罠を設置していく。


 水道の溝を利用した落とし穴には、あまった柵を杭の代りに並べ、踏み込んだ敵を確実に仕留める仕掛けを施していく。さらにツル植物を利用して、木々の間に警報となる罠も張り巡らせていく。緊急時の避難経路も確認する必要があったので、遺跡の裏手にある小道が使えないか確認し、万が一のさいにはその場所を利用して逃れる計画を立てた。


 それから砦にいる仲間との連絡を取り、遺跡を確保したことを知らせる。

『了解。そっちの状況はどうだ?』とルズィの声が内耳に聞こえる。


「敵に気づかれることなく準備を進めることができた」と、アリエルは答える。「今のところ、襲撃や敵の妨害は行われていない」


 しかし油断することはできないだろう。敵は三人の動きに気がついていないが、日が昇れば状況は変わるかもしれない。数人の守人が遺跡に派遣されることになったが、それまでアリエルたちが敵本陣の監視を続けることになった。

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