第205話 60


 光の奔流に呑み込まれたかと思うと、暗闇に潜んでいた〈災いの獣〉の姿が徐々に浮かび上がり、おぞましい羽の隙間から黒々とした煙が吐き出されていくのが見えた。ソレは地中からい出た死骸を思わせる姿をしていて、漆黒の皮膚には深いしわと傷痕が浮かび上がっていた。


 青白い光が干からびて腐敗した身体からだを強調し、生気を感じさせない不気味な印象を与える。羽の間から見えていた皮膚は、通常の生物には見られない奇妙な痣におおわれていた。それは鮮やかな紫色に染まり、生物の体表に奇怪な――呪文めいた模様をつくりだしていた。それらの腐敗した毒々しい斑点が、その生物をより醜いものにしていた。


 アリエルが形容しがたい化け物の姿に困惑していると、武者のひとりが果敢にも異形の化け物に斬りかかる。ふたたび姿を消すと思われたが、大太刀は獣の厚い皮は斬り裂き、辺りに黒い血液が飛び散るのが確認できた。


 鋭い刃によって斬りつけられた瞬間、異形の獣は耳をつんざくような叫び声をあげる。悍ましい身体から飛び散る黒い血液は、まるで夜の闇が溢れ出すように地面に滴り、その怨念で白い森を黒く染めていくような錯覚を抱かせる。


 九郎は獣の黒い血液を全身に浴びるが、それでも手を止めることはなかった。獣の咆哮が森に響き渡り、刃で斬りつけられるたびに邪悪な怨念が溢れ出す。やはり獣の肉体は腐敗しているのか、ジュクジュクとした傷口からは膿が噴き出していて、斬られた箇所からは異臭が漂っていた。


 その吐き気を催す臭いのなか、アリエルも武者を掩護するため、〈氷槍ひょうそう〉による攻撃を続けた。獣の腐敗した肉体は膨れ上がり、濃い緑色の膿が滴り落ちるさまは、まさに生と死が入り混じった悪夢のような光景だった。


 化け物の身体が傷つくたびに、森そのものがけがれていくような気がした。あまりにも多くの〈混沌の化け物〉を喰い殺してきた所為せいなのかもしれない、獣は生きながら腐っていた。あるいは、それが獣を狂わせたのかもしれない。


 氷柱つららを思わせる無数の〈氷槍〉に刺し貫かれた獣は、オオワシが翼を広げるように、その不気味な身体を変異させようとする。


 けれど豹人の姉妹は獣に反撃の隙を与えるつもりはなかった。ノノの呪術によって樹木の根が動き出したかと、獣の身体を拘束し身動きできないように縛り付ける。リリは無数の〈石礫〉を生成すると、獣の横腹に向けて放つ。瞬時に生成されたやじり状の〈石礫〉は獣の皮を裂き、穢れた肉に食い込んでいく。


 獣は唸り声を上げながら樹木の根から逃れようとするが、ノノが拳を握り締めるようにして呪素じゅそを込めると、たちまち雁字搦がんじがらめにされて動けなくなる。


 そこにリリの〈火球〉が飛んできて、獣に直撃し黒々とした羽を燃やしていく。が、それだけでは終わらなかった。リリの身体を包み込むように膨大な呪素がうずを巻くように集まるのが見えた。


 彼女は集中しながら、血液とともに身体のなかを巡る呪素を両手に集めていく。熱が高まり、手のひらに血液が集まっていく。指先がチクチクと痺れるようになると、炎が指先から溢れ出しそうになる。けれどリリは更に精神を集中させ、より多くの呪素を集めていく。やがて手のひらの先に青い輝きを放つ〈火球〉が生成されていく。


 凄まじい熱波が木々を揺らし、赤々とした木の葉を舞い上がらせていく。近くに立っているだけで嫌な汗をかくほどの呪素の量だ。リリはその膨大な呪素の塊を、異形の化け物に向かって撃ち出した。ソレは目にもとまらない速度で獣に直撃し、炎はまたたく間に燃え広がり、おそろしい轟音とともに爆発した。


 獣が青い炎に包まれていくと、その悍ましい身体を拘束していた樹木の根が灰に変わっていく。獣はそのときを待っていたかのように動き出し、リリに向かって猛然と駆け出す。もはや生物ともつかぬ悪夢のような化け物が、燃え盛る火の玉となって接近してくる。


 アリエルは地面に手をつけると、リリを守るために際限なく呪素を流し込みながら〈石壁〉を形成していく。足元の土がまたたく間に硬化し、堅牢な岩壁に変わる。が、それでもなお獣の突進を防ぐことはできなかった。炎に包まれた獣は咆哮し、次々と形成されていく壁を破壊しながら突進し続ける。


 そこにノノの呪術によって操作された樹木の根が伸びて、獣の手足に絡みつくのが見えた。おそろしい力で拘束されたかと思われたが、獣はすぐに根を引き裂いてしまう。しかしその一瞬の隙を、八元やもとの武者は見逃さなかった。


 九郎は異形の化け物に向かって猛然と駆けると、その胴体を両断すべく上段から刀を振り下ろした。刃は獣の肉体を切り裂いてみせたが、骨を断つことはできなかった。熊とも鳥ともつかない異形の化け物に更なる異変が起きたのは、九郎が刀を引き抜いたときだった。


 粘液質の黒い血液にまみれていた傷口の肉がうごめくような、ひどく奇怪な動きを見せたかと思うと、裂けた肉が盛り上がるようにして肉の腕を形成する。と、九郎は凄まじい衝撃を受けて吹き飛ぶ。それは言葉のまま、土鬼どきの巨体が宙に浮き上がるほどの打撃だった。


 九郎は勢いよく吹き飛び、白い樹木を薙ぎ倒しながら地面を転がる。しかしその攻撃で獣が満足することはなかった。追撃するため、身体中の傷口から腫瘍にも似た気色悪い肉の塊を形成すると、照月てるつき來凪らなを守っていた八太郎やたろうに向かって撃ち込んだ。


 けれど攻撃を予想していたのだろう、武者は準備していた〈金剛〉の呪術を使い、その巨体を鋼鉄のように硬化させ、化け物の攻撃から身を守った。


 直撃の瞬間、衝撃波を伴う轟音が聞こえ、地面が爆ぜるようにして砂煙が立ち昇る。しかし砂煙のなかに立っていた八太郎が負傷している様子はない。ただでさえ頑丈な身体だ。〈金剛〉の呪術で身を守る土鬼を傷つけることは安易ではない。


 しかし異形の獣は炎に包まれながらも、なおも八太郎に向かって猛然と駆けていく。さすがに照月來凪を守りながら戦うのは難しいと考えたのだろう。武者は照月來凪を抱きかかえるようにして後方に飛び退く。そこに入れ替わるようにして九郎がやってくる。彼もまた、〈金剛〉の呪術で身を守っていたのだろう。


 が、アリエルたちの反撃はそこまでだった。照月來凪の能力によって、その醜い姿を暴かれていた獣は、眩い光が消えていく過程でふたたび漆黒の闇に包み込まれていく。そうなってしまえば、アリエルたちに獣を傷つける術はなかった。


 九郎は突進してくる獣の真正面に立ち、凄まじい集中力によって研ぎ澄まされた斬撃を繰り出す。が、その一閃が獣を捉えることはなった。刃が触れる瞬間、獣は実体を失い影のなかに混じり合うようにして姿を消していなくなってしまう。当然のように、アリエルの〈氷槍〉やリリの〈火球〉も通用しなくなる。


 すぐに照月來凪の支援が必要だったが、彼女は得体の知れない穢れをまとった獣に狙われていて身動きが取れない状況になっていた。神出鬼没の化け物には、勇猛で知られた土鬼の武者でも為す術がないのかもしれない。


 だが、アリエルは直感を――それも確信めいたものを感じていた。あの獣は〈混沌の化け物〉を捕食していく過程で、その穢れすらも取り込んでいったのだ。それなら〝闇を照らす光のように〟あの獣がまとっている穢れを払えばいい。


 アリエルは〈念話〉を使って豹人の姉妹に計画を伝えると、収納の腕輪から数枚の護符を取り出す。照月來凪を守っていた武者のひとりが血を流し倒れたのは、アリエルたちが動き出そうとしていたときだった。

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