第204話 59
突然、全身に鳥肌が立つような気配がパタリと消える。攻撃に備えて体内の
それら複数の〈呪霊〉が透明になりながら姿を消していくのを見届けたあと、アリエルは、彼らを取り巻く不可思議な現象について仲間たちと相談することにした。しかしこの異常な現象について説明できる者は誰ひとりとしていなかった。呪術に精通した豹人の姉妹や、普段は冷静な
小屋の外で待機していた
であるなら、〈空間転移〉のための高度な呪術や、貴重な〈呪術器〉が使われた可能性も低いだろう。たとえどのような能力だったとしても、理論上は呪素が必要になる。
あるいは族長イスティリシは神々に近い存在であり、〝始祖〟と呼ばれる超越者たちのように、世界の
冷静に周囲の警戒を続けていたリリは、すぐ近くの樹木に飛び付くと、獣人らしい軽快な動きで高い位置にある枝まで登っていくと、そこから周囲の気配を
やがてリリは邪悪な気配の接近に気がつくと、全身の体毛を逆立て、長く艶のある尾を太くする。獣の接近に怯えているかもしれない。アリエルは抜刀すると、体内の呪素を練り上げていく。かれが首から下げていた水晶は、〈災いの獣〉の気配に反応しているのか、火傷してしまいそうなほどの熱を帯びながら振動していた。
それまで枝葉の間から降りそそいでいた陽光が消えると、忘れられた森は薄闇のなかに沈み込んでいく。
まるで〈災いの獣〉が、夜の闇を引き連れてきたようだ。張り詰めた静寂のなか、白い幹を持つ木々の間から姿を見せたのは、夜そのものが具現化したような異形の存在だった。
それは大熊にも似た巨大な獣で、巨体を包み込む漆黒の毛皮は月明かりを吸収しているかのように真っ黒だった。まるで空間に底無し穴が開いているような、ひどく奇妙な違和感を与えていた。
けれどノノが浮かべていた呪術の光源を頼りに目を凝らすと、その獣が黒く艶のある羽に
つめたい風に羽が静かに揺れ動いているが、その奥に隠された姿は見えないままだ。ソレは闇の中に潜む孤独で神秘的な生き物のようであり、アリエルはその異様な獣の姿に圧倒されつつも、戦いに備えて呪術を準備する。
大気中に漂う呪素が濃いからなのか、青年の周囲に冷気が発生したかと思うと、それは
息が白くなるような冷気のなか、氷の結晶がキラキラと舞い上がり周囲の空気を凍りついていく。やがて無数の氷の塊は寄り集まるようにして、ひとつの大きな塊に――まるで
それは青年の呪素によって、敵を排除するためだけに形作られた呪術だった。しかしその膨大な呪素にも
と、そのときだった。武者のひとりが声を上げながら獣に向かって駆けていくのが見えた。それは我が身を奮い立たせるための狂戦士の雄叫びだったのかもしれない。目に見えるほどの呪素をまとい、身体能力を限界まで底上げしながら突撃する土鬼を止められるものはいないだろう。
凄まじい勢いで振り下ろされた刀は、しかし〈災いの獣〉を傷つけることはできなかった。刃が漆黒の毛皮に触れる瞬間、獣は目の前からフッと消えてしまい、武者はその姿を見失ってしまう。だが獣はすぐ近くに出現して、アリエルたちの様子を窺うように立ち尽くす。
八元の武者、九郎はすぐに反応して、その巨体に似合わない素早い動きで刀を振り抜く。けれど獣は再び姿を消してしまう。そこにアリエルの手から放たれ〈
獣は夜の闇に紛れるように、瞬く間に姿を消してしまう。〈氷槍〉が勢いよく通り過ぎてしまうと、ただ空虚な静寂だけが残されてしまう。青年は驚きと同時に警戒心を強め、森の闇のなかで獣の姿を探した。だが獣は幽霊のように気配さえも消してしまい、その存在を感じさせない。
しかしノノが森に放っていた〈呪霊〉の目からは逃れられなかったようだ。姿を隠していた獣の輪郭が闇のなかでぼんやりと浮かび上がるのが見えた。〈呪霊〉と視界を共有していたノノが呪術を使い、アリエルたちを支援してくれているのだろう。
リリが放った〈火球〉が獣に向かって飛んで行くその瞬間、闇の中に浮かんでいた輪郭がフッと消えて、別の場所に移動するのが見えた。アリエルはすぐに〈氷槍〉を生成し、間髪を入れずに射出していく。が、またしても直撃することはなかった。幻を相手にしているようだったが、青年は攻撃を諦めず、何度も氷の槍を生成しては獣に向かって放つ。
鋭い氷の槍が闇を貫き、月光を浴びて美しい輝きを放ちながら獣に迫る。しかし長い羽と厚い毛皮に守られた獣は、おそるべき能力で攻撃から逃れていく。何度か氷の槍が直撃することはあったが、獣の羽と毛皮がそれを防ぎ、致命傷を与えるをことはできなかった。ただ氷が砕ける音だけが虚しく響いていた。
アリエルが異変を感じたのは、リリの火球が獣に直撃したときだった。心を突き破られるような、なにか邪悪な思念が頭のなかに侵入してくる嫌な感覚がしたかと思うと、悪夢のごとき混沌とした光景が視界のさきに広がる。
いや、厳密に言えば心象のようなモノだったのかもしれない。青年は血肉にまみれた
膝まで血肉に浸かりながら歩いている者たちの
おそらく〈千里眼〉の能力を使ったのだろう。その能力は、驚異的な視覚を持つノノの〈呪霊〉にさえ暴くことのできなかった〈災いの獣〉の本当の姿を
光が徐々に消えていくと、樹木の陰に身を隠していた獣の姿がハッキリと確認できるようになった。その悍ましい獣は、まるで怒りをぶつけるように、照月來凪に向かって咆哮する。
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