第203話 58
族長イスティリシは、忘れられた森の神秘に触れる者として、また星々の語り手として〈災いの獣〉について知っていることを語る。その黒曜石めいた眸は妖しげな
肌にまとわりつくような静寂が立ち込めていくなか、死肉を
「神々が人のように森で生活し、混沌が何の
彼女の言葉はどこか遠く、風に揺れる枝葉の間から聞こえてくるようだった。
「獣は我らの守護者であり、ある種の共生関係が築かれていた。しかしいつしか、その挙動に異常がみられるようになった。〈災いの獣〉は我らの狩りや生活に脅威を与えるようになった。おそらく、悪しき混沌の魂を喰らい過ぎたのであろう。やがて狩人ですら獲物にされ、部族の安寧が揺らいでいる。どうか〈災いの獣〉を討ち果たし、獣の神秘性を我ら部族に取り戻してくれ。そして忘れられた森に再び平穏をもたらしてくれ」
族長の語りが進むにつれ、アリエルは森そのものが彼の周りに姿をあらわしているかのような錯覚にとらわれていく。イスティリシの言葉が耳に届くたび、紅く白い森の中で幻想的な光景が広がっていく。
紅い葉が風に舞い、その音が耳に心地よく届く。それは森の中で踊る小妖精たちが奏でている優しい歌のようにも感じられた。木々の影が伸び縮みし、森全体がアリエルたちの訪問に興味を抱き、挨拶しているように見える。
そして族長の言葉と共に、獣の気配までもが感じられるようだった。暗闇のなかで瞬く眸に見つめられている感覚に襲われる。その錯覚のなかで、アリエルは森の神秘が彼に語りかけ、彼の心を森の深部に呼び寄せているかのように感じていた。
現実と夢幻が交錯するような感覚にまとわりつかれながら、アリエルたちは族長の言葉に導かれるまま、森の奥深くへ進んでいく。
つめたい風が頬を撫でていくなか、紅い葉で飾った白い木々が幻想的な姿を見せていく。夢の中に迷い込んだような風景は、美しくも神秘的だった。その場所では恐怖すら感じないのだ。紅い葉が木々を包み込むなか、暖かな陽光が射し込み、枝葉を透かしながら地面で赤々と煌めく。
けれどこの美しい森には部族を恐れさせる獣が潜んでいる。その気配は未だ木々の陰に潜んでおり、その存在は森を徘徊する幽鬼のようにも感じられた。部族の人々はこの森の美しさに畏怖を感じながらも、同時に獣の存在によって脅かされてきたのだろう。
件の獣は月夜に姿をあらわすという。その眼は夜空に輝く星のようであり、その吠え声は森に響き渡り、恐怖や死の兆しとして人々の耳に残る。部族の狩人たちも見知った森での狩りに細心の注意を払い、あらゆる物音に耳をそばだてる。
ある日、部族の狩人が集落の近くで獣に襲われるという事件が起きた。その出来事は部族全体に衝撃を与え、獣はますます人々にとって恐怖の対象となった。
なるほど、と周囲を見渡していたアリエルは納得する。森には幻想的な風景と共に、生命の循環と不可知の神秘が息づいているように感じられた。危険を冒しても森を取り戻そうとする部族の気持ちが分かったような気がした。
足元から薄霧が
木々の間を歩いていた豹人の姉妹は、紅い葉を透かすようにして足元に届く陽光が霧に呑み込まれ、小精霊の鱗粉のように舞い散る様子に目を奪われる。
その光景に
夜の訪れと共に、森の奥深くで目に見えないものが動き出す。月明かりが微かに射し込むなか、暗闇に潜む何かが不気味な眼を光らせている。その眼はまるで夜の宝石のようだ。それは獣の存在を知らせる輝きでもあった。あるいは、
漆黒の闇に垣間見える眸の輝きは不気味でありながらも、美しい幻想をもたらしている。木々の間に見え隠れするその眸は、恐怖だけでなく、得体の知れない神秘性を感じさせ、不可知の存在に対する深い興味を高めていく。
つめたい風が首筋をさらりと撫で、闇に潜む獣の影が揺れ動く。見えざるものが闇のなかで
獲物のあとを追い見知らぬ場所までやってきた狩人は、闇に隠れ潜む不気味な眼の輝きに怯えながら移動を続けていた。すでに獲物のことは諦めていた。狩人が望むのは無事に帰ることだけだった。
枝が折れる音を聞いて狩人が立ち止まると、アリエルたちも樹木の陰に身を隠した。木の葉のざわめきや、遠くから聞こえる鳥の鳴き声のなかに、ガサガサと落ち葉を踏みしめる音が聞こえる。しかし獣は音を立てることなく姿を見せた。
それは黒い毛皮に包まれた巨大な生物だった。その眼は月明りのように輝き、夜の闇の中でひときわ目立っていた。漆黒の闇に包まれたその身体は、音を立てることなく、まるで地面を滑るように近付いてくる。
あらがうことのできない恐怖に狩人の身体は震える。その間も獣は狩人の様子を
狩人の叫び声が森に響き渡り、森に息づく生命の心を凍りつかせ、恐怖の中に引き
忘れられた森の深部にある獣の棲み処の近くでは、ほかの場所では見られない異様な風景が広がっている。数え切れないほどの物体が、不気味な静寂の中に置き去りにされていた。未開の地に生きる部族は、その得体の知れない金属の像を〝ヒトガタ〟と呼んでいたが、アリエルには〈赤頭巾〉たちが使役するゴーレムに見えた。
そのヒトガタは錆びのない歯車と複雑に組まれた機構を持ち、何かしらの使命を果たすために使用されたのだろう。地面に半ば埋もれた大量のヒトガタは、深い眠りについているかのように見え、それでいて非現実的な存在感を醸し出していた。
あるいは、森を守護する神々のための祈りや儀式的な意味合いがあるのかもしれない。部族の人々はこれらのヒトガタを尊重し供物を捧げているようだったが、〈災いの獣〉が人々を襲うようになってから、この場に近づくこともできなくなったのだろう。
太古の技術によって造られた金属の使者たちは、森の奥深くで生きる部族にとって、神々との交信の手段として利用されていたのだ。今も神々の神秘が秘められているかもしれないヒトガタに触れようとしたときだった。
しかしそこでアリエルは別の疑問を持ち、そしてひどく混乱することになる。いつ集落を出て、いつ忘れられた森に足を踏み入れたのだろうか。あの小さな小屋の中で族長と話をしていたはずだ。なのに青年の目の前には、夢や幻というにはあまりにも現実的な光景が広がっていた。
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