第206話 61


 敵は〈忘れられた森〉に満ちていた闇のなかに身を隠し、変化自在に姿をあらわしながら武者を攻撃していた。黒々とした影が――あるいは煙のようなモノが実体を持つようにして突然近くに出現するため、八太郎は奇襲に対応できずに苦労していた。


 身を守る〈金剛〉の呪術を使うこともできたが、全身が硬化している間は身動きできなくなるため、照月てるつき來凪らなのことを守れなくなってしまう。だから攻撃を受ける直前に〈金剛〉の呪術を発動していたが、突如として姿をあらわす獣の攻撃に合わせることができなくなり、やがて致命的な攻撃を受けることになる。


 脇腹に衝撃が走ると、土鬼どきの大男は思わず片膝をついてしまう。甲冑の隙間から大量の血が溢れ、白地の陣羽織を赤黒く染めていく。そこに獣が猛然と迫ってくる。すかさず九郎が掩護に入るが、獣は攻撃を避けながら姿を消すと、今度は九郎の背後に出現する。


 丸太のように太い腕から繰り出された凄まじい衝撃を受けた武者は吹き飛び、樹木に身体を叩きつけながら地面を転がる。呪術が間に合わなかったのか、手足が嫌な方角に折れ曲がり、頭部から血を流すのが見えた。つぎに狙われるのは照月來凪だったが、血まみれの八太郎が立ちあがり、すぐに彼女の護衛に戻る。


 アリエルは〈収納の腕輪〉から長弓と矢を何本か取り出すと、〈浄化の護符〉に呪素じゅそを流し込み効果を発動させてから、手早く折り畳んで矢に巻き付けていく。姿を消してしまう〈災いの獣〉に直接矢を突き刺すことはできないだろうが、護符を近づけるだけでも穢れを払う効果が期待できるはずだ。


 ノノとリリも呪術を使いながら広範囲に浄化の領域を展開し、獣だけでなく、忘れられた森に漂っていた穢れを払っていく。その効果は絶大で、光を吸い込むような漆黒の影に包まれていた獣の身体からだから――まるで闇が取り払われるように、黒煙が立ち昇るようになったのが見えた。徐々にだが、獣がまとっていた穢れが浄化されているのだろう。


 醜く、それでいておぞましい獣の姿が見えるようになると、アリエルは素早く矢をつがえて弓弦ゆづるを引き絞る。今なら護符を巻き付けた矢を突き刺すことができるだろう。弓から放たれた矢は鋭い音を響かせながら穢れた獣の身体に突き刺さっていく。そのたびに獣の憎しみのこもった咆哮が聞こえる。


 すべての矢を射尽くすと、長弓を収納しながら〈氷槍ひょうそう〉を生成し、間髪を入れずに射出していく。獣の腐った身体には無数の矢が突き刺さり、氷柱つららめいた氷の塊によって肉が抉れ、黒々とした体液が飛び散っていく。が、それでもアリエルは攻撃の手を緩めない。


 地面に両手をつけ、膨大な呪素を流し込みながら獣を包囲するように〈石壁〉を形成したあと、岩のように硬化した壁を操作し、その中央にいる獣を圧し潰そうとする。獣は四方から迫る岩壁から逃れようとして暴れるが、アリエルは更に多くの呪素を流し込んで獣を圧殺しようとする。


 が、その試みは失敗に終わる。耳をつんざく咆哮のあと、穢れた獣を中心にして凄まじい衝撃波が放射状に広がり、周囲のあらゆるものを破壊していった。白い幹に赤い葉を持つ木々は薙ぎ倒され、地面には亀裂ができて抉れるように窪む。八元の武者は吹き飛び、獣の穢れを払っていた照月來凪の姿も見えない。


 陽の光を遮っていた木々の多くは倒されたが、それでも奇妙な薄闇が周辺一帯を覆い尽くしていた。アリエルは視線を動かして豹人の姉妹の無事を確認したあと、〈念話〉を使って攻撃の算段をつける。


 すでに浄化の効果は薄れてきていて、獣の身体は再び漆黒の影に覆われようとしていた。ノノとリリに獣の〈浄化〉を任せると、アリエルは腰に差していた両刃の剣を抜いた。すると青年の呪素に反応したのだろう、淡い光を帯びた刀身に木目状の模様が浮かび上がるのが見えた。


 獣は依然として脅威だったが対象の仕方さえ分かれば、それほど恐ろしい相手ではないのかもしれない。実際のところ、森の外で戦った〈混沌の化け物〉のほうが強敵で、ひどく苦戦していたように感じられた。


 だが――と青年は考え直す。本当に穢れを払うだけで倒せる相手なのだろうか。かりにも、忘れられた森を徘徊する〈混沌の化け物〉を捕食していた獣だ。一筋縄ではいかない相手というのは、もはや疑う余地がないだろう。


 不安は尽きないが、今は考えていても仕方ない。すぐに獣に対処し、負傷した武者たちの治療をしなければ取り返しのつかないことになる。アリエルは黒い毛皮のマントを肩の後ろに投げやると、両手で剣を握り締める。そこに獣が体液を撒き散らしながら突進してくる。


 青年は横に飛び退いて攻撃を避けると、片膝をつきながら通り過ぎていく獣の脇腹を斬りつける。大量の血液が噴き出し、辺りを黒く染める。が、それでも獣の勢いは止まらない。


 アリエルは足元の土を使い無数の〈石礫〉を形成すると、接近してくる獣に放ちながら攻撃を避ける隙をつくる。横薙ぎに振るわれた渾身の一撃をかわすと、その腕を叩き斬ろうとするが、獣の傷口から伸びていた別の腕が迫る。すぐに自身と獣の間に〈石壁〉を形成するが、その壁もろとも殴り飛ばされてしまう。


 くるりと空中で体勢を直して、静かに着地してみせるが、顔をあげると真っ黒な獣が猛然と駆けてくるのが見えた。地面に手をつけて獣の目の前に〈石壁〉を形成し時間を稼ぐと、その僅かの間を使って石棺に閉じ込めていた死者の魂を開放しようとする。


 獣が接近すると、その醜い頭部目掛けて刃を突き刺そうとする。獣は長い首を僅かに動かして剣尖けんせんを躱すことができたが、黒い羽に覆われた首元に深く突き刺さる。直後、おぞましい悲鳴が聞こえ、生温かい血液を浴びることになった。獣が暴れると、血液で滑りやすくなっていた剣を手放してしまう。


 だが、悔やんでも仕方ない。地面に身体をこすりつけ、のたうちながら暴れていた獣から距離を取ると、精神を集中させながら大気中の呪素を体内に取り込んで失っていた呪素の回復を試みる。ひどく消耗していたが、ノノとリリは穢れの〈浄化〉を続けなければいけなかったので、彼女たちの掩護は期待できなかった。


 息を整えながら獣の様子を観察する。つめたい風はやんでいたが、それでも寒くなっていることに気がつく。吐き出す息は白く、身体は寒さに震えている。獣が身にまとう冷気の所為なのかもしれない。


 大量の血液を流しながら地面を転がっていた獣は、やがてのっそりと起き上がると、翼を広げるようにして身体を変異させていく。赤黒い血液に濡れた羽が抜け落ち、腐敗した肉の塊がグチャリと地面に落下していく。巨体の周囲には血溜まりができていき、ひどい腐敗臭が辺りに立ち込めていく。


 アリエルはすぐに〈氷槍〉を放つが、傷ついた箇所から肉が剥がれていき、獣の変異を止めることができなかった。その状況を見かねたのか、リリがやってきて〈火炎〉の呪術で獣を焼き払っていく。たちまち黒煙が立ち昇り、咽かえるような悪臭が放たれる。


 リリは異形の獣に向かって炎を放ちながら、じりじりと後退していく。灼熱の炎によって足元の血溜まりは沸騰し、森を穢す瘴気に変わっていく。だが、ここで攻撃の手を止めるわけにはいかなかった。


 その状況に変化が起きたのは、アリエルが首から下げていた水晶が熱を帯びながら振動するようになったときだった。甲高い金属音が響いたかと思うと、リリが凄まじい衝撃波を受けて吹き飛ばされるのが見えた。彼女は地面に何度も身体を叩きつけられ、砂煙を立てながら放射状に薙ぎ倒されていた木々のなかに突っ込む。


 そして黒煙の中から第三の姿に変異した獣が姿をあらわす。ソレは、もはや穢れをまとっていなかった。混沌を捕食するためだけに進化してきた美しい獣が、そこに立っていた。

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