第207話 62


 それほど美しい獣を見たのは初めてのことだった。たとえ頂点捕食者だとしても――あるいは、混沌からい出た生物であっても 多かれ少なかれ傷ついている。生存をかけた争いによって毛皮は禿げ、深い傷痕が残り、多くの生物が傷ついていた。しかし、その生物は生まれたばかりの子羊のように、傷ひとつなかった。


 そこに立っていたのは、毛足の長い白い体毛に覆われた獣だ。それは言葉のまま、純粋な白さだったが、光の加減や角度によって金色の輝きを放つことがあった。その輝きはどこか非現実的で、目の前にいる獣が森の神々のように神聖で、あらゆる生命の頂点にいる生き物であることを痛感させられるほどの美しさだった。


 黒々とした厚い体毛や粘液質の体液に濡れた羽は、それが存在していたことさえ疑わしく思えるほど跡形もなく消失し、足元に広がっていた血溜まりの痕跡も消えてしまっていた。忘れられた森を包み込んでいた薄暗い影も、雲間から射しこむ光芒のなかで見えなくなり、森に漂っていた瘴気とともに薄れてしまっていた。


 まるで獣の誕生を祝福するように、世界そのものが姿を変えようとしていた。けれど動き始めた世界とは対照的に、獣は驚くほど落ち着いていた。荒々しい怒りや生命に対する身勝手な憎しみすらも消え去ってしまっていた。


 息づかいは穏やかで、白い息を吐き出しながら、汚れひとつないひづめで固い地面をコツコツと叩いてみせる。それから獣は空に向かって首をあげ、雲の中に隠されている秘密を探るように、一点を見つめたまま動きを止める。


 その瞬間、世界そのものが動きを止めたように感じられる。けれど風にそよぐ白い体毛を見て、それが錯覚なのだと気づかされる。


 身動きせず宙を見据えていた獣の動きに注意していると、どこからか長く尾を引くような甲高い響きが聞こえてくる。金属を打ち合わせたような、混じり気のない澄んだ音だった。しかしその音が何処から聞こえてくるのか、そしてどんな意味を持っているのかは分からなかった。ただ、それが獣の注意を引いていることは理解できた。


 やがて心地いい残響が木々の騒めきのなかに吸い込まれるようにして聞こえなくなると、獣は用事を思い出したかのように動き出す。空に向かって白い息を吐き出したあと、首を上下に振り、金色に輝く白い体毛を揺らす。すると厳かな呪縛が解かれて、世界が再び動き出すように感じられた。


 獣の一連の動作には無駄がなく、ある種の神々しさすら感じられた。あるいは、獣の雰囲気に呑まれているだけなのかもしれない。水平方向に伸びる長方形の瞳孔を見ていると、言い知れない不安に苛まれるが、それを打ち消すほどの安心感も持ち合わせている。だが、それが却って獣を非現実的で異様な存在にしているのも事実だろう。


 アリエルは用心深く獣の動きに警戒しながら、深い意識のなかに沈み込んでいく。やがて果てのない暗闇のなかに落ちていくような奇妙な感覚に顔をしかめる。それでも集中しながら、現実とも幻ともつかない世界に意識を馴染ませていく。闇の向こうから死者たちの手が伸びてくるような、奇妙な感覚がすると、目的地に近づいていることが分かる。


 それは先ほどまで感じていた崇高さとは真逆にある感覚だった。この深い闇の中には邪悪な怨念が渦巻いている。それはひどく嫌な感覚だったが、すでに何度も経験してきた感覚でもある。


 しばらくすると、暗くて不気味な石造りの螺旋階段に独り立っていることに気がついた。その薄闇のなか、壁掛け燭台の灯だけが周囲の光景をぼんやりと浮かび上がらせている。


 呪術の照明を浮かべると、暗闇の中でうごめいていた異様な存在が離れていくのを感じた。それがどのような生き物なのかは分からなかったが、すぐ近くまで来ていたのだろう。


 階段の先に長い廊下が見えてくる。そこでは誰かの足音がコツコツと響き渡り、どこからか小さな音が――子どものすすり泣きのような微かな音が聞こえてくる。


 石棺が並べられた広大な空間が見えてくると、白い息を吐き出しながら石棺の間を歩いた。これまでの戦いで捕えてきた死者の魂が――厳密には魂ではないのかもしれないが、死者の怨念や怒りが沈殿して形成されたモノであることは間違いないのだろう。


 アリエルは薄闇なのか立ち止まると、石棺に手をかけ、重たい石蓋を慎重に動かしていく。あの獣は、より強大な存在になってしまっていた。であるなら、今までの戦い方では生き残れないだろう。


 死者たちの影を解放していると、突然どこからか光が射しこむのが見えた。それはアリエルの意識を乱し、深い闇のなかに沈み込んでいた世界を消し去っていく。


 世界を満たそうとする光に抵抗を試みるが、闇が光に抗うことができないように、もはや青年には為す術がなかった。気がつくと意識は現実に引き戻されていて、獣の奇妙な瞳に――横長の瞳孔に見つめられていることに気がついた。


 けれど、あの一瞬の間に――アリエルの意識のなかで流れる時間は現実のそれと異なるため、ほんの一瞬の間にしか感じられないが、青年は数体の〈死者の影〉を連れてくることに成功した。


 青年の周囲には、黒々としたもやによって形成された死者たちの影が立っていた。だがその邪悪で生命を冒涜するような恐ろしげな影は、あの獣が身にまとう神々しさの前では、ひどく頼りない存在に思えた。


 その獣の足元に落ちていた剣に視線を合わせたときだった。まるで歪んだ鏡を通して世界を見ているように、アリエルの周囲の空間が歪むのが見えた。


 そして、その歪みの中から、暗い滅紫めっしの粘液にまみれた異形の口があらわれて、ぱくりと〈死者の影〉を呑み込むのが見えた。その場に残された二本の足は、やがて形状を保てなくなり霧散していく。


 この世界のことわりの外に存在し、これまであらゆる攻撃を拒絶してきた〈死者の影〉だったが、異形の口によって呑み込まれ、あっという間に消滅してしまう。それは〈混沌の化け物〉との戦いでも経験したことだったが、絶対的な存在だった〈死者の影〉が目の前で消滅してしまった現実にアリエルは戸惑い身体からだが硬直してしまう。


 そこに別の口が――ひどく醜くて、吐き気を催す悪臭を放つ口があらわれて、青年を呑み込もうとする。直後、アリエルは八元やもとの武者に突き飛ばされるようにして地面を転がる。顔をあげると、あの醜い口に九郎の腕が咬み潰される光景が見えた。


 ソレがクチャクチャと咀嚼するたびに、骨が砕ける音が聞こえ、大量の血液が地面に滴り落ちる。アリエルは状況が飲み込めず、その様子をぼうっと眺める。


 そこにノノの叫び声が聞こえて、青年はハッとして横に飛び退く。すぐ目の前に別の口があらわれたのだ。青年は無様に地面を転がり、前触れもなく目の前に出現する口を避けていく。ふと白い獣に視線を向けると、こちらを真直ぐ見つめているのが分かった。その瞬間、アリエルはすべてを理解したような気がした。


 白い獣は荘厳な神々しさを見にまとっているが、それは獣が持つ邪悪な本性を隠すための表皮でしかなく、その内側ではおぞましく、そして身の毛もよだつ醜悪な姿をしているのだろう。


 そして空間を引き裂くようにして目の前に突如出現する不快な口も、あの化け物が操作しているのだろう。アリエルはすぐに〈死者の影〉に指示を出し、こちらの様子を窺っていた獣を攻撃させるが、気色悪い口に襲われ、獣に近づくことすらできなかった。


 けれど、これまでも変幻自在に姿を見せる獣と戦っていたのだ。獣の本体が見えるだけ、先ほどよりも有利に戦えるかもしれない。妹のことを気にかけながらも、まだ戦うことを諦めていなかったノノと目線を合わせ、攻撃の機会を見計らう。

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