第208話 63
遠く離れていても熱を感じるほどの〈火球〉が獣に向かって飛んで行くのが見えたが、どこからともなく出現した異形の口が炎を飲み込んで、そして爆ぜていくのが見えた。辺りには粘液質の体液が飛び散り、
そこに別の〈火球〉が撃ち込まれるが、またもや異形の口があらわれて獣の身代わりになるように爆ぜていく。それがどのような種類の生物なのか、あるいは呪術なのかは分からなかったが、空間の亀裂から出現する異形の口は数限りなく存在し、尽きることがないように思われた。
それまで静観していた獣が首を動かして、その不気味な眸でノノを凝視するのが見えた。つぎの瞬間、彼女のすぐ近くに異形の口が出現し、彼女を
白い獣の注意がそれると、アリエルはその場に残っていた〈死者の影〉に指示を出して獣の本体を攻撃させる。すでに多くの影が消滅して最後の一体になっていたが、その身にまとう邪悪な気配は健在だった。〈死者の影〉は地面の上を滑るように音もなく移動し、白い獣に襲いかかる。
ノノとの戦闘に気を取られていたからなのかもしれない。〈死者の影〉は先ほどよりも獣に接近することができたが、またもや異形の口があらわれて丸呑みにされてしまう。が、それは想定していたことだった。アリエルは獣に向かって無数の〈氷槍〉を撃ち込みながら猛然と接近していく。
凄まじい速度で射出された氷の塊は、同時多発的に出現した異形の口を貫きながら消滅してしまうが、おかげでアリエルの接近を妨げるものはいなかった。
その試みは成功するように思われたが、気がつくと目の前に出現した異形の口に剣を突き刺していて、血液とも油ともつかない体液が飛び散っていた。アリエルは後方に飛び退いて悪臭漂う液体を避けるが、異形に突き刺していた剣はひどい状態になってしまう。
すぐさま剣を払うが、それでも刀身に付着した粘液質の体液を取り除くことはできなかった。すぐに呪素を流し込んで、あちこち欠けていた刀身を修復しようとしたが、異形の血液と混じり合うことで鋸歯状に硬化していくのが見えた。もはや同じ剣には見えなかったが、敵を斬ることができるのなら見た目など気にしない。
アリエルは腰を落とすと剣を下段に構える。剣の
青年は更に踏み込むと、返す刀で白い獣を斬りつけようとする。この世ならざる美しき獣は、それが何でもないというような穏やかな表情で青年を見つめる。直後、
至近距離で衝撃を受けたアリエルは後方に突き飛ばされ、膨大な力の渦に呑み込まれるようにして
ザザから受け継いだ毛皮のマントは衝撃に耐えたが、黒衣はズタズタに裂かれ、上半身は無数の裂傷により血まみれになってしまう。衝撃を受ける瞬間、青年は呪素で全身を
アリエルは朦朧とした意識で立ち上がる。そのさい、首から下げていた水晶が地面に落下して鋭い音を立てる。水晶の表面はひび割れ、黒々とした瘴気が漏れている。
水晶を拾いあげようとした青年は、そこでソレがどのようにして生み出されたのか思い出す。ソレは愛するものたちを奪われた呪術師たちの、そして部族の果てのない憎悪と怨念によって形作られたものだった。
ちらりと視線を上げると、遠くに佇む獣の姿が見えた。その眸は青年が拾いあげようとしていた水晶を見つめていた。その獣は理解しているのだろう。この水晶がどのようにして生み出されたのかを、そしてどのように機能するのかを。
アリエルは咳込んで大量の血液を吐き出したあと、血に濡れた手で水晶を拾いあげる。血にまみれた水晶は青年の血液に反応し、脈打つように淡い輝きを放つようになる。
青年がぼんやりとした意識で水晶の輝きを見つめているときだった。眩い光が放たれ、彼の周囲にある倒木が吹き飛び、凄まじい衝撃で地面が爆散し
と、その瘴気の中から黒い腕が伸びて青年の腕をがっしりと
やがてその腕は粘度の高いドロドロとした
全身に激しい痛みを感じると、アリエルは苦痛に耐えかねて片膝をついた。視界はぐるぐると回転し、得体の知れない異次元の力に身体が引き裂かれていくような感覚に支配されていく。痛みで何も考えることができず、苦しみに身を任せるしかなかった。
痛みで震えていた腕を持ち上げると、皮膚が腐り落ちるかのように、ずるりと剥がれ落ち大量の血液が噴き出る。その血液は生命そのものが流れて、失われていく感覚をもたらす。苦しみに顔を歪めながら、アリエルの身体は変異していく。
醜く変化していく身体に合わせ、骨が歪み折れていく鈍い音や、肉が裂けて体液が噴き出す音、そして血液が沸騰するような奇妙な音が身体の内側から鳴り響くかのように聞こえる。けれどあまりの痛みに音の意味を理解することができなかった。それはただの雑音であり、それ以上の何物でもなかった。
その間も身体の変化は続いていた。腐り落ちた皮膚の代りに、べつの皮膚が形成されていくのが見えた。傷だらけの上半身は厚く丈夫な皮に覆われ、まるで蜥蜴人の鱗のようにも見えた。それは赤黒い血液の色に染まり混じり合いながら全身を覆う厚い皮膚に変わっていく。
大量の血とともに吐き出されていた歯の代りに、オオカミの犬歯を思わせる鋭い牙が生え、あらゆる生物を
アリエルの変異が進むにつれて、森の中に息づく生命が不気味な反応を示し始めた。樹木の枝がざわめき、まるで森全体がその異変に怯えているかのようだった。鳥は一斉に飛び立ち、獲物を探し歩いていた肉食獣ですら姿を隠し、異変が過ぎ去るまで息を潜めた。
青年を包み込んでいた瘴気が消えると、そこには獣とも人間ともつかない奇妙な生物が立っていた。その異形の姿からは、もはやどちらが秩序に連なる善なる者なのかを判別することはできなかった。あるいは、神々しさを身にまとう白い獣の前では、アリエルこそが混沌なる悪そのものに見えたのかもしれない。
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