第209話 64


 獣の咆哮が聞こえる。まるでオオカミの遠吠えのように寂寥とした孤独感があり、空のずっと遠いところまで、すうっと響いて行くような悲しげな声だった。


 白い獣の衝撃波で吹き飛ばされてしまい、樹木の下敷きになっていた照月てるつき來凪らなが木々の間から這い出てきて、最初に目にしたのは睨み合う獣の姿だった。額をぶつけて怪我をしていたのか、ツノの付け根から血が流れていたが、それに構うことなく彼女は〈千里眼〉の能力を使って獣を見つめる。


 白い獣は、美しさと神々しさとは裏腹に、その身の内に邪悪な本性を潜ませていた。それが〈災いの獣〉だということはひと目で理解できた。けれど、白い獣と対峙する得体の知れない黒い獣の正体は分からなかった。それは果てのない憎悪と怨念が顕現しているような、見ているだけで全身に鳥肌が立ち、吐き気を催す恐怖をまとっていた。


 すると黒い獣が動くのが見えた。足元の地面が爆ぜたかと思うと、つぎの瞬間には白い獣の目の前にあらわれるのが見えた。あまりにも動きが素早かったので、瞬間移動でもしたかのような錯覚に陥る。その黒い獣は腕を振り上げると、憎しみがこめられた重い一撃を繰り出した。


 凄まじい打撃を受けた白い獣の首は折れ、回転しじれるようにして千切れてしまう。首の切断面からは黒々とした体液が噴き出すが、すぐに骨が形成され、筋繊維や皮膚、そして白い毛皮に覆われていくのが見えた。またたく間に修復された頭部には傷ひとつなく、また体液による汚れすら付着していなかった。


 だが、そんなことは黒い獣に関係のないことだった。オオカミめいた強靭な顎を使い白い獣の首にみつくと、頭を振るようにして敵を何度も地面に叩きつけ、そして血肉をむさぼるように首の一部を咬み切っていく。黒い獣の鋭い爪が白い毛皮に食い込むたびに、粘液質の黒々とした血液が溢れ、地面を黒く染めていく。


 その血液はけがれていて、猛毒のように生命を脅かすものだったが、黒い獣には効果がないのか、鋭い牙の間から黒い血液が糸を引いているのが見えた。


 そこに白い獣が召喚した異形の口が空間を引き裂くように出現し、黒い獣の手足に咬みつくのが見えた。が、黒い衝撃波が放射状に広がり、ありとあら斬り裂き吹き飛ばしていく。異形の口を出現させていた空間の裂け目は強制的に閉じられ、その際に切断され、この世界に残されたおぞましい肉片が地面に残されることになった。


 周囲の地形を変化させてしまうほどの強烈な衝撃波を発生させた黒い獣は、白い息を吐き出しながら敵を真直ぐ見つめる。異形の口によって傷つけられた身体からだからは赤黒い血が滴り落ちているが、戦いに支障が出るような傷には見えなかった。


 獣人に成り切れなかったような、ひどく中途半端な姿をした黒い獣が照月來凪の目の前から消えたのは、立ち昇る砂煙の向こうから金属を打ち鳴らしたような鋭い音が聞こえたときだった。目がくらむような光が発したかと思うと、空気をつんざく甲高い音が鳴り響いて、衝撃波を伴う強烈な念力が放たれる。


 黒い獣はすぐに反応し、目に見えない衝撃波を避けていく。さすがに白い獣も危機感を抱いているのか、超全的な態度から一変して、そこにはある種の必死さすら感じ取れるようになっていた。そしてとうとう、衝撃波を直撃させることに成功する。


 その念力をまともに受けた黒い獣はね飛ばされるように突き飛ばされ、忘れられた森の白い樹木を薙ぎ倒しながら地面を転がっていく。姿が見えなくなるほど遠くまで吹き飛ばされたが、照月來凪の目には黒い獣の姿がしっかりと捉えられていた。


 手足は折れ、身体中が傷ついていて脇腹には折れた幹の一部が突き刺さっていた。しかし黒い獣は折れ曲がっていた手足をまたたく間に修復させ、腹に突き刺さっていた杭のような木片を引き抜いてみせた。黒い獣もまた、定命の者が持ち得ない恐るべき生命力を持ち合わせていて、森を破壊しかねない攻撃でさえ致命傷を与えることはできなかった。


 その黒い獣がふらりと立ち上がるのが見えた。怒りに満ち満ちた紅い眼は敵に向けられている。やがてしゃがみ込むようにして両手を地面につけるのが見えた。身体の重心を前方に傾け、前に出した足に体重をかけ、もう一方の足は後ろにつけてつま先を地面に軽く触れさせる。獣のしなやかな動きに緊張感はみられない。


 しかし頭部と背中は真直ぐ伸びていて、矢が弓から放たれる瞬間のように、どこか殺気立った雰囲気をまとっている。そしてその瞬間がやってくる。黒い獣は敵を睨み、そして前方に向かって力強く飛び出した。獣が凄まじい速度で疾走すると、踏み抜かれた地面はひび割れ、爆ぜながら砂煙を立てていく。


 黒い獣の接近に気がつくと、美しい獣の眸からまばゆい光が放たれるのが見えた。その直後、甲高い音が聞こえ、迫りくる黒い旋風の間近で光が炸裂し、凄まじい轟音を立てながら木々が爆散し地面が大きく穿うがたれていくのが見えた。が、それでも黒い獣を捉えることはできない。


 そして漆黒の毛皮をまとう邪悪な獣と、シカを思わせる神々しい獣が恐るべき力で衝突する。轟音と共に穢れに満ちた衝撃波が広がり、地面はぐらぐら揺れ、木々が薙ぎ倒されていく。その衝撃波に巻き込まれるようにして照月來凪は吹き飛ばされてしまう。


 岩や倒木に身体を叩きつけながら転がる。視界はぐるぐるとまわり、意識もハッキリとしない。その間も耳をつんざく轟音が聞こえてくる、獣たちが闘っているのだ。そして、どこか遠くから苦しげな息遣いが聞こえてくるが、それは彼女自身の息遣いだったのだろう。


 肩が脱臼したのか、力を入れ動かそうとするたびにひどく痛んだ。それでも彼女は肩を押さえながら立ち上がる。もはや自分がどこに立っているのかも分からなかった。痛みで震える身体を無理やり動かして、ゆっくりと周囲を見回す。


 アリエルや豹人の姉妹の姿はどこにもない。ずっと護衛してくれていた武者たちの姿も見えない。彼女は急に心細くなって、どうしようもなく泣きたくなったが、涙を流している余裕なんてない。〈千里眼〉を発動すると、仲間たちの呪素じゅその気配を探る。


 そこでふと彼女は奇妙なことに気がつく。あの白い獣と壮絶な闘いを――まるで神話で語られるような、森の地形すら変化させる苛烈な闘いを繰り広げている黒い獣から、アリエルの気配が感じられるのだ。


 思い違いだと考え、なんども気配を探るが、やはり慣れ親しんだ気配が感じられる。あの黒い獣に囚われているのだろうか。でも、どうして?


 しかし真相にたどり着く前に、彼女の思考は途切れることになる。突如、それまでにない強烈な衝撃波が放たれ、目も眩む紫色の爆炎が広がり、熱波があらゆるものを焼き尽くしていった。龍神に祝福された種族であり、炎に対する高い耐性を持つ土鬼どきでさえ、その炎に抗うことはできなかった。


 砂煙が立ち昇り、やがて爆心が見えてくる。すると地面に横たわる白い獣の姿が見えた。脚を失い、惨い切断面からは黒い体液が流れている。もはや肉体を再生するための力も残されていないのか、黒い液体が血溜まりのように広がっていくのが見えた。


 そこに黒い獣がやってくる。漆黒の毛皮は返り血に濡れ、右手には白い獣の臓器が握られている。その悍ましい肉塊を捨てると、白い獣に覆い被さるようにして首に咬みついた。だが、今回のソレは肉を咬み切るためではなかった。黒い獣の内に渦巻く憎悪と怨念を流し込み始めた。


 白い獣が暴れると、逃げられないように鋭い爪を突き立て、手首まで食い込ませていく。しかし白い獣には異形の口を召還する力も残されていない。身体を痙攣させ、その美しい瞳から光が失われていくのが見て取れた。

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