第316話 13


 まるで息を潜めるように、夜の森は静まり返っていた。足元の苔や雑草は湿り気を帯びていて、水滴の微かな音が夜の闇に溶け込んでいく。豹人の姉妹はふいに立ち止まり、身を屈めて周囲の気配を探る。その瞳は呪素じゅその揺らぎに反応し、淡い光を放ちながら闇のなかで浮かび上がる。


 仄暗い蒼さが微かに揺らぐのを感じ取る。それはゆっくりと、ひとつの形象けいしょうにわだかまり、やがてひとつの輪郭を結んでいく。敵の呪術師が発する呪素の残滓だ。複数の呪術師が一か所に集まっている所為なのだろう。敵拠点の位置が闇の中に浮かび上がっていく。姉妹は呪素の波動が肌にしみ込むような感覚に、思わず身を震わせる。


 姉妹のひとり、ノノが小声で呪文を唱えていく。彼女の長い尾が暗闇の中で左右に揺れ、尾の先で房毛が風に揺れる。その動きが止まると同時に、彼女の纏う呪素が周囲に静かに溢れ出し、霧となって薄暗い森に広がり始めた。まるで生き物のように、冷たい霧は森の草木をなぞりながら窪地を覆い尽くしていく。


 徐々に濃くなっていく霧は月明かりを遮り、森全体をさらに暗く包み込む。しかしそのおかげで敵に察知されることなく、陣地に接近することができる。霧が濃くなるなか、姉妹は互いに視線を合わせ、霧深い夜の森を歩む。彼女たちの足取りは影のように滑らで、足音すら聞こえない。


 アリエルたちは森の木々に身を隠しながら、敵拠点の様子を探る。仰ぎ見るほどの巨木の間に無数の天幕が乱雑に並べられ、ぽつりぽつりと篝火が灯っている。その炎の揺らめきに合わせて戦士たちの影が動くのが見えた。焚き火にかかる鍋からは肉や野菜が煮える匂いが微かに漂ってきて、周囲の空気に溶け込んでいる。


 予想以上に多くの戦士がいるようだ。傭兵とも蛮族の戦士ともつかない者たちが粗末な毛皮や革鎧をまといながら巡回している姿が確認できた。彼らの顔には緊張の色が浮かび、しきりに周囲を警戒している。見張り櫓の上では、弓を構えた戦士がじっと夜の闇を見つめていた。いつ何が起きてもすぐに応戦できるよう備えていることが分かった。


 アリエルたちは影の中を移動しながら、ゆっくりと敵拠点に接近する。すると篝火の近くに呪術師たちが集まり、小声で何かを話しているのが見えた。


 彼らは落ち着かない様子で何かを議論していて、不安げに周囲の様子をうかがっている。彼らの周囲には呪素の残滓が漂い、微かな光の粒子となってぼんやりと揺らめくのが見えた。それがどのような呪術だったのかは分からないが、それなりの呪素を必要とする呪術を発動したようだ。


 呪術師たちの不安が戦士たちにまで伝播し、拠点全体に奇妙な緊張感をもたらしているように感じられた。その様子にアリエルは思わず眉をひそめる。呪術師たちは何かを警戒している。守人たちの襲撃が知れ渡るまでには、少し時間がかかると思っていたが、もう知られてしまったのだろうか。呪術師たちの視線を追うように暗い森に目を向ける。


 そのときだった。冷たい風と共に森の奥から邪悪な気配が近づいて来るのを感じた。それまで感じていた森の静けさは消え、どこか荒々しく、圧倒的な存在が近づいているのを感じる。それが身にまとう呪力は、拠点にいる呪術師たちとは比較にならない。


 鳥肌が立つような鋭い感覚が背筋を駆け上がると、アリエルはいつでも行動を起こせるよう身を低くしながら、暗闇に目を凝らした。


 闇に沈む森の奥から、重い足音が聞こえてきた。地面がわずかに揺れ、低い振動がアリエルたちの足元まで伝わってくる。音の方向に目を向けると、そこには木々をかき分けながら近づいてくる巨大な影が見えた。


 獣の森には〈人喰いマツグ〉の〝落とし子〟として知られた生物が生息している。古の巨人の末裔だと信じられているその生物は、比較的穏やかな性格で、人の言葉を理解するほど賢いとされていた。警戒すべき種族ではないが、縄張り意識が強いため、部族民は接触を控えていた。


 敵拠点に近づいてくるその生物は、たしかにマツグに似ていた。しかし似ているだけで、本質的にはまったく異なる生物だった。邪悪で、あらゆる生命を憎む存在、混沌に属する生物だった。


 サルのように全身が黒い体毛に覆われていた。大きな頭部は毛にまみれたカエルそのもので、その巨大な口には鋭い牙がびっしりと並んでいる。コウモリに似た大きな鼻がぴくぴくと痙攣するようにヒクつく様子は、どこか滑稽でもあるが、真っ暗な瞳には冷たい邪悪さが宿っていた。


 アリエルはその異形のなかに、ただならぬ気配を感じ取っていた。守人とマツグの間にも、必要以上に関わらないという暗黙の了解があった。しかし目の前にいるこの生物は、決してそんな暗黙の了解に従うような存在ではなかった。


 その異形は明確な殺意と混沌の気配を放ちながら、敵拠点に向かってきていた。その視線からは、ただ飢えを満たすためだけでなく、純粋な悪意で周囲の命を奪う者の悪意が感じられた。


 櫓に立っていた数人の戦士が不安そうにしているのが見えた。彼らは互いに視線を合わせ、どうするべきなのか分からない、といった表情を見せている。


 その混沌の化け物が拠点の入り口に近づくと、動物の骨や毛皮を身につけた呪術師たちが一斉に動き出し、戸惑う戦士たちを後退させた。そして指揮官らしき呪術師が前に出ると、慎重な面持ちで化け物に向かって手をあげる。一瞬、躊躇ためらうような動きを見せながら。


 呪術師の表情からは緊張と不安が見て取れた。彼女の手振りからは、化け物を刺激しないように細心の注意を払っていることが分かる。もしそれが〈人喰いマツグ〉の落とし子であったなら、彼らはこの邂逅に意味を与えるため、何らかの交渉を試みることも可能だったのかもしれない。しかし目の前にいるのは、明らかに別の存在だった。


 化け物は立ち止まるどころか、周囲を睨みつけるように目を光らせ、低い唸り声を上げる。その音は木々を揺らし、岩が崩れるときのような奇妙な響きをあとに残した。呪術師たちは恐怖に囚われているのか、その場から動けないようだった。


 やがて場の空気が一変した。先ほどまでの静けさは破られ、一瞬にして殺気に満ちた戦場のような空間に変わる。マツグに似た化け物は長い腕を伸ばすと、すぐ近くに立っていた呪術師を鷲掴わしづかみにする。化け物はそのまま彼女を口元に近づけると、獰猛な口を開き、その頭部にかじりついた。それはあっという間の出来事で、彼女には抵抗する暇もなかった。


 誰かの悲鳴が響き渡り、呪術師たちが慌てたように攻撃の準備を始める。しかし彼らが攻撃を仕掛けるには、あまりにも遅すぎた。マツグに似た化け物は頭部のない身体を投げ捨てると、冷酷な眼差しで残りの者たちを睨んだ。その眼は飢えと怒り、そしてどこか底知れぬ邪悪さを含んでいるように見えた。


 呪術師たちは〈火球〉や〈氷槍〉を撃ち込もうとするが、化け物の存在そのものに気圧され動きが止まってしまう。それに反応するかのように化け物は獣じみた動きで飛びかかり、若い呪術師の胸部を一撃で貫いた。驚愕した呪術師たちは戦士に援護を求めるが、戦士たちは恐怖に顔色を失い、後退していくばかりだった。


 そこに別の化け物が姿を見せる。目の前の脅威に気を取られていた戦士たちは反応が遅れ、ほとんど無防備な状態で化け物に襲われてしまう。


 マツグにも似た化け物は意味のない抵抗など気にも留めず、次々と戦士たちに襲いかかる。鋭い爪で身体を切り裂き、容赦なく喰らいついていく。もしかしたら、彼らは〈混沌の化け物〉を使役しようと考えていたのかもしれない。しかし思い通りにコトが運ばなかった。そうして夜の森に悲鳴が木霊することになったのかもしれない。

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