第317話 14〈ダレンゴズの囁き〉


『我々は死を欺き、名誉のためなら喜んで死地に飛び込む。我々は勝利だけを望み、決して諦めることがない。忘れるな、誰も我々を殺すことはできない』

                           「ダレンゴズの囁き」


 凍りつく夜の闇に、異形の化け物が暴れまわる音と絶叫する人々の声が響き渡る。その叫び声が聞こえなくなり森に静寂が戻ってくるまで、アリエルたちは身を隠し、嵐が過ぎ去るのを待っていた。嵐とは、敵拠点を蹂躙じゅうりんしていた異形の化け物たちのことだ。もはや災害としか形容できない事象が過ぎ去るのを、ただ待つことしかできなかった。


 やがて重い静寂が訪れ、化け物たちのうなり声が聞こえなくなる。拠点に残されたのは、〝汚泥にまみれた死体だけ〟だった。凍えるような空気の中、アリエルたちは敵拠点に侵入する。彼らの足元には無残に引き裂かれた肉塊と手足、それに破壊された武具の破片が転がっている。篝火に照らされるそれらの残骸は、異形が残した惨劇の痕跡だった。


 裂かれた革鎧の隙間からは血液に濡れた腸が飛び出していて、地面を赤黒く染めていた。微かに息をしている者もいて――まるで救いを求めるように、虚ろな目で豹人の姉妹を見つめていた。しかし彼女たちは冷酷に刃を振り下ろし、その命を断ち切っていく。それは慈悲ではなく、敵を容赦なく始末する行為でしかなかった。


 異形の化け物たちもまた、無事ではなかったことが分かる。化け物の巨体があちこちに転がっている。黒い体毛が血液でべっとりと固まり、腹部は引き裂かれ、内臓がはみ出している。呪術師たちは命を賭して化け物を撃退しようとしたが、その代償として、自らの命を支払うことになった。


 呪術師たちのそばには戦士たちの無残な骸が転がっている。ある者は腕を引き千切られ、またある者は胴体から頭部がじ切られていた。化け物たちは自らの暴力性を見せつけ、誇示するかのように、死体の一部を木の枝に飾り付けていた。戦士たちが身につけていた刀や割れた楯の破片が、その下に散乱していた。


 辺りには血と糞尿の臭いが立ち込めていて、吐き気を催すほどだった。地面に散乱している死体の多くは部分的に焼け焦げ、あるいは切り裂かれていて、内臓が剥き出しになっている。腹をえぐられた呪術師のひとりは、口から血の泡を吐き出しながら、指のない手で杖を握ろうとしていた。アリエルたちは、その悪臭のなかを歩いて冷静に状況を確認する。


 リリが耳をぴくぴく動かすのが見えた。何かを感じ取ったのだろう。彼女はしきりに周囲の様子を確認していた。彼女の鋭い眼が森の奥に向けられると、アリエルも〈気配察知〉の能力を使う。深紅の瞳が淡い光を帯びていくと、暗闇のなかに人の輪郭が浮かび上がっていく。


 どうやら巡回に出ていた部隊が戻ってきたようだ。拠点内に立ち込める濃い瘴気の所為で、敵の気配に気づくのが遅れてしまったのだろう。


 薄汚れた毛皮と動物の骨で着飾った蛮族たちが木々の間から姿をあらわす。彼らは拠点の惨状に混乱し、驚きの表情を浮かべる。しかしその表情は次第に激しい怒りに変わっていく。彼らは槍や斧を構え、鋭い視線でアリエルたちを睨み、低く唸るような声をあげながら周囲を取り囲んでくる。


 だが蛮族たちの様子に異変が生じる。彼らは怯えたような表情を見せると、アリエルたちの背後に視線を向けたまま動きを止める。すぐに背後を振り返ると、死体の山に埋もれていた巨大な影が、のっそりと起き上がるのが見えた。そのおぞましい化け物の姿に、豹人の姉妹はもちろん、蛮族さえも息を呑む。


 全身に深く斬りつけられた傷が残り、あちこちから黒い体液が滴り落ちていた。ヌラヌラとした血液が糸を引き、斬り裂かれた腹部からは気色悪い内臓が露出している。満身創痍にも見える状態にもかかわらず、化け物の眼は深い憎しみに満ちていた。


 その眼が燃えるように赤く発光するのが見えた。まるで殺意そのものが凝縮されたかのように、化け物の周囲が熱気を帯びていくのが感じられた。灼熱の〈火球〉が出現したのは、ちょうどその時だった。どうやら化け物は呪素をあやつることができるようだ。


 炎が渦を巻き、妖しい光で木々を照らし出していく。化け物がアリエルを睨みつけると、その火球がゆっくりと動くのが見えた。直後、凄まじい速度で火球が放たれる。


 アリエルは即座に身を翻し、地面を転がるように飛び退いて火球をかわす。火球は蛮族のひとりに向かって真直ぐ飛び直撃したかと思うと、つぎの瞬間には爆散して蛮族を灰に変える。肉が焼ける凄まじい臭いが辺りに立ち込め、残された者たちは、ただ茫然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。


 生き残った戦士たちの表情は恐怖に凍りつき、その手は震えていた。しかし化け物の怒りは鎮まらない。喉の奥から低い唸り声を上げ、憎しみと残虐性に満ちた眼でアリエルたちを睨みつける。その場の緊張は頂点に達し、森は再び殺気で満たされていく。


 すると蛮族の戦士たちが動くのが見えた。彼らは自らを奮い立たせるかのように叫び声をあげると、恐るべき化け物に向かって一斉に槍を投げつけた。鋭い音を立てて飛び出した槍は、次々と化け物の身体に突き刺さっていく。しかしそれは、まるで岩に投げつけた小石のように無力だった。


 化け物は痛みを感じていないのか、恐ろしい眼で戦士たちのことをじっと睨みつけている。その攻撃は化け物を傷つけることはできなかったが、気を引くことはできたようだ。化け物は咆哮し、血液の混じった唾を飛ばすと、凄まじい跳躍でアリエルたちの頭上を飛び越える。


 誰もが息を呑む一瞬の静寂をあと、戦士たちの背後に巨大な影が着地する音が響き渡る。そして彼らが振り返る間を与えることなく、化け物は長い腕を振りかざし、戦士たちを殴り飛ばしていく。


 その強烈な一撃で戦士たちの身体は宙を舞い、木々や地面に叩きつけられて四肢が不自然な角度に折れ曲がる。逃げ出そうとしていた戦士も攻撃を避ける間もなく、巨大な拳で胸を砕かれ、内臓を吐き出しながら倒れる。戦士たちの血液が泥濘に染み込んでいく。化け物の攻撃は容赦なく、どこまでも冷酷だった。


 戦いが避けられないと悟ったアリエルは、手にした剣の重みを感じながら〈収納空間〉から面頬を取り出す。その禍々しい面頬を手にすると、微かな囁き声が彼の耳に届く。それは抗うことのできない魅力を持っていたが、今はその不気味な力が薄れ、囁き声が青年の心をかき乱すことはなかった。


 武具師が〈幻翅百足げんしむかで〉の体内で生成される特殊な粘液を使い、面頬の表面に薄い膜を張ってくれたおかげなのだろう。その被膜は、暗黒に満ちた見えざる世界に潜む者たちから面頬と、それを身につける者の姿を覆い隠してくれていた。その欺きの力がどこまで通用するのかは分からなかったが、武具師の言葉を信用する他ない。


 アリエルは意を決し、面頬を装着した。すると辺りが一瞬静まり返ったかと思うと、どこからともなく太鼓を叩く音と波の音が聞こえてきた。その音は耳を打ち、まるで激しい波で身体を包み込むように響いてくる。腹の底を震わせる太鼓の振動と、打ち寄せる波の音が混じり合い、不思議な昂揚感に満たされていく。


 何故か分からないが、その音を聞くだけで身体の内側から力が溢れ出るように感じる。青年の体温は上昇し、心臓の鼓動が早くなると同時に全身の感覚が鋭く研ぎ澄まされていく。目の前の化け物と対峙する恐怖は消え去り、抗いがたい戦いへの渇望に心が支配されていく。


 その異質な気配を感じ取ったのだろう。マツグの落とし子に似た異形の化け物は、その醜い顔で青年を睨みつける。眸は炎のように明滅し、アリエルの魂まで穢すような冷酷な眼差しだった。


 もはや太鼓の音も波の音も聞こえないが、戦いの準備はできていた。

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