第318話 15


 頭のなかで鳴り響いていた太鼓と波音の残響を感じながら、アリエルは目の前の化け物を鋭い視線で見据える。醜く恐ろしい化け物は、蛮族の死体を鷲掴みにしたまま、アリエルに向かって吠えてみせる。唾液が泡立つ口から発せられた凄まじい咆哮で木々が揺れ、闇の夜に邪悪な声が響き渡っていく。


 が、アリエルは怖気づくことなく化け物を睨んでいる。それが気に入らなかったのかもしれない、化け物は手にしていた死体を乱暴に投げつける。ソレは空中で引き千切れ、内臓やら血液を撒き散らしながら汚泥のなかを転がる。


 それに気を良くしたのか、化け物は醜悪な表情を浮かべたあと、アリエルに向かって猛然と突進する。足元に転がる死体やら蛮族の戦士たちをね飛ばしながら、すさまじい勢いで向かってくる。


 と、そこに豹人の姉妹が放った〈火球〉が飛んできて、化け物の頭部に直撃する。火球は弾け、周辺一帯に高温の火花が飛び散る。それは化け物の毛皮を焼き、皮膚が焼けただれていく悪臭が立ち込める。が、それでも化け物は怯まず、憎悪と怒りに我を忘れ、真直ぐ突き進んでくる。アリエルは腰を落とし、すかさず横に飛び退いて突進を避けてみせた。


 化け物は止まらず、その勢いのまま木々に衝突し、地面を深くえぐっていく。その衝撃は凄まじく、まるで火山の噴火のように大量の土砂や木片が舞い上がる。


 汚泥にまみれた化け物は鋭い動きで振り返ると、上半身を回転させ、長い腕を伸ばしながら拳を繰り出す。遠心力によって破壊力の増した拳は重々しく、風圧だけでも周囲の木々がしなるほどだった。しかしアリエルはその攻撃を冷静に見極め、身を屈めながら懐に飛び込む。


 化け物の腕が頭上すれすれを通り過ぎていくなか、アリエルは鋸歯状の刃で腹部を斬りつける。その禍々しい刃が化け物の厚い毛皮を切り裂くと、パックリと傷口が開き、黒々とした血液とともに内臓がドロリと零れ出る。臓器が斬り口から垂れ下がると、化け物は苦悶の表情を浮かべる。しかしそれでも動きが止まることはない。


 怒りに満ちた眼をぎらつかせながら、アリエルに向かって容赦なく拳を振り下ろした。矢のように素早く目で追うのがやっとだったが、アリエルの研ぎ澄まされた精神は、その拳の動きを鈍く感じさせた。まるで世界そのものがゆっくりとした速度で動いているような感覚に包まれていた。


 化け物の拳が迫るその瞬間、アリエルは身体の向きを変え、最小限の動きだけで攻撃をかわしてみせた。直後、地面に強烈な衝撃が走る。化け物の拳が大地に叩きつけられると、辺り一面が爆ぜて周囲の木々が悲鳴をあげるかのように軋み、そこから巻き上がる砂と木片が渦を巻くように空中に舞い上がるのが見えた。


 アリエルはその隙を逃さず、獣じみたしなやかな動きで接近し、化け物のむき出しの首筋を撫でるように斬り裂く。刃が肉に食い込み、骨を削る感触が伝わる。そして重く湿った音とともに、黒々とした血液が勢いよく噴き出し、アリエルは返り血を浴びることになった。


 面頬にもベッタリと返り血が付着するが、まるで染み込むようにして血液は瞬く間に消えていく。そのさい、面頬を覆う被膜が微かに発光するように見えたが、アリエルは目の前の化け物に集中していて気づかない。


 首を斬り裂かれた化け物は、一瞬だけ身体から力が抜けたように見えたが、倒れる寸前で踏みとどまる。その瞳に再び憎悪の光を宿し、ギラリとアリエルを睨む。リリが放った火球で顔面は焼け爛れていて、さらに醜い姿になっていた。その憎悪のこもった視線に、青年は鳥肌が立つような奇妙な感覚を抱く。


 ほぼ無意識に後方に飛び退くと、アリエルが立っていた場所が勢いよく爆散する。化け物が周囲からかき集めた呪素じゅそを使い、空間そのものを爆発させたのだろう。大気が引き裂かれるような轟音と共に爆発的な衝撃波が広がり、アリエルを後方に吹き飛ばした。


 周囲の景色が回転し、化け物の姿を見失いそうになるが、アリエルは素早く体勢を整える。空中で身体をくるりとひねり、しなやかな身のこなしで着地する。凄まじい衝撃波に巻き込まれてしまったが、面頬を装着していると、あらゆる攻撃から身を守る高度な呪術〈甲殻〉と同等の防御効果が得られるのでほとんど無傷だった。


 もちろんそれには代償が伴い、面頬を装着している者は、絶えず呪素を消費することになる。それはある種の呪いのように所有者の体力を奪い去るが、アリエルのように膨大な呪素を体内に蓄えている者にとって、それは厳しい条件ではなかった。むしろ、わずかな呪素と引き換えに身を守れるのだから、〝呪い〟ではなく〝恩恵〟とさえ思えた。


 砂埃が拡散していくと、満身創痍といった状態の化け物の姿が見えるようになる。体中の傷口から血液が流れ出し、腹部からは内臓が垂れ下がっている。しかしその威圧的で邪悪な存在感は衰えることがない。


 化け物は激しく咳き込んだあと、首から大量の血液を噴き出しながら咆哮し、アリエルに向かって突進してきた。無謀で直線的な攻撃だ。獣との違いがあるとすれば、全身が狂気と憎悪で形作られた混沌の生物ということだけだった。


 荒れ狂う暴風のように迫る化け物を睨みながら、アリエルは剣を構え、精神を研ぎ澄ませていく。


 異変が起きたのは、ちょうどそのときだった。化け物の太腿が横一文字に斬り裂かれ、血液が噴き出すのが見えた。豹人の姉妹が放った〈風刃〉が化け物を斬り裂いたようだ。血管が傷つけられたのか、化け物が動くたびに血液が噴き出し、次第に足元がふらつくようになる。


 そこにラファが放った矢が弧を描きながら飛び、化け物の眼球に深々と突き刺さる。その一撃に化け物は痛みと怒りに身を震わせるが、もはや立っていられることもできないのか、力尽きたようにその場に膝をつく。だが決して倒れることがない。化け物の残された眼には消えない憎悪が宿り、苦痛に耐えながらも立ち上がろうとしている。


 混沌の化け物の、その身の内に巣食う果てしない憎悪を感じながら、アリエルは立ち尽くす。面頬を外そうとしたときだった。どこか暗く、邪悪に満ちた世界から〝よこしまな囁き〟が聞こえてきた。その囁き声はアリエルの精神を暗く冷たい渦に引き込み、意識を捕らえようとする。


 その囁き声に意識を引っ張られながらも、アリエルは〈収納空間〉から蛇刀を取り出し、うねりのある特徴的な刃をじっと見つめる。そして、膝をついたまま動かない化け物に近づき、胸部に蛇刀を当てがい、ゆっくりと押し込んでいく。刃が肉に沈む音が聞こえ、化け物の身体が微かに痙攣するのが分かった。


 化け物の内側から力を吸い上げるように、生命力とも呪力ともつかない力が刃を介してアリエルの体内に流れ込んでくるのを感じた。どこかぞっとする冷たい感覚だったが、面頬は満足しているのか、徐々に囁き声が聞こえなくなっていく。


 化け物の眼から光が失われ、全身の力が抜けていく。最後の瞬間、憎しみを湛えた眸がアリエルに向けられる。そして化け物は汚泥のなかに倒れ、二度と起き上がらなかった。


 青年は刃に付着した黒々とした血液を見つめたあと、深く息を吐き出しながら、ゆっくりと面頬を外した。その瞬間、あの邪な囁きも消え去り、霧が晴れるように冷静さを取り戻していくのが分かった。それと同時に、戦いへの執着や異常な渇望も感じられなくなっていた。やはり面頬が精神に影響を与えていたのだろう。


 敵の増援に警戒していたが、森は静けさを取り戻していた。アリエルは仲間たちと合流すると、拠点内に残された天幕やら必要のない物資をすべて燃やしていく。敵の拠点には何も残さないつもりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る