第319話 16
深い夜の闇のなか、揺れる炎が木々を鮮やかに染め、冷気のなかに焼け焦げた臭いが混ざり合い森を包み込んでいく。敵拠点は赤々と燃え盛り、その炎は次第に勢いを増して、木材の軋む音や支えを失くした天幕が崩れる音が聞こえてくる。化け物の死体から立ち昇る黒煙には、濃い瘴気が含まれていたが、これ以上の拡散を防ぐことはできるだろう。
一行は炎に包まれた敵拠点から徐々に遠ざかり、暗い森の中に姿を溶け込ませた。ここからそう遠くない場所にある別の敵拠点を目指し、足音を殺しながら進む。戦いの余韻が肌に纏わりつくようだったが、気持ちを落ち着かせる。
ふと振り返ると、炎の淡い光が夜空に浮かぶ雲の輪郭を照らし出しているのが見えた。森は深く、どこまでも暗い。風のざわめきに乗って遠くから死臭が漂ってくる。古参の守人たちが敵拠点を襲撃しているのだろう。敵は襲撃に気付き、ますます警戒を強めるかもしれない。
暗い森を進むなか、アリエルは〈念話〉を使って兄弟たちと連絡を取るかどうか考える。しかし〈念話〉を使えば、敵対的な呪術師に感知され、会話を傍受される可能性もある。だから〝夜の闇のように〟沈黙の中で任務を続け、事前の取り決め通りに行動することにした。
先行していたノノとリリは周囲の気配を探るべく、暗闇に鋭い視線を向ける。姉妹は種族特性として〈暗視〉の能力が備わっているので、暗闇のなかでも脅威になる存在を見逃すことはない。
そこでノノは影のなかで息を潜める存在の気配を感じ取る。枝葉の揺れる音のなか、敵が立てる音を区別するのは難しいが、彼女はぴんと耳を立て意識を集中させる。空気は張り詰めていて、緊張感が高まっていくのを感じた。
しばらくして脅威が遠ざかるのを感じ取ると、彼女は動き出す。暗い木々の間を抜けるたびに、微かな音と共に小枝が足元で砕け、葉が擦れる音が耳にとどく。
アリエルは冷たい風が頬を刺すのを感じながら、〈気配察知〉を使い暗闇を見据えていた。敵拠点が近づいてくると、その動きは無意識のうちに慎重になっていく。敵の斥候や巡回している部隊とは遭遇していなかったが、これからは敵と遭遇する確率も高くなるだろう。青年は毛皮の〈収納空間〉から数枚の〈護符〉を取り出す。
突発的な戦闘に備えて、〈矢避けの護符〉や〈身代わりの護符〉を使うことにしたのだ。〈矢避けの護符〉を手にすると、指先で撫でるようにして護符に込められた呪力を解放する。
豹人の姉妹やラファも護符を使い、これからの戦闘に備えていく。〈身代わりの護符〉は貴重な代物だったが、出し惜しみしている余裕はないので遠慮なく使う。敵味方が入り乱れる混沌とした戦場では、目の前の敵だけでなく、流れ矢にも注意しなければいけない。予期せぬ事故を防ぐためにも、〈身代わりの護符〉は必要だった。
護符の一枚一枚が命だけでなく、各々の運命と直接的に関わってくるので、決して軽んじるようなことはしない。それから一行は互いに視線を交わし、準備が整ったことを確認していく。
彼らは身を低くしながら、音もなく高台に移動する。そこから敵拠点を見下ろすと、森全体がざわめいていることに気がつく。風が木々を揺らし、枝葉の音が耳に刺さる。小さな生き物たちも何かを察知して散り散りに駆け回っている。その異様なざわめきに耳を澄ませながら、アリエルは〈気配察知〉を使い、視界を暗闇の奥まで深く沈めていく。
次第に視界が暗闇に慣れ、森の中で動く無数の
「やれやれ……」
気持ちを落ち着かせるように深呼吸したあと、さらに注意深く敵拠点を調べていく。すると暗闇の中で一際異質な形象を浮かべる存在を捉える。赤紫色の
どうやら敵拠点には多数の呪術師が配備されているようだ。その気配が森全体に不気味な威圧感を与えていた。彼らが身に宿す呪素が漏れ出し、周辺一帯を瘴気に包み込んでいるのだろう。それが毒々しい緊張感を引き立てているようだった。
アリエルは何とはなしに足元に視線を向けると、指先で土を掴み、軽く握りしめる。そして冷たく湿った土の手触りで足元の状態を確かめながら、仲間たちと目配せする。
薄暗い森の陰影に身を潜め、敵拠点に向かって一歩ずつ静かに歩を進めていく。夜風が枝葉を揺らし、森に射し込む月光が地面にまばらな模様を描いていく。その中で、アリエルたちは言葉を交わすことなく、ただ森を突き進む。〈消音〉の呪術を使用していたので、枯れ葉や小枝を踏み抜くようなことがなければ音も立たない。
敵拠点の周囲を巡回している分隊が見えてくると、アリエルは手で合図を送り、仲間たちもそれに従うように静かに散開していく。
姉妹は息を止めるようにして、慎重に敵の背後に忍び寄る。ラファは弓を構えると、獲物を狩る捕食者のように木々の陰に身を潜ませ、そして次々と矢を射る。それらの矢が敵の首筋や背中に突き刺さると、鋭い音も、短い悲鳴も闇に呑まれるように消えていく。
喉を引き裂く鋭い刃が月光を反射し、静寂の中で血飛沫が飛び散る。アリエルも革鎧の隙間に蛇刀を突き刺すようにして、次々と敵を無力化していく。血の凍るような痛みに戦士たちは混乱し、状況を理解することもできずに倒れ込む。
一行は次々と敵を始末しながら、速やかに敵拠点へと近づいていった。連携の取れた行動と、音を消失させる呪術の効果もあって、敵まだ彼らの接近に気づいていない。
ようやく敵拠点が目前に迫ってきていたときだった。背後から思いがけない音が響いた。森の中に鋭い角笛の音が鳴り響き、空気が緊張感で満たされていく。
どうやら仕留め損ねた敵がいたようだ。もしくは、〈治療の護符〉で息を吹き返したのかもしれない。誰かが死の運命を逃れ、他の者たちに襲撃を伝えたのだ。アリエルは己の失態に苛立ち、思わず舌打ちをこぼす。視線の先に見えていた敵拠点からは、数十名にも及ぶ戦士たちが次々と姿を見せていた。
斧や槍を手にした戦士たちが、篝火に煌々と照らされた拠点の前に立ちはだかり、アリエルのことを鋭い目で睨みつけている。怒号が飛び交い、どこからともなく戦士たちの足音が聞こえてくる。もはや隠密行動は不可能だった。
アリエルはため息をつくと、影に身を潜めていた姉妹と目配せをして、彼女たちに戦闘の準備をさせる。ラファも戦闘が避けられないことを理解していて、緊張感に満ちた表情で弓を構えている。
それからアリエルはゆっくりと腰に手を伸ばし、〈収納空間〉から面頬を取り出した。その瞬間、暗闇に潜む邪悪な存在の気配を感じ取るが、今はその圧倒的な力に頼らざるを得ない。
対峙する戦士たちに罵倒を浴びせられながら、アリエルは面頬をじっと見つめる。篝火に反応して表面が鈍く輝き、その冷たい感触が指先に伝わる。微かな
面頬をゆっくりと顔に近づけると、その〝
どこからともなく鼓膜を揺らす低く重い太鼓の音が聞こえてくる。それは暗闇の中に響き渡り、まるで戦場の真只中に立っているような感覚を抱かせる。そして荒れ狂う波が押し寄せ、身体の奥底まで浸透してくる。全身が昂揚し、まるで沸騰した血液が身体中を駆けめぐり、新たな命が吹き込まれていくような感覚に支配される。
視界はさらに鮮明になり、森の陰影が際立つように感じられる。遠くにいる戦士たちの表情や動きもハッキリと見えるようになり、手にする剣がいつもより冷たく感じられた。いずれにせよ、これで戦いの準備は整った。
アリエルは自らの内に湧き上がる戦意とともに一歩前に踏み出す。敵が猛然と駆けてくると、彼もまた力を解放し、敵を迎え撃つべく駆け出した。
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