第315話 12


 骨の髄まで染み入るような冷気が肌を刺すなか、アリエルはうんざりした顔を浮かべながら夜の森を歩いていた。澄んだ月明りは森を青褐あおかちに染めながら、その陰影をさらに濃く映し出し、足元から伸びる影は不気味なほど深い。


 豹人の姉妹は鋭い視線で周囲の動きに注意を払い、自然の中に溶け込むように歩いている。その軽やかな足取りは森の中でもほとんど音を立てず、まるで森自体が彼女たちのことを受けいれているかのようだった。あるいは、森の神々に愛されているのかもしれない。


 作戦に同行したラファの動きにも迷いは見られないし、夜の森に対する恐怖心も感じられない。その手には弓が握られていて、指先には少しの震えも見られない。守人のなかでも最年少だったが、最も武の才能に恵まれた少年ということもあり、アリエルからの信頼も厚い。そのラファが振り返ると、かれの表情に微かな緊張が見て取れた。


 森の深部からは低い唸り声や奇妙な叫びが聞こえ、暗黒に沈み込む茂みがざわつく。夜の森を徘徊する化け物が獲物を探し求めているのだろう。アリエルはその声に耳を澄まし、目を細めて遠くを睨んだ。もしもの時のために体内で呪素じゅそを練り上げていたが、今はまだ隠密行動を重視し、音を立てず慎重に足を運ぶことに専念していた。


 この作戦には照月てるつき來凪らなも同行させるつもりだったが、彼女だけが扱える特異な能力〈千里眼〉は、砦の防衛にとって必要な能力だったので残ってもらうことにした。彼女の〝見えざる危険を察知する能力〟は無敵ではないが、土鬼どきの武者がふたり護衛についているので、戦闘で錯乱した守人から襲われる心配もないだろう。


『すぐ近くに何かいます』

 ノノの声が内耳に聞こえると、アリエルはその場にしゃがみ込む。森の陰影と夜気に包まれながら、じっと息を潜めて暗がりを睨んだ。ラファは矢筒に手を伸ばしたまま動きを止め、何かが潜んでいるかもしれない方角に鋭い視線を向ける。


 夜の静寂が一層深まるなか、アリエルはそっと息を吐き出し、〈気配察知〉の能力を発動する。その深紅の瞳が淡い光を放ちながら暗闇なかで不気味に揺れ動くと、闇の向こう、木々や草むらを透かして脅威の輪郭が徐々に浮かび上がっていく。


 人影が揺れ動いているのが見える。先頭に立つ戦士は腰に小さな角灯ランタンを吊り下げていて、ぼんやりとした明かりで暗闇を照らしている。戦士は鋭い顔つきで周囲を警戒し、木々の間を睨んでいる。どこか狩人のような雰囲気を漂わせていた。彼のあとに続く数人は蛮族の戦士で、足音を抑えつつ移動していたが、先頭の男ほど手慣れていない。


 襲撃者たちの斥候だろう。アリエルは敵を見定めながら、どうするべきなのか考える。今は静かに敵を見過ごして、無用な戦闘を避けるべきかもしれない。しかし襲撃予定の敵拠点が近くにあるので、そこから来た斥候の可能性がある。であるなら、この場で片付けておくのも悪くない。


 思案している間にも、斥候たちはゆっくり近づいてきていた。アリエルは決断すると、手を肩の高さまで上げ、指の動きだけで仲間たちに合図を送る。敵のなかに呪素を感知できる者がいるのかは分からなかったが、敵に存在を察知されることを警戒し〈念話〉でのやり取りは行わなかった。


 ノノとリリは視線を交わすと、短剣を手にしながら暗がりに入っていく。ラファも身を低くしながら射角が通る場所まで移動すると、そこで待機しながらアリエルの合図を待つことにした。


 静かに刃を研ぎ澄ませるような、独特な緊張感が場の空気を支配していく。アリエルたちは捕食者のように息を潜め、じっと相手の動きを待つ。そうして気づかれないように、じわじわと斥候たちとの距離を詰めていく。


 やがてその瞬間がやって来る。弓弦が微かに鳴ったかと思うと、鋭い矢が夜闇を切り裂きながら飛んでいく。その矢は泥まみれの毛皮を身につけた戦士の背中に突き刺さる。男は驚いて声を上げるが、痛みに気がつく暇もなく、つぎの矢が後頭部に突き刺さる。


 戦士が前屈みに倒れ込むと、すぐとなりに立っていた女性は反射的に松明を落とし、鞘から刀を引き抜こうとする。が、闇の中から飛んできた矢は寸分の狂いもなく彼女の喉元に突き刺さる。女性は一瞬、目を見開いて立ち尽くすが、すぐに吐血しながら膝をつく。そこに別の矢が飛んでくる。


 足元で燃える松明に覆い被さるように倒れ込むと、彼女の周囲は暗闇に包み込まれていく。その異変に戦士たちは動きを止める。


「襲撃だ!」

 叫び声とともに戦士たちは腰に差していた武器を手にし、木々の間に立ち込める暗がりに鋭い視線を向ける。その戦士たちの背後に豹人の姉妹が音もなく忍び寄る。彼女たちは〈影舞〉の能力を駆使し、言葉のまま、影のなかに溶け込むようにして移動していた。


 彼女たちの大きな眼が暗闇のなかで妖しく光り、戦士の背後に滑り込むと同時に鋭い刃が閃く。そうして何の前触れもなく戦士たちの命を奪っていく。つめたい刃が喉元を切り裂くと、生温かい血液が噴き出し、冷気に包まれた森に湯気が立つ。


 その場面を目撃した戦士は、恐怖に駆られたように角灯を握りしめながら駆け出した。走りながら振り返り、味方の死体に視線を走らせ、次いで周囲の木々に視線を泳がせた。「こんな……クソったれ!」震える声を漏らしつつ、全力で逃げ出そうとする。けれど男が目を向けた先には、月光に照らされて立つアリエルの姿があった。


 その深紅の眸に貫かれると、戦士は立ち止まりそうになる。月明りの中、月白色げっぱくいろの長髪が光を浴びて輝いているのが見えた。その様子に男は戸惑い、目を細めて息を呑んだ。


「…もののけの類か!?」

 恐怖と怒りがぜになったような表情で刀を抜き放つと、鋭い身のこなしでアリエルに向かって突進する。呪術で身体能力を強化しているのか、その動きは獣のように獰猛で、明らかに普通の戦士の動きを超越していた。


 けれどアリエルは冷静だった。鋭い眼差しで相手の動きを見極めつつ、冷ややかな空気をまとっている。つぎの瞬間、体内にめぐらせていた呪素を解き放つと、戦士の足元が一瞬にして凍りついていき、冷たい霜が這い寄るように泥濘ぬかるんだ地面を覆っていく。


 戦士はそれに気づくのが一瞬遅れ、薄い氷に足を取られて体勢を崩し、走っていた勢いのまま地面に倒れそうになる。その隙を見逃さず、アリエルは一気に間合いを詰める。男の首は冷たい刃に吸い寄せられるように迫る。そしてつぎの瞬間、その首は音もなくね飛ばされる。血煙が舞い、夜の森は静けさを取り戻していく。


 奇襲は成功し、戦いは一瞬で終わった。冷たい夜の空気に漂う血の臭いだけが、そこで行われた残酷な戦いを記憶しているようだった。


 ノノとリリは戦闘の余韻に浸ることなく、すぐに周囲の安全確認を行う。彼女たちは無駄な音を一切立てず、猫のような軽い足取りで敵の痕跡を探し、森の奥に潜む脅威に警戒する。その双眸は夜闇の中で金色に輝き、なめしたようにつややかな太い尾が左右に揺れる。敵の気配がないことを確認すると、ふたりはすぐさま次の行動に移る。


 戦士たちの死体に近づくと、使えそうな装備を手早く確認していく。微かな月明りに鈍い光を反射する短剣、矢筒に入った無数の矢、それに欠けた火打ち石。豹人の姉妹は、その小柄な手を器用に動かしながら、敵の装備を回収していく。アリエルとラファも合流すると、手分けして死体を一か所に集めていく。


 けれど死体の処理は行わず、そのまま放置することにした。戦士たちの無惨な死体は、草むらの中に転がされたままだ。夜が明ける頃には、死臭に引き寄せられてやってきた腐食動物が処理してくれるだろう。本来なら焼却すべきだったが、敵に存在を気取られるようなことはできなかった。


 アリエルは戦士たちの死体を見つめながら、出発するさいに武具師から手渡されていた〈ダレンゴズの面頬〉について考えていた。今回の戦いでは身につける必要がなかったが、敵拠点を襲撃するさいには必要になるかもしれない。そのときには、充分に気をつけなければいけないだろう。

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