第229話 10〈古の呪術書〉
任務を遂行するため、アリエルは豹人の姉妹を連れて暗い森に足を踏み入れる。〈境界の砦〉を離れるさい、嫌な胸騒ぎがしたが、
密林の間に吹く冷たい風が、枝葉を揺らし、ざわざわと不気味な音を奏でる。青年は足元の枯れ葉や枝を踏みしめる音に注意を払いながら、〈混沌の生物〉が徘徊する森を歩いた。ただでさえ危険な場所なのに、今では砦を襲撃した兵士や蛮族も潜んでいる。
森に立ち込める闇は深く、厚い雲に覆われた空から降りそそぐ微かな光を頼りに、アリエルは敵の前哨基地を見つけようとしていた。不特定多数の呪術を妨害するような、高度な術を使う人間が目立つ場所にいるとは思えなかったが、無理をしてでも手掛かりを手に入れる必要があった。
砦につづく街道を離れて森の奥に進むにつれて、微かな光も途切れるようになり、闇そのものがアリエルたちを包み込んでいくようになる。
その薄明かりのなか、木々が不気味な影を落とし、恐ろしげな雰囲気が漂うようになる。幸いなことに、この辺りでは南部の森林や湿地帯に生息する〈枯木人〉は確認されていないので、必要以上に樹木を恐れる必要はなかった。
しばらく歩いていると、先行していたノノが見事な房毛を持つ長尾をひと振りして立ち止まる。すると草陰の向こうから話し声が聞こえてきた。
守人は〈獣の森〉がどれほど恐ろしい場所なのか知っている。だから任務のさいには無駄口を叩かず、邪悪な化け物を刺激しないように細心の注意を払う。そこにいるのは守人ではなく、砦を攻撃している者たちなのだろう。アリエルたちは身を低くし、息を殺しながら声が聞こえている場所に近づく。
暗闇のなか、不気味な影を発見する。それは古びた投石機だった。その周囲には、数人の呪術師が立っている。彼らは奇妙な霧を発生させる黒いローブを見にまとっていて、いかにも呪術師という格好をしていた。しかしその数は少なく、部隊のほとんどが蛮族の戦士たちで占められている。
呪術師たちは投石機の周囲を取り囲んでいて、岩や石に呪術の効果を付与する準備をしているようだ。彼らの身振りは熟練した呪術師のソレであり、その存在が投石部隊をより危険なものにしているように見えた。
大型の投石機は古代のものであり、一目でその堅牢な造りが分かる。木材と鉄板で構築され、年月の経過を感じさせるひび割れや傷跡が遠目からでも確認できる。鉄板で補強された投石機の枠組みは、攻城用の固定式兵器であることは明らかで、投石機は地面に据え付けられ、黒曜石に似た素材で補強された駆動箇所が見受けられる。
おそらくだが、あの素材は
その投石機の運用には熟練の兵長が必要だが、ここでは呪術師たちがその役割を果たしている。彼らは呪術の力で射程や弾道の調整を行い、高度な戦術的操作を可能にしているようだ。見慣れない辺境の部族は、主に警護と力仕事を担っているのだろう。
アリエルたちは投石部隊から目を離さないように慎重に動いて、周囲の状況を観察できる場所まで移動する。この部隊が砦に大きな被害をもたらす前に排除しなければならない。周囲には呪術師たちを護衛する戦士たちが巡回しているので、彼らの視線を避け、見つからないように慎重に行動する。
アリエルは森に足を踏み入れたときから〈気配察知〉の呪術を使用していたが、それは生物の〝朧気な輪郭〟が見える程度の術で、敵味方の判別ができるほどの練度ではなかったが、今はそれで充分だった。
すぐ近くに敵の罠や待ち伏せした兵士が潜んでいるかもしれない。ノノとリリも大きな瞳を明滅させながら慎重に進む。白い
兵士たちが遠ざかると、さらに慎重に、一歩間違えれば命を落とすかもしれないという脅威を抱えながら、またゆっくりと目的の場所を目指して移動する。
やがて投石部隊の姿がハッキリと確認できる場所にたどり着く。そこでは呪術師たちが投石機の周囲に立ち、手に〈古の呪術書〉や〈呪術器〉らしき宝珠を持っているのが確認できた。彼らは謎めいた儀式を行う狂信者のような動きで、投石機を囲み、投擲される岩や石に呪術の効果を付与しているようだった。
岩に〈火球〉の呪術を付与するだけでも、投石機から放たれる岩は、より強力な攻撃手段になる。ひとりの呪術師が書物を読み上げながら岩に手をかざすと、ソレは赤熱し炎を帯びていく。別の呪術師が手にした宝珠を投石機に近づけると、氷の結晶がその表面に覆い、凍てつく冷気が周囲に広がっていく。
たとえば〈火球〉の呪術が付与された岩が目標に命中すれば、その質量と速度で与える衝撃だけでなく、大爆発と共に燃え盛る炎が辺り一面に広がることになる。防壁や建造物に命中した場合、一瞬にして粉砕された
同様に〈氷塊〉の呪術効果が付与された投石は、衝突の衝撃で飛び散る破片そのものが周囲を凍りつかせる冷気を帯びて、広範囲に影響を及ぼすこともできるだろう。
呪術師が部隊に加わることで、投石機をより強力な攻撃兵器に変え、砦を脅かす最大の脅威にもなりかねない。そして精神的にも体力的にも消耗している砦の守り手たちは、投石機による攻撃を目の当たりにするだけで恐怖に打ち震えることになる。それだけはなんとしても阻止しなければいけない。
アリエルは呪術師の位置を確認したあと、ノノとリリに指示を出し、まずは周辺一帯を巡回していた戦士たちを排除していくことにした。薄汚れた毛皮を身につけた蛮族は油断していて、姉妹の相手にならなかった。彼女たちは獣めいた俊敏な動きで敵の背後に忍び寄ると、少しも
警戒し集団で移動している部隊を見つけると、〈影舞〉の能力を使い、暗闇に紛れて一気に接近し、一撃で敵を仕留めていく。足音ひとつ立てずに敵を排除していく様子は、森の中を闊歩する捕食者のようでもあり、敵はその存在を察知することなく次々と倒れていく。戦士たちが無力化されるたびに、アリエルたちは投石機に近づくことができた。
やがて黒いローブを身につけた呪術師たちの姿が見えてきた。相変わらず不気味な霧を発生させていて、まるで夜空に広がる暗黒の雲のように見えた。周囲から姿を覆い隠す〈隠蔽〉の呪術が込められているのかもしれない。無傷で手に入れたかったが、呪術師が相手なので、戦闘で手を抜くことはできないだろう。
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〈古の呪術書〉
古の時代から存在し続ける呪術書の多くは、呪術師や探索者、そして傭兵たちに大切に扱われてきたおかげで、その希少性にも拘わらず今も多くの場所で入手できる。年月を感じさせる厚い革の表紙には、古代文字で言葉が刻まれているが、ほとんどの人間には理解できなかった。
それらの呪術書は呪力の強化に焦点を当てていて、呪術を追求する者にとっては貴重な存在になっていた。呪術書を読むことで一時的に呪力が強化され、体内に蓄えられる呪素の量が増えることでも知られていた。
また、呪術の詠唱が学べるので、呪文の効果が向上することも期待できる。ただし、この効果は一時的であり、使用後に精神的な疲労に加え、ひどい頭痛に襲われるという。
呪術書の多くは部族の族長や呪術師たちが大切に保管しているが、集落などの取引所や書物を保管する倉庫で見つかることもある。幸運なものたちは、古代遺跡や孤独死した呪術師の隠れ家で書物を見つけることがあったが、それは稀だった。先述したとおり、取引で入手することも可能だが、大量の金貨が必要になるので購入できるものは限られている。
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ラライアはアリエルの本棚の前で立ち止まると、古びた書物を手に取って頁をめくる。そこには古代の呪術師たちの手によって記された小難しい理論がビッシリと書き込まれていた。頁は黄ばんでいて、鼻を近づけなくてもカビの臭いと微かな墨のニオイが漂ってくる。古代の記号や文字は美しく描かれているので、内容に興味がなくてもそれなりに楽しめるようになっていたが、彼女は顔をしかめて、それから書物を本棚に戻した。
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