第305話 02〈礼拝堂〉


 アリエルは礼拝堂の大扉を押し開け、つめたく薄暗い空間に足を踏み入れた。冷気が頬を撫で、薄暗さが視界を覆う。それまでとは大きく異なる厳粛な雰囲気が場を支配していた。足元に敷かれた大理石調の石材は長年の使用で磨り減り、滑らかで硬質な冷たさを帯びていて、周囲の気温を奪っているように感じられた。


 円形の礼拝堂のあちこちに無数の蝋燭が並べられ、それぞれが小さな火で場内を照らしていた。その蝋燭の灯りは、壁際に並ぶ無数の石像を暗闇のなかに浮かび上がらせている。どの石像も精巧に彫り込まれていて、肌や布の質感が見事に再現されていた。それらの石像は、数多存在する神々の姿を模したものなのだという。


 けれど近くで見ると石像の顔がすべて削られていることに気がつく。どの像も顔の部分だけが削り取られていて――まるで神々の存在を否定するかのように、これらの石像は無機質なものに変えられていた。


 アリエルには、それが森の神々に対する冒涜のように思えたが、同時に何か深い理由があるのだろうと考えていた。そのような処置が施された理由は見当もつかなかったが、それでもこの空間は神聖な気配に満ちていた。


 静寂に包まれ、人気ひとけがなく、一見すれば廃墟のようにも見える。しかし石像には塵ひとつなく、床の敷物も丁寧に整えられている。世話人たちがこの場所を絶えず管理し、手入れを怠っていないからなのだろう。襲撃によって瓦礫がれきや死体が散乱していた広場とは対照的に、この礼拝堂は清潔で整然としていて、奇跡的に文明的な雰囲気を保っていた。


 ちらりと半球形の天井に視線を向けると、天井に古い壁画があるのが確認できた。かつての偉大な守人たちが神々に仕える姿が描かれているようだったが、風化していて、今ではどのような場面が描かれていたのかも定かではない。


 アリエルは壁際に並んだ石像を見ながら、礼拝堂の中央に向かってゆっくりと歩を進めた。堂内の中央には、重厚な石の祭壇が鎮座していた。その祭壇には、かつての守護者たち――英雄と呼ばれた者たちの太刀や弓、防具が無造作に並べられていた。百を超える太刀が祭壇に突き立てられている姿は異様だったが、それが守人たちの流儀だった。


 祭壇は淡い光を帯びていて、英雄たちの魂が今もそこに宿っているかのようだった。アリエルは足を止めると、神々と過去の守人たちに思いを馳せた。この場所は、〈混沌〉との戦いに命を捧げる者たちの祈りの場所であり、神々に誓いを立てる場所でもあった。


 すると世話人のひとりが音もなくゆっくりと近づいてくるのが見えた。かつて彼も守人のひとりだったが、老いて戦えなくなったあとも砦に留まり、守人たちの生活を支えてくれていた。この礼拝堂の管理を担っていたのも彼だった。


 白髪が目立つ長髪は肩まで垂れ、深く刻まれた皺が顔全体に広がっている。だが、その穏やかな顔立ちのなかに、年齢にそぐわない鋭い眼光も見られた。彼の瞳は、長年の経験と知識を物語っていて、何事にも動じない確固たる意志を感じさせた。


 その世話人はアリエルの姿を見つけると、微笑みを浮かべ、彼の訪問を歓迎するようにうなずいてみせた。


「お戻りになられたのですね」世話人は低い声で言った。その声は神聖な場所に相応しい静けさを保ちながらも、たしかな存在感を持って響いた。それから世話人はアリエルのこと祭壇の近くまで案内してくれた。


 青年は深く一礼し、祭壇の前で膝をついた。この場所に満ちる静寂が、彼の心を落ち着かせ、祈りの言葉が自然と口をついて出た。


 アリエルには特定の神を崇拝する習慣はなかった。彼の信仰は広範囲にわたり、森の神々に向けて祈りを捧げることが多かった。基本的に部族民は自分たちの創造神を崇めていたが、青年は自身の出自は疎か、種族すら知らなかった。だから見聞や書物で得た知識をもとに、多くの神々に祈りを捧げることにしていた。森の創造主である神々に。


 まず青年は〈イアエー〉に祈りを捧げた。〈イアエー〉は〝生命と癒し〟の象徴であり、その力が宿る巨木は満月と結びつけられていた。白銀の光に包まれた美しい女神だとされていて、神秘的な力で病や苦痛を和らげると信じられていた。彼女の加護を受ければ、戦士たちは怪我からの回復が早まり、心の傷さえも癒えると信じられていた。


 アリエルは幾多の戦いを生き延びられたことに感謝したあと、白の大蛇に祈りを捧げた。この神は〝死と再生〟の象徴であり、新月の闇と深く結びついていた。大蛇は古くから畏敬の対象とされ、その姿は無限の生命の循環を表していた。


 死者の魂を導き、新たな命を授けるという信仰が、部族民たちの間で根強く信じられている。新月の晩に姿を見せる白の大蛇は、深い闇の中で古い命を飲み込み、新しい命を生み出す力を持つと言われている。青年はこのいくさで失われた兄弟たちの魂を導く存在として、大蛇に祈った。


 そして〈イアーラ〉にも祈りを捧げた。〈イアーラ〉は〝繁栄と長寿〟を象徴する女神であり、その力は水と深く結びついていた。〈イアーラ〉は豊かな水源を守護する女神でもあり、その力によって土地は潤い、人々は飢えや乾きから解放されると信じられていた。


 北部では今も〈イアーラの祭日〉は豊穣を祝う祭りとして、部族民たちの間で盛大に行われ、川や湖に捧げ物が流されることがあるという。彼女の加護を求めることで、人々は豊かな収穫と平穏な生活を願う。アリエルは豹人の姉妹の無事を祈り、困難な状況でも再会できたことに感謝の言葉を口にする。


 それぞれの神に祈りを捧げながら、青年は静かに頭を垂れていた。この厳かな空間で祈るたびに、神々の力が彼の中に流れ込み、疲れた身体と心が少しずつ癒されていくように感じられた。礼拝堂内は静寂に包まれ、蝋燭の火が微かに揺れる音だけが聞こえていた。


 と、そこに足音が聞こえてくる。アリエルが背後を振り返ると、年老いた蜥蜴人がゆっくりとした足取りで祭壇に向かってくるのが見えた。厚い毛皮に包まれた独特の風貌をしていて、年齢を重ねたその大きな身体はかつての敏捷さを失っていたが、威厳は衰えることなく強烈な存在感を放っていた。


 この老いた蜥蜴人は、居室として利用していた塔の中で多くの時間を過ごしていた。塔には大きな暖炉があり、その前で彼は長い時間を過ごすのが常だった。広場で見かけることはあっても、彼が礼拝堂に足を運ぶことは稀であったため、ここで彼と会うことも珍しい出来事だった。


 その蜥蜴人は守人の見習いを指導し、訓練する役割を担っていた。亜人が珍しい地域でもあるため、蜥蜴人は差別的な扱いを受けてしまうが、この砦では異なる反応が見られた。彼から指導を受けた者たちは、彼の厳しさと知恵に尊敬の念を抱くことも少なくない。


「指導官」

 アリエルは立ち上がると、軽く頭を下げ、礼儀正しく彼を迎えた。蜥蜴人の視線は鋭いままだったが、アリエルに向かって小さくうなずいてみせた。


 青年は祭壇から離れたあと、〈収納空間〉から太刀を取り出し、血液と泥に薄汚れた刀を両手で持つように蜥蜴人に差し出した。その刀は裏切り者のザイドから回収していたものだった。


 老いた蜥蜴人はじっとその太刀を見つめた。彼の鋭い眼差しが刃の表面を滑り、傷ついた刃の状態を確かめるかのように細かく観察した。無表情でありながらも、どこか懐かしさと悲しみが混じり合ったような目つきをしていた。


『ザイドの刀だな』

 彼は顔を歪めるように唸ってみせた。〈念話〉を介して内耳に響く声には、彼の無念さが感じられるようだった。


 この太刀は見習いが訓練を終え、一人前の守人として認められたときに総帥から贈られるもので、特別な意味を持つ刀剣だった。それは単なる武器ではなく、守人としての責任と名誉を象徴するものであり、それを持つ者に重い使命を課すものでもあった。


『惜しいな……』

 彼はポツリと零すように言うと、神々の像に視線を向けた。


 かつての教え子がこのような形で帰ってくることを、彼は誰よりも悔やんでいたのかもしれない。神々の像に向けられた視線には、彼自身の役目を果たせなかった悔しさと、守人としての誓いを再確認する思いが込められているように見えた。

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