第189話 44〈口論〉
高い石壁の向こう、〈獣の森〉の何処からか黒狼の遠吠えが聞こえた。どこか物悲しい響きを持った声は、不吉な
洞窟から兄弟たちの遺体を回収し、入り口を封鎖するために派遣されていた守人たちが帰ってくるのが見えた。全身が泥にまみれ、黒衣は血液に濡れていた。〈
しばらくすると、集団の中から長髪の男が歩いてくるのが見えた。頭髪と髭は伸び放題で、油にまみれていて、白髪も目立つ。血に濡れた黒衣からは鼻を突く悪臭が漂い、とにかく汚い男だった。その男は手に持っていた物体をアリエルの足元に放り投げた。
「よう、赤眼の兄弟。こいつが何か分かるか?」
アリエルは不快感に眉を寄せたあと、足元に視線を落とした。そこには〈地走り〉の腕にも似た器官が転がっていた。戦いのさいに斬り取ったモノなのか、それとも死骸から切断してきたモノなのかは判断できなかったが、とにかく男の意図が分からなかった。
ヌメリのある体液に濡れた
男は黄ばんで黒くなった前歯を見せながら、
「なぁ、兄弟。そいつが何か分かるか?」
アリエルは男の顔をまじまじと見つめた。例に漏れず、かれも罪人として〈境界の砦〉に送られてきた男だった。どのような罪を犯したのかは知らないが、男が食堂で稚拙な武勇伝を語り、自慢するように女性の話をしていたのを聞いたことがあった。求められるように多くの女性と寝床を共にしていたので、彼女たちの旦那と喧嘩が絶えなかったのだと笑った。
しかし実際に彼が知っていた女性は、病気の
「あの売女どもはな! どうしようもなく俺のことが好きだったのさ」
酒に酔うと、男は決まって嘘を吐いた。
「俺の顔を見た途端、割れ目を濡らして股を開いたものさ」
その男は残酷な側面を持つばかりでなく、嘘つきで、哀れに思えるほど愚鈍だった。しかしある種の人間が皆そうであるように、かれも自分自身に向けられる軽蔑の視線や
自分こそが世界の中心であり、周囲の人間は自分を引き立てるためだけに存在する。だから俺はやりたいように生きる。それが戦士の理想的な生き方で、男らしいことであり、選ばれた人間にしかできない生き方だと本気で信じていた。彼はそういう愚かな考えを持つ人間だった。そしてそれはアリエルがもっとも苦手で、軽蔑する種類の人間だった。
青年は足元にちらりと視線を落としたあと、素っ気無く答えた。
「〈
厳密に言えば、それは脚だったのかもしれない。だが、それは大した問題ではなかった。男は腰に差していた刀を抜くと、刃が欠け、血に濡れたソレを得意げに見つめる。
「そいつはな、俺が仕留めた〈地走り〉の腕だ」
どうだ、すごいだろう? 男はそう言って臭い息を吐いた。
嫌味な態度を取るつもりはなかった、ただアリエルに認められたかっただけなのかもしれない。けれどふたりの間に接点はなかった。広場や食堂で擦れ違うことがあっても、会話はおろか、視線を合わせることすらなかった。
「気取った野郎だ」
男はそう言ってアリエルのことを侮辱してきた。しかしそれでも、若く実力があり、孤高の存在だったアリエルを羨ましく思うこともあった。
守人の中心的人物であるルズィに認められ、〈黒い人々〉として知られ、名家の生まれでもあるウアセル・フォレリに友と呼ばれ、寡黙なヤシマ総帥でさえ心を許しているようだった。そんな人物に認められたい、それは男が本心から抱いた承認欲求だったのかもしれない。
それを知ってか知らでか、アリエルは紅く明滅する眸で男を睨みながら言う。
「それが?」
いったいそれが何だというのだ。青年は不快感に顔を
だが、それはあくまでもアリエルの考えでしかなかった。誰もがアリエルやルズィのように巧みに
だからなのだろう。アリエルの言葉を侮辱と捉え、皆の前で
が、青年はそれを無視すると、広場に集まっていた兄弟たちのもとに駆け寄る〈世話人〉たちの様子を眺めていた。泥や血に汚れた手足を清めるためのものなのだろう、手に湯の入った桶を持ち、兄弟たちの世話をする姿が見られた。
そこに年老いた世話人がやってくると、アリエルの前に立っていた男に向かって桶を差し出す。が、男は桶を受け取らず、世話人の肩にぶつかるようにして何処かに行ってしまう。老いた世話人が倒れて泥の中で尻餅をつくと、アリエルは言い知れない怒りを感じ、剣を抜こうして柄を握った。
すでに男の首を
「いけません」
かれは穏やかな声で言うと、頭を横に振った。
「〈境界の砦〉にやってくる者は――たとえ、あのように横暴で粗野な男だったとしても、戦士として必要なのです。それに、あの男を殺すことは貴方さまの名誉になりません」
アリエルは一瞬、軽蔑するような目で世話人を見た。
「あんたの名誉はどうなる、あいつに酷いことをされたんだ。それなのに黙っているつもりなのか?」
「ええ、たしかに酷いことをされました。しかしソレがなんだと言うのでしょうか?」
青年は眉を寄せて、すぐに口を開いた。
「世話人がいるからこそ、俺たちは森で存分に戦うことができるんだ。なにより、俺たち守人は〈森の民〉を守るために存在する。そうであるなら世話人を
「しかし……守人がいなければ、混沌の脅威から民を守ることはできません」
世話人は白内障を患っているのだろう、白く
「他の人間がどのようなことを考えて〈世話人〉になるのかは分かりません。しかし我々の名誉は――少なくとも私の名誉と忠誠心は、森の民を保護する〈境界の守人〉という組織に捧げられました。そこで軽んじられようと、敗北主義者だと思われようと、私の信念が揺らぐことはありません」
アリエルは反論しようとしたが、すぐに口を
「守人は部族の脅威となる存在と戦って死ぬのです。仲間内で争って殺し合うものではありません」
アリエルは姿勢を正して胸に手をあてると、自分の失礼な態度を謝罪した。世話人は温かくて、優しい笑みを浮かべて答えてくれた。
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