第188話 43


 石に近きもの〈ペドゥラァシ〉から装備を受け取り、遺跡で対峙した〈混沌の化け物〉から手に入れていた骨や外殻の利用法について相談した翌日、アリエルは〈境界の砦〉近くの半壊した監視塔で見張りを行っていた。森に吹く風は冷たく、青年の吐き出す息は白かった。


 アリエルの任務は襲撃に備えて砦の周囲を見張ることだったが、彼がそこにいる本当の理由は、〈地走じばしり〉の棲み処になった洞窟に潜入していた〝影のベレグ〟の様子を確かめることだった。


 本来なら兄弟たちに尻拭いさせず、自分で邪神像を破壊するべきだったと後悔していた。だからなのかもしれない、せめて兄弟の無事を確かめようとしていた。


 青年が立っていた監視塔の屋上には木材で屋根が組まれていたが、一部が崩壊していて青く澄んだ空を見ることができた。青年は呪素じゅそを練り上げると、紅い眸で空を仰ぎ見て、それから上空を飛んでいた適当な鳥に向かって〝不可視のひも〟を伸ばしていく。


 もちろん、ソレは言葉のまま紐というわけではなく、意識をつなぐために呪素で形作られた〈結路〉だった。その呪術の紐によって鮮やかな瑠璃色の翼を持つ鳥が絡めとられていくのを確認すると、すぐに意識をつなげていく。すでに慣れてしまった作業だったからなのか、瞼を閉じると鳥の視点で森を俯瞰できるようになっていた。


 アリエルは洞窟の位置を思い出しながら鳥を誘導していく。その間も、青年は心のうちに焦りのような気持ちを抱いていて、ひどく落ち着かなかった。南部の森でも拠点が魚人たちに襲撃されたばかりだったので、本当なら南部に戻って仲間の様子を確かめたかった。


 けれど現実は思い通りにいかず、実際に行われるのかも定かではない襲撃の見張りを行う羽目になっていた。


 けれど森の民の掟に逆らって森の外に出ようと考えた時点で、それが困難な道のりになることは分かっていた。そしてそれが原因であるなら、現在直面していた問題の多くも受け入れなければいけないのかもしれない。青年はそう考えることで気持ちを落ち着かせようとした。自分自身の判断で招いた過ちなら、甘んじて受け入れようと。


 やがて襲撃者たちの野営地……というより前哨基地が見えてくると、荒廃と死の気配が横たわっていることに気がついた。


 ベレグは闇に乗じて一気呵成に襲い掛かったのだろう、焚き火のそばに無数の死体が散乱し、混沌とした光景が広がっていた。遺体の多くは泥や血液にまみれ、魂を持たない人形のような表情で空を見つめていた。その中には若い戦士の遺体も残されていて、抵抗したあとが確認できないソレは、まるで眠っているようにも見えた。


 多くの天幕は炎に包まれ黒煙が立ち昇っていた。炎は大地を赤々と照らし、そこに敵の拠点が存在していた事実すら消そうとしていた。


 泥や血に濡れた遺体のそばには剣や槍が無造作に落ちていて、戦闘の激しさがうかがえた。戦いが終わったあとのこの場所には、生と死、そして勝利と破滅の痕跡ばかりが残されていた。だが、それすらもやがて降り積もる雪によって忘却に埋もれていくのかもしれない。


 前哨基地の上空を旋回していると、毛皮と革の衣服を着こんだ戦士たちのそばで何かが動いているのを見つける。どうやら死肉のニオイが風に運ばれて森の中に広がっているようだ。血の臭いに引き寄せられた野生の獣が集まってきていた。


 最初に姿を見せたのはカラスとオオカミの群れだった。カラスは何処からともなく飛来し、高い木々の枝に集結して騒がしく鳴いていた。カラスの黒い羽は死体の周りに不気味な影を投げかけていたが、見事な毛皮を持つ餓えた黒狼たちは、不穏な影を気にすることなく死肉をむさぼっていた。


 時折、その鋭い牙と眼孔は森の暗闇に向けられていた。まるでそこに潜む何かに警戒し、おびえているようにも見えた。森の深い静寂に異様な気配が満ちている。混沌の化け物が接近しているのかもしれない。


 そこに巨大な翼を持つ猛禽が空から舞い降りると、警告し威嚇するように鋭い視線で睨みながら死肉を突いていく。近くに身を潜めていたキツネや小さなサルの群れも集まってくる。獣たちは互いの距離を保ちながら、豪勢な食事にありついていた。


 死肉のニオイは地中に潜む腐食性昆虫にも届いているようだ。地中からい出てきた奇妙な甲虫が――黒光りする外骨格に異様に膨れた腹部を持つ昆虫が、死体の口や鼻、眼球に入り込んでいくのが見えた。


 死者の体内で蠢く無数の昆虫は死肉を切り刻み、自分たちの棲み処に持ち帰っていくために必死に働いているようだった。その仕事ぶりはグロテスクだったが、自然の中で行われる恐ろしい営みのひとつでしかない。しかし死体の分解に従事してくれていると頭では理解していても、気色悪いことに変わりなかったが。


 アリエルは気持ちを切り替えると、黒狼の群れの中から若く力強い個体を選び、鳥に絡まる呪素の紐を伸ばしていく。野生の獣と意識をつなげるのは難しいが、呪素の操作に慣れてきた今ならできると考えたのだろう。しかし、ご馳走を前にしたオオカミの意識に入り込むのは難しかった。そこで近くにいたキツネとの接触を試みる。


 しばらくして鳥とのつながりが消えるのを感じた。一瞬の暗転のあと、アリエルはキツネの視点で世界を見るようになっていた。どうやら試みは成功したようだ。青年はキツネの意識に働きかけて洞窟内に導いていく。キツネは死肉を見つめて名残惜しそうにしていたが、いそいそと洞窟の暗がりに入っていく。


 アリエルは呪素を慎重に操作しながらキツネを誘導していく。〈地走り〉が近くにいるかもしれないので、つねに警戒する必要があったのだ。


 壁に掛けられた松明たいまつの灯りに沿って進んでいくと、〈地走り〉の死骸が道を塞いでいる現場に行き当たる。戦闘から逃げてきた個体だろうか、ブヨブヨした気色悪い体表がただれていて、人間の腕にも見える無数の器官が切断されているのが確認できた。戦いを生き延びた呪術師たちの仕業なのかもしれない。


 死骸と岩の隙間に身体をじ込むようにして先に進む。それは小さなキツネにとって大変な作業だったが、なんとか反対側に出ることができた。そのまま先に進むと、〈地走り〉や戦士たちの死骸に交じるように、黒衣を身につけた兄弟たちの死体が横たわっているのが見られるようになった。


 おそらく〈地走り〉との戦いで殺された者たちの遺体だろう。身体のあちこちに食い千切られた傷痕が確認できた。やはり無謀だったのかもしれない。日常的に行われる訓練にさえ、まともに参加しようとしない兄弟たちには荷が重すぎたのだ。


 未熟な部隊を率いていたベレグのことを思うと、青年はいてもたってもいられなくなる。ベレグの実力は誰よりも知っていたが、血に狂った呪術師と地走りが徘徊する洞窟だ。危険な目に遭っているかもしれない。


 洞窟の奥に進むにつれて死体の数は増えていく。黒衣を身につけた守人の死体を見つけると、すぐに駆け寄って身元を確認するが、幸いなことにベレグの姿は見つからなかった。


 キツネは濃い呪素の気配に呼び寄せられるように、邪神像が鎮座していた広大な空洞に侵入していく。周囲には惨たらしい死骸が横たわっていて、邪神をかたどったと思われる石像が倒壊してバラバラに砕けているのが確認できた。おそらくベレグの仕業なのだろう、兄弟は任務をやり遂げたようだ。


 石像の近くを通ると、祭壇に残された獣の死骸に昆虫が群がっているのが見えた。ふと異様な気配を感じて暗がりに視線を向けると、影の中に溶け込むようにして座り込んでいる男の姿を見つける。近くに駆け寄ると、それがベレグだと分かる。しかし怪我をしている様子はない。能力を使い過ぎて休んでいるだけなのかもしれない。


 普通の人間なら、地走りと無数の死体に囲まれながら休むベレグの神経を疑うかもしれないが、戦士としては当たり前の行動なのかもしれない。身体を休められるときに休んでおかないと、あとで大変なことになる。


 いずれにせよ、守人は多大な犠牲を出しながらも襲撃者たちが占拠していた洞窟を制圧することができたようだ。あとは死骸もろとも洞窟を封鎖するだけでいい。


 ベレグの無事を確認して安心したあと、キツネを出口まで誘導し、呪素のつながりを断って解放することにした。


 その洞窟で多くの兄弟を失っていたが、アリエルは少しも気にしていなかった。守人の任務は過酷で、死に慣れてしまっていた所為でもあるが、結局のところ兄弟の多くは〝他人〟でしかなかった。そこで誰が死のうがどうでも良かった。


 ……あるいは、そう割り切らなければ、守人として精神が持たないのかもしれない。兄弟の全員が罪人というわけではない。ベレグやラファのように、事情があり仕方なく砦に送られてくる者もいるのだ。


 アリエルは瞼を閉じると、兄弟たちの魂が安息を得られるように祈りの言葉を口にした。

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