第251話 32〈幻翅百足〉


 夜明けまでのわずかな静けさのなか、アリエルたちは視界がきかない霧のなかを歩き続けていた。冷たい空気が地表を覆い、視界はぼんやりとした白い薄布に包まれているようだった。その霧の中から樹木の幹がぼんやりと浮かび上がり、彼らの進む道を幽霊のように見守っている。足元の落ち葉が水気を含み、踏みしめるたびに微かな音を立てた。


 目的地にしていた〈境界の砦〉の近くまで来ていて、もう少しで本隊と合流できる場所までやって来ていた。疲労が動きを鈍くしていくが、不屈の精神が身体を支えた。砦にいるルズィとは連絡を取り合っていて、襲撃で散り散りになっていた守人や戦狼も砦に帰還していて、すでに本隊と合流して襲撃に備えているようだった。


 やがて前方から人々のざわめきが聞こえてくる。微かな金属音や話し声が霧のなかに響き渡っている。ラライアが先行し、音の発生源を確かめに行くことになった。彼女は勢いよく駆け出すが、足音は聞こえず、白銀の体毛は霧のなかに溶け込むようにして見えなくなる。


 数分後、ラライアが無事に戻ってくる。彼女の表情は険しく、嫌な緊張感が漂っていた。

『砦に攻撃を仕掛けようとしている蛮族の部隊を見つけた』


 視界がきかない霧の所為せいで敵部隊は確認できなかったが、たしかに呪素じゅそを帯びた無数の存在が感じられた。耳を澄ませば、彼らが襲撃の準備をする音さえ聞こえてくるようだった。戦いを予感させる緊張感が、冷たい朝霧のなかに不穏な空気を漂わせていく。


 砦のすぐ近くまで来ていたが、そこにたどり着く前に、この新たな脅威を排除しなければならない。全員が武器を手にして戦闘の準備を整えていく。霧のなかでの戦いは視界が悪く、不確定要素が多い。だが、それが守人にとっての通常の戦場だった。


 襲撃に関する情報をルズィに伝えたあと、ラライアに先導されるようにして一行は敵部隊の側面に移動する。砦からの応答は早く、守人たちの準備が整うまでの時間を稼ぐため、アリエルたちは行動を開始する。


 音を立てないように森を進んでいく。葉が擦れる音や、木々の間を抜ける風の音が耳に心地よく響くが、その裏に潜む緊張感が静けさを乱す。視界がぼんやりと白い膜に覆われ、森の深い緑が淡く霞む。足元の湿った土がわずかに沈み込み、何度か足を取られそうになる。足場の悪いなか、ラライアは鋭い感覚で一行を導いていく。


 霧が薄れ、少しずつ敵の姿が見えてくる。襲撃者は大規模な戦闘部隊を展開していて、蛮族の戦士が多数を占めていた。


 その中には、奇妙な装飾で着飾った数人の呪術師の姿も確認できた。部族の中心的人物だろうか、人骨を加工した装飾品で着飾った壮年の女性たちが異質な存在感を放っている。呪術師である彼女たちの目は鋭く、森を見通すような冷たい光を帯びている


 まるで幼少のころに見る悪夢のようだ。人骨で作られた首飾りや腕輪が、彼女たちの動きに合わせてカタカタと乾いた音を立てる。その音が霧の中に響き渡り、彼女たちの存在感を際立たせていく。厄介なことに彼女たちは膨大な呪素を身にまとっていて、一筋縄ではいかないことは容易に想像できた。


 すでに大樹が林立する場所からは遠く離れていたが、周囲の木々は密集しているため、視界は限られている。アリエルたちの動きは敵に察知されにくいが、同様に敵部隊の動きもつかみづらい。


 ラライアは鼻を鳴らすと、辺りの気配やニオイを嗅ぎ分けながら進む。彼女の危機に対する察知能力は鋭く、一行が進むべき道に導いてくれていた。そうしてアリエルたちは敵部隊に気づかれることなく、地の利が活かせる高台まで移動していく。


 そこで〝影のベレグ〟は、異様な存在が紛れていることにいち早く気づく。数人の戦士が鎖につながれた荷車を引いているのが見えた。どのようにして足場の悪い森にソレを持ち込んだのかは分からないが、彼らは木製の檻に閉じ込められた化け物を連れてきていた。その姿はおぞましく、背筋を凍らせるのに充分な存在感を放っていた。


 巨大な檻の中でうごめくその生物は、一見すればムカデのような形状をしていた。しかし通常のムカデとは比較にならないほど巨大で、その体長は大熊よりも大きく、〝地走り〟にも匹敵する。硬い黒光りする外骨格は、黒い鋼鉄で形作られているかのように堅固けんごで、朝日を受けて不気味に輝いていた。


 その背中には半透明のはねが生えていた。翅は薄い膜で構成されていて、光が透けて輝いて見える。その翅が小刻みに震えるたび、透けて見える翅脈しみゃくが血管のように脈打ち、静寂の中に不気味な羽音が響き渡る。翅を振動させるたびに、薄い膜が風を切る音が周囲に響き、その音が蛮族の戦士たちに妙な緊張感を生み出しているのが確認できた。


 頭部には無数の小さな単眼が密集して、それぞれ異なる方向に動いているように見えた。その眼が光を反射すると、無数の赤い点が霧のなかできらめく。おそらく眼に映るものすべてが、化け物の獲物であり攻撃対象なのだろう。


 ソレが無数の脚で檻の中をい回るたびに、硬い脚が木材を削り、カタカタと不快な音を立てる。赤黒く染まる脚先は鋭く、触れるだけで致命傷を負うほど危険なものになっている。同様に化け物の大顎にも鋭い牙が並んでいて、そのひとつひとつが獲物を引き裂くためだけに存在しているようだった。


 口器からはにごった液体が滴り落ち、その液体が檻に当たると、まるで酸のように木材の表面を焼き焦がすのが見えた。頭部から伸びる長い触覚がゆらゆらと揺れるのを見ていると、単なる生物以上の恐怖を抱く。まるでこの世のものではない、異界からの侵略者のような雰囲気を醸し出している。


 だが、その感覚は間違っていない。それは〈幻翅百足げんしむかで〉の名で知られた混沌の化け物で、半透明の翅に飛行能力は備わっていないが、不気味な音を立て発光しながら振動するソレは幻覚を見せる能力があった。基本的に湿った洞窟の奥深くで獲物を待ち伏せて、翅による振動と音で幻を見せて暗闇に誘い込む捕食者だった。


 ゆっくりと霧が薄れていくなか、アリエルたちは息を殺し、目の前の異様な光景を見つめていた。蛮族の戦士たちが、どうやってこの化け物を捕らえたのかは謎だった。しかし、そんなことに思いをめぐらせる余裕はなかった。あのおぞましいムカデを檻から解放させるわけにはいかなかった。


 木々の陰に身を潜めるようにして、青年は〈念話〉を使って仲間たちと連絡を取り合う。ラファは長弓を手に配置につくと、攻撃の合図を待つ。まずは檻の周囲にいる蛮族の戦士たちを始末する必要があったが、その中には人骨で着飾った呪術師の姿も確認できた。彼女たちに気づかれずに戦うことは難しいだろう。


 豹人の姉妹は敵に存在を察知されないように、繊細な操作で体内の呪素を練り上げながら呪術を準備していく。彼女たちの手のひらからは、青白い光が漏れ出し、靄のように足元に広がっていくのが見えた。


 アリエルは深く息を吸い込み、蛮族の戦士に狙いを定める。そして合図とともに一斉攻撃が始まり、矢が放たれる音が森の静寂を切り裂いていく。


 矢が放たれると同時に、豹人の姉妹は〈影舞〉を使い標的に接近すると、呪術師たちに向かって〈火球〉や〈雷槍〉を撃ち込んでいく。霧のなかで無数の光が飛び交い、敵は予期していなかった攻撃にす術なく倒れていく。


 アリエルとラファは次々と矢を放ち、蛮族の戦士たちを容赦なく射殺していく。敵は驚きの表情を浮かべ、混乱しながらも反撃を試みるが、アリエルたちの攻撃は正確で迅速だった。革鎧すら身につけていない蛮族たちは、胸部や腹部に矢を受けて次々と倒れていく。


 ベレグも影の中を音もなく移動し、確実に敵を仕留めていく。かれの動きは捉え難く、敵が気づく前に刃がその喉元を斬り裂いていた。しかし戦いは決して一方的にはならなかった。敵の数は多く、蛮族の戦士たちは襲撃に気がつくと咆哮を上げ、凶暴な本性をむき出しにしながら襲いかかってくる。


 戦闘が激しさを増していくと、檻の中のムカデが動き出すのが見えた。血の臭いに反応し興奮しているのだろう。硬く黒光りする外骨格が朝日を反射し、背中の半透明の翅が微かに震えるようになる。化け物は身をくねらせ、檻の中で暴れ始める。


 その巨体が檻にぶつかるたび、木材が不気味な音を立てて軋む。何度も身体をぶつけるようになると、木片が飛び散り、檻の構造が限界に近づいていくのが分かった。木材の割れる音が耳に届くたび、恐怖で心臓が締め付けられるような感覚に襲われる。


「檻が破壊されるぞ!」

 ベレグの声に反応して、アリエルは檻のなかにいるムカデに向かって矢を放つ。


 しかし硬い外骨格に弾かれ、まるで手応えがない。傷つけるどころか刺激してしまい、檻の中で暴れるムカデの動きはますます激しさを増していく。背中の翅が振動して異様な光と音を発生させる。その巨体が檻にぶつかると、今度は木材が大きく割れ、裂け目から黒光りする外骨格の一部が飛び出すのが見えた。

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