第250話 31
鬱蒼とした茂みをかき分けて進むと、ラファの姿が見えてきた。少年は大樹の幹に寄りかかるようにして座り込んでいて、表情には疲労が浮かんでいたが、その目は戦意を失っていなかった。負傷していたが、幸いにも軽傷だったらしく応急処置も済ませているようだった。
「待たせたな、ラファ」
アリエルが声をかけると、少年は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「心配かけました」
ラファは一言だけ口にしてから、ゆっくり立ち上がる。そのぎこちない動きから、まだ痛みが残っていることが分かった。互いの無事を確認し合い、生きて会えたことを喜んだ。その瞬間だけ、かれらは戦場の悲惨さを忘れることができた。しかしその喜びも長くは続かない。すぐに砦に戻らなければいけない。
「行こう」と、アリエルは短く言葉をかける。
負傷していたラファも気持ちを切り替えて、出発の準備を整える。
森のなかを進むうち、戦場の凄惨な光景を目にすることになった。砦へ戻る道中、そこかしこに蛮族の死体が散乱しているのが見える。率直に言って地獄のようだった。ざっと見ただけでも、百を優に超える戦士たちが無残に倒れている。
わずかな筋組織で、かろうじて手足がつながっている状態の者もいれば、切断された足を抱え込むようにして息絶えている者もいる。裂けた腹部からは内臓が飛び出し、地面に赤黒い血溜まりをつくっている。嫌な死臭が鼻をつき、目をそらしたくなるような光景がどこまでも続いていた。
すでに腐食性の軟体動物と、季節を問わず飛び交う蠅の大群が死体に群がっているのが見えた。異様な羽音が耳に入り、背中に冷たい汗が流れていく。戦場の悲惨さが痛烈に伝わってくる。蛮族の死体のなかには、少ないながらも守人の姿も確認できた。兄弟たちの黒衣は裂け、剣や槍を折られた戦士たちが覚めることのない永遠の眠りについている。
アリエルは何度か立ち止まりたくなる衝動に駆られた。かれらの安否を確かめたいという強い気持ちに胸が締め付けられたが、今はそれどころではない。とにかく時間がないのだ。アリエルたちは止まることなく歩き続けた。死んだ者たちがそれを望んでいるのかは分からないが、生き残った者として前に進まなければならなかった。
一行は薄暗い森を黙々と進んでいく。誰もが言葉を失い、足場の悪い森のなかを移動することだけに集中していた。アリエルは視線を前に向けながら、戦場に横たわる兄弟たちに心の中で祈りを捧げた。その足取りは重く、しかし確実に前に進んでいく。
いつの間にか日が暮れていた。高い位置にある大樹の枝葉から射し込む陽光が、燃えるように森を赤く染め上げている。血の臭いと夕暮れの赤が混じり合い、戦場の残酷さを際立たせていく。移動をつづけていると、死体が転がっていない場所に出ることがあった。その
アリエルは大樹の根に背をもたれかけ、深く息を吐いた。脇腹の傷がズキズキと痛む。ノノから〈治療の護符〉を受け取ると、慎重に負傷箇所に押し当てる。護符が青白く燃え上がりながら灰に変わると、開いていた傷口がゆっくり閉じていくのを感じる。
出血のあとはひどかったが、護符のおかげで深刻な状態になることもなく、感染症を避けることもできた。とはいえ、戦闘の疲労は全身にこびりついていた。身体の節々が痛みを訴え、重く鈍い頭痛に襲われていた。自重せずに〈混沌喰らい〉の能力を複数回使用した所為なのかもしれない。
ラライアや豹人の姉妹も同様に傷を癒しながら休息を取っていた。言葉は交わさず、ただ瞼を閉じて精神を休める。重苦しい沈黙が漂うなか、森の静けさがかえって耳障りに感じられた。時折、ずっと遠くのほうから炸裂音や戦士たちの雄叫びが聞こえてくる。混沌の化け物に遭遇した蛮族たちが戦っているのだろう。
アリエルは「少しだけ休もう」と心の中で自分に言い聞かせながら瞼を閉じ、短い時間の中で心身を休める努力をした。体力の回復が急務だ。まだやるべきことが山積みで、砦に戻るまで気を抜くことは許されない。ふたたび立ち上がる時のために、この時間を利用して身体を休める。やがて短い休息が終わると、砦に向けて移動を開始する。
すでに日が暮れようとしていた。森が闇の中に沈み込み、木々の影が深くなる。このまま移動するのは危険な行為だったが、砦に迫る脅威を考えれば立ち止まるわけにはいかなかった。
本来なら、夜の森は避けるべきだった。幽鬼や化け物が徘徊していて、闇がすべてを飲み込んでしまう時間帯は、戦闘慣れした守人にとっても危険な場所になっていたからだ。
周囲の木々が不気味な影を作り出し、まるで闇そのものが生き物のように揺れ動いている。夜の静寂を破るのは、風に揺れる枝葉の音と、遠くから聞こえる獣の吠え声。どの音も警戒心を植え付けるには充分なものだった。
しかし砦が攻撃されている今、呑気に野営している時間などなかった。命の保証はないが、無理をしなければ多くの命が失われる。闇の中で視界は限られているが、それでも前進し続けるしかない。全員が身構え、足音を立てないように細心の注意を払う。心臓の鼓動が耳の奥で響き、神経が張り詰めているのを感じる。
豹人の姉妹が呪術を使い、星の輝きにも似た照明を打ち上げる。青白い光球が静かに浮かび上がり、夜の森を照らし出していく。その光はゆっくりとアリエルたちに追従し、木々の影を鮮明に映し出す。それらの影は踊るように揺れ動き、見るものすべての不安を煽る。
暗い森の中では、その照明だけが鮮やかに見える。青白い光が照らす範囲は限られていて、外側には深い闇が広がっている。その光と闇の対比が印象的で、目の前に広がる世界が二重に存在するような錯覚を抱くほどだった。
ふと、その照明から視線を外すと、すぐに闇が戻ってきた。林立する大樹の輪郭だけが、どうにか闇の中で判別できる。すると影のなかに潜んでいるかもしれない脅威に対して不安を抱き、背筋が冷たくなるのが分かった。どれほど身体を鍛えようとも、恐怖から逃れることはできないのかもしれない。
夜の森は静寂に包まれているが、その静寂の中に潜む脅威はどこにいても感じ取れる。風が枝を軋ませ、ざわざわと葉を揺らす、遠くから聞こえてくる獣の咆哮と相まって緊張感を増幅させていく。木々の間から幽鬼の囁き声が聞こえると、思わず立ち止まりそうになる。しかし闇にのまれないように、光球に導かれながら足を進める。
夜の森を支配する恐怖は、深い闇と静寂だけでは終わらなかった。砦に近づくにつれて、激しい戦闘が行われた痕跡が確認できるようになる。地面に
異形の骨が剥き出しになり、粘液質の体液にまみれた地面が戦闘の凄惨さを物語っていた。その戦場の中心には異様な光景が広がっている。死体に群がる
醜悪な怪物は闇の中で
その群れは進行を妨げるかのように森を埋め尽くしていた。かれらは死者の身体を無情に引き裂き、腐敗した肉を貪る。光球がその恐ろしい姿を鮮明に照らし出し、目を背けたくなるような光景が浮かび上がる。しかし食屍鬼の多くは光に反応することなく夢中になって食事をつづけている。
けれど油断することはできない。群れのなかには光の動きに反応し、こちらに視線を向けるものもいた。そのため、できるだけ他の個体の注意を引かないように対処しなければいけなかった。
アリエルは〈収納空間〉から弓を手に取ると、一体ずつ確実に矢で仕留めていく。矢が標的に命中するたびに、食屍鬼は苦しそうに前屈みに倒れ込む。矢は正確にその頭部を貫き、音も立てずに息の根を止めていく。矢が底を突く心配はない。戦場のいたるところに矢が突き刺さっていたので、足りなければ回収すればよかった。
ノノとリリは〈影舞〉の能力を駆使し、影の中を音もなく移動していく。彼女たちは食屍鬼の背後に忍び寄り、呪術で強化された鋭い爪で喉元を切り裂いていく。鮮血が闇の中でほとばしり、夜の中に鮮やかな赤い花が咲いていくかのようだった。ベレグは姉妹たちの能力に驚きながらも、影そのもののように動き、次々と敵を片付けていく。
その間、ラライアは周囲の警戒を続けていた。耳をそばだてて、異変があれば即座に反応できるようにしていた。彼女の鋭い感覚が、敵の襲撃からアリエルたちを守ってくれていた。そうして障害になる食屍鬼だけを処理したあと、敵に察知される前に移動する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます