第249話 30〈偽りの吐息〉


 なにが起きるか分からないので、得体の知れない〈死霊術しりょうじゅつ〉によって復活した化け物の死骸を焼却する。豹人の姉妹が〈火炎〉と〈業火〉の呪術を使い、息を合わせるようにして巨大な火柱を立ち昇らせる。燃え盛る炎は醜悪な化け物を包み込んでいき、鼻に突く腐臭と共に黒煙を上げながら焼き尽くしていく。


 その間、アリエルはラライアたちと協力して〈浄化の護符〉を使い周辺一帯に広がる瘴気を払っていく。護符が青白い炎に包まれながら灰に変わるたびに、淡い光が広がり、周囲の瘴気が徐々に薄れていく。異様な腐臭も和らぎ、しだいに空気が澄んでいくのが感じられた。


 そこに〝影のベレグ〟とリンウッドも加わり、細心の注意を払いながら辺りに立ち込めていた邪気を払っていく。その間、ノノとリリは炎の呪術を操り、蛮人の死体も完全に焼き払っていく。熱気と黒煙が立ち込めるなか、ラライアは敵の襲撃に警戒しながら汚染の度合いを確認していく。


 邪悪な呪術師が倒れたことで影響が薄れたのか、それまで森を包み込んでいた濃霧が徐々に晴れていくことに気が付いた。視界が広がり、わずかだが陽光が木々の間から差し込むようになっていた。かれらは戦闘の疲労を癒すように光芒の中に立ち、しばらく陽光を浴びる。


「これで……少しは安心できるな」

 アリエルは息をつきながら、浄化の効果を確かめるように周囲を見渡す。


『でも、油断はできません』ノノは見事な房毛を持つ尾をひと振りする。

『この森には私たちが想像もできないような脅威が潜んでいます』


 ラライアはうなずくと、鼻先を風に向けてニオイを嗅ぐ。

『近くに敵の気配は感じ取れないけど、引き続き警戒しておくよ』


 アリエルは深呼吸し、心を落ち着けるために瞼を閉じた。意識を集中させると、腕の痛みが気になるようになったが、今は考えるべきことに集中する。戦闘のあとの静寂に包まれた森には、依然として邪悪な気配が漂っていて、長くとどまることはできなかった。


 捜索していた仲間のひとりベレグと合流したので、これからのことについて相談する必要があったが、その前にリゥギルのそばに立っていたネズミの亜人と話をすることにした。アリエルが近づくとリゥギルは首をかしげて、それからつぶらな瞳で青年を見つめる。


 リンウッドは、その小柄な身体を感じさせない毅然とした態度でアリエルに近づくと、古風な言葉づかいで助力に感謝する。彼は見事、女王に与えられた任務を遂行し、邪悪な呪術師に奪われていた秘宝を取り返すことができたのだ。その功績を誇るように、胸を張って報告する姿が印象的だった。


 一気に言葉を口にしたあと、リンウッドは背筋を伸ばすように立ち、あらためて礼儀正しく感謝の意を表した。


『長く苦しい旅路だったが、ついに任務を果たせた。これで女王に顔向けができる』

 アリエルは秘宝の詳細については知らなかったが、ちらりと見えたソレは宝石にも似た小さな赤い石で、その深紅の輝きは一度見たら忘れられないほど鮮烈だった。


「あの呪術師は俺たちにとっても脅威だった。リンウッドの助けに感謝する」

 アリエルが微笑みながら答えると、ネズミの亜人は小さくうなずいて、それから荷物の中から慎重に〈呪術器〉を取り出して青年に差し出した。美しい細工が施された箱で、微かな呪素じゅそを帯びていることが一目で分かる。


 しかしリンウッドは、どこか申し訳なさそうに言った。

『本来なら守人殿のために、より相応しい報酬を用意すべきだったが、今はそれしか差し出せるものがないのだ』


 アリエルが受け取った〈呪術器〉は、手のひらに乗るほどの小さな箱だった。四方を白銀で補強された小箱には、複雑な模様で精緻な彫刻が施されている。その彫刻は古代の呪紋じゅもんを連想させ、箱全体に不思議な雰囲気を漂わせていた。


『これは我らが王国で〈偽りの吐息〉と呼ばれるものだ』

 リンウッドは〈呪術器〉について簡単な説明をしてくれた。


 どうやらその小箱には使用者の姿を変える効果が付与されているようだ。ただし、姿を変えると言っても、それは霧状の幻影で顔や身体を包み込むことで、他者に偽りの姿を見せる程度の効果しかない。しかしそれでも遠目から見れば、姿を欺くことが可能になっていた。


 アリエルは興味深そうに手のなかの箱を見つめる。細工の美しさに見とれつつ、そこに秘めた可能性について考える。たしかに大きな効果は期待できないが、潜入工作などで役立つに違いない。


 リンウッドは旅の間、この〈呪術器〉を使い、姿を偽りながら部族の集落で補給を受けてきたのだという。東部ではネズミの亜人は珍しいので、厄介事を避けるために必要だったのだろう。


『どんな形であれ――』と、リンウッドは言う。

『今後はあなた方の役に立ってくれるだろう』


 アリエルは感謝の気持ちを示したあと、〈偽りの吐息〉と呼ばれた小箱を大事に保管する。それを見たネズミの亜人は深々と頭を下げた。


『短い邂逅ではあったが、実に頼もしい仲間だった。守人殿、どうか無事にご使命を果たされますように』


 それからリンウッドは再会の約束を口にし、軽やかにリゥギルの背に飛び乗った。人を背に乗せられるほどの巨体を持つ白い鳥は嬉しそうに身体を震わせる。その姿は優美でありながら、野生の力強さに満ちていた。


 リゥギルは地面を軽く蹴りながら、トントンと飛跳ねるように前に進む。そして羽ばたく準備をするように、そのフサフサの羽に包まれた翼を広げる。そして大気を震わせように力強く羽ばたいてみせた。はじめの一蹴りで地面から離れ、次の瞬間には大空に向かって飛び上がっていて、白い矢のように空を鋭く突き進んでいく。


 翼が広げられるたびに風が吹き、大樹の枝がざわめいた。リゥギルの飛行は力強く、それでいて滑らかで、見る者を圧倒する。その背に乗っていたリンウッドは相棒を信頼しているのか、堂々とした姿勢で手綱を握り締めていた。


 リゥギルは上昇を続け、やがて大樹の上方に姿を消していった。白い翼が太陽の光を反射し、空の彼方で一瞬だけ光り輝く。その後、リゥギルの姿は枝葉に隠れてしまい、地上からは見えなくなってしまった。


 リンウッドが慌ただしく空の彼方に飛び去ったあと、アリエルは深呼吸をして、これからのことを考え始める。呪術師の影響力は確実に薄れてきていたが、森にはまだ邪悪な気配が漂っている。ここでゆっくりしていられる時間はないだろう。


 しかし今は兄弟との再会を喜ぶべきだろう。青年はベレグと言葉を交わしたあと、今後のことを話し合うことにした。


 ベレグの報告によると、呪術師との激しい戦闘でラファが負傷していて、すぐ近くで身体を休めているという。心配だったが、幸いにも軽傷とのことだった。ベレグが案内してくれるというので、化け物の焼却が完了したことを確認したあと、すぐにラファが待っている場所まで移動することにした。


 どうやらベレグたちが追っていた呪術師はもうひとりいたようだ。〝赤頭巾〟に所属していると思われる呪術師ほど厄介な存在ではなかったが、それでも苦戦を強いられたという。軽傷とはいえ、ラファが負傷するほどの相手なのだから侮れない敵だったのだろう。


 いずれにせよ、〈遠距離念話〉を妨害していたすべての呪術師を始末することができたので、〈境界の砦〉にいるルズィとも連絡が取れるようになるだろう。


 負傷していたラファと合流したら、襲撃者たちの目を避けて砦に戻ることになるだろう。守人が直面している脅威は一時的に和らいだが、まだ終わりではない。すぐに砦の防衛を強化しなければならないし、今回の戦闘で得た情報をもとに、今後の戦略を練る必要があった。


〈偽りの吐息〉あるいは〈銀紋の小匣こばこ


 手のひらに収まるほどの小さな銀の箱は、〈石に近きもの〉たちの手によって神々の言葉が刻まれ、複雑な模様で精緻な彫刻が施されている。その模様は古代の〈呪紋〉を連想させるもので、螺旋や幾何学的な線が繊細に交差し、ひとつひとつの線がまるで生きているかのように流れている。見る者の目を奪うほど精緻な彫刻は、箱全体に神秘的な雰囲気を漂わせている。


 使用者が箱を開くと霧状の幻影が全身を包み込み、他者に偽りの姿を見せる。しかしそれはあくまでも幻影であり、完全な変身ではない。使用者の身体的特徴は変わらないが、視覚的には異なる姿に擬態することができる。例えば、別の人物や種族になりすますこともできる。この効果は一時的で、数時間後には元の姿に戻るようになっていた。


 不可思議な箱の起源については知られていないが、古代の呪術師たちによってつくり出されたと言われている。伝説によれば、彼らは呪紋と神の血液に由来する白銀を組み合わせることで小箱に神の吐息を封じ込めることができたとされている。


 この呪術器は変装や隠密行動に特化していて、幻影の力で使用者の姿を変えることができる。しかし具体的な作り手や時代は不明だった。

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