第252話 33


 戦いの喧騒に混じるようにして、ムカデの化け物が檻の中で暴れる音が聞こえてくる。巨体が檻に叩きつけられるたびに、木材が軋み、護符が次々と破けていくのが見えた。木材に貼り付けられた数十枚の護符は、おそらく〈幻翅百足げんしむかで〉の能力を封じ込めるためのモノだったのだろう。


 異変に気づいた蛮族の呪術師は、化け物を落ち着かせようと必死に呪文をとなえるが、もはや効果はないように思えた。


「檻を破壊させるな!」

 指揮官らしき戦士の叫び声も虚しく、ムカデの覚醒を妨げていた護符が次々に破けていくと、半透明の翅がハッキリと発光するようになる。その光は薄暗い森を照らすように広がっていき、蛮族の戦士たちに奇妙な影響を与えていく。


 ムカデの翅が輝きを増し振動が激しくなると、戦士たちの目は虚ろになり、まるで操られているかのように行動するようになる。その姿は酩酊状態のようでもあり、無意識のうちに檻に向かってフラフラと歩いて行く。数人の戦士が檻にたどり着くと、ムカデに指示されたかのように檻を破壊しはじめる。


 かれの動きからは意志のようなものは感じられず、目にも生気がない。ムカデの翅が発する振動音と、戦士たちの無意識の動きが奇妙な空間をつくりだしていく。そして檻が破壊されていくのが見えた。


 それを阻止するため、アリエルとラファは戦士たちに矢を放ち、豹人の姉妹も呪術を巧みに操りながら蛮人を屠っていく。しかし操られた戦士は恐れ知らずで、矢を受けても立ち上がり、手足を失っても檻を破壊しようする。


 ムカデの巨体が檻から徐々に解放されていくと、翅はさらに輝きを増し、戦場全体に異様な光景をつくりだしていく。その絶望的な状況の中で化け物の解放を阻止するため、戦士たちを標的に攻撃を続けていた。


 しかし〈幻翅百足〉の能力を妨げる護符が失われた今、操られた戦士たちの動きはますます狂気じみていき、檻の破壊は避けられない状況になっていた。かれらは自意識を失くし、痛みすら感じないかのようだった。矢が肉を貫き、血が飛び散っても、彼らは一心不乱に斧を叩きつけていた。


 そして、ついにその時が訪れた。檻の破壊につながる致命的な破損が生じると、ムカデは恐ろしい呪力を解き放った。その瞬間、周囲に強烈な衝撃波が走り、檻を構成していた木材が木っ端微塵に吹き飛んだ。戦士たちも巻き添えになり、木材の破片が飛び散り、耳をつんざく音が響き渡る。


 完全に解放されたムカデは背中の半透明な翅を振動させながら、まずは自らを解放した蛮族の戦士たちに襲いかかった。近くにいる生物すべてが攻撃対象なのだろう。翅が発する不気味な光が戦場に緊張感を与え、その姿はまさに悪夢の具現化だった。


 ムカデは顎を大きく開き、近くにいる戦士たちを次々とみ殺していく。その動きは速く、容赦がなく、戦士たちの身体は真っ二つに切断されていく。化け物の狂気じみた怒りは、呪文をとなえようとしていた呪術師にも向けられる。彼女たちの悲鳴が森の中に響き渡り、血と肉が飛び散っていく。


 檻の周囲にいた蛮族たちを喰い尽くすと、おぞましいムカデの標的はアリエルたちに変わる。ゆらゆらと揺れる触角が、木々の影に潜む彼らの位置を正確に捉える。外骨格が薄明りの中で黒光りし、背中の翅が輝きながら振動するのがハッキリと見えた。


 つぎの瞬間、ムカデは無数の脚で地面をうようにして凄まじい速度で接近してきた。重々しい身体を揺らしながら、地面に鋭い脚を突き立て、暗黒の嵐のように襲い来る。遠くにいても地鳴りのような振動が足元から伝わり、周囲の木々が揺れる。


 ノノとリリは黒毛皮のマントに備わる〈影舞〉の能力を使い、闇に紛れながら攻撃の機会をうかがっていたが、その動きもムカデの鋭い触角は捉えていた。化け物の巨大な顎が――残忍な笑みを浮かべるように開き、毒液が滴り落ちるのが見えた。


「ラファ!」

 アリエルの声に反応して少年が矢を放つが、ムカデの硬い外骨格に当たった矢は跳ね返る。黒光りする殻は鉄壁の防御を誇り、その間にも化け物は距離を詰めてくる。


 アリエルは長弓を引き絞り、渾身の一矢を放つ。だが、ムカデの動きは予想以上に素早く、矢は化け物の頭部を外れて外骨格に当たり、はじかれるように跳ね返ってしまう。そしてムカデはそのまま突進を続け、鋭い脚で地面を切り裂きながら接近してくる。


「退け!」

 ベレグの声が響く。アリエルたちは後退しようとするが、ムカデの速度は圧倒的だった。その巨体が生きた嵐のように襲いかかる。恐怖が全身を駆け巡り、すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られる。実際のところ、蛮人の多くは逃げ出していた。


 そこにムカデが突進してくる。アリエルは横に飛び退くと、地面を転がるようにしてムカデの突撃を避けた。冷たい泥濘と枯れ葉の感触によって、戦闘の緊張感が全身を支配していくのが分かった。


 アリエルを捉えることは出来なかったが、化け物はそのまま直進し、ラライアに襲い掛かった。白銀の戦狼は素早い動きで攻撃をかわすと、鋭い爪でムカデの脚を攻撃するが、甲高い金属音が聞こえたかと思うと、爪の一撃は弾かれてしまう。


「クソったれ……」

 アリエルは息を切らしながら悪態をつくと、毛皮の〈収納空間〉に手を伸ばし、戦利品として回収していた矢の束に触れる。


 その中から目的の矢を取り出した。それは呪術で強化された特殊な矢だ。銀色の光沢を帯び、矢の尖端は異様に鋭く、つめたい輝きを放っている。この矢ならムカデの外骨格を貫いて致命傷を与えられるだろう。


 ラライアたちがムカデの注意を引いている間、青年は慎重に矢をつがえ、深く息を吸い込んで狙いを定める。ムカデの黒光りする外骨格が朝日を浴びてきらめき、その背中の半透明な翅が微かに震えているのが見えた。


 アリエルが矢を放つ瞬間、かれには時が止まったかのように感じられた。弦が震え、矢が手を離れ、呪素じゅそで強化された矢が青白い光を発しながら宙を舞う。それは光の尾を引き、薄闇を切り裂くように飛んでいく。まるで一筋の流れ星のようだ。


 化け物は接近する異常な呪素に反応したのか、翅を震わせ、奇怪な咆哮を上げた。しかし青年は狙いを外さなかった。呪術の力が込められた矢はムカデの外骨格に突き刺さり、その硬い殻を貫いて体内に深く突き刺さる。


 その瞬間、ムカデの身体は激しく震え、異常なほどの苦痛を示すように全身をくねらせた。黒光りする外骨格が割れ、血液と混じり合った膿のような――あるいは毒液めいた体液が噴出し、辺りに腐臭が漂う。化け物は苦しみの咆哮を上げ、その翅が狂ったように震え始めた。


「やったのか……?」

 アリエルの声は自信なげにかすれていた。その間にもムカデはのた打ち回り、周囲の木々に身体をぶつけながら狂乱の中で苦しみ続けた。ラライアは素早く青年のとなりまで駆けてくると、息を切らせながら警戒するように周囲を見回した。


「まだ終わってない!」

 ベレグの声が森の空気を裂く。アリエルはすぐにその言葉に反応し、別の矢をつがえた。瞳孔は緊張で開き、冷や汗が額を伝う。


 化け物の巨体が泥濘のなかでのた打ち回っているにもかかわらず、その半透明の翅はあやしげに発光し、恐ろしい敵意を放っていた。無数の単眼が、薄暗い森の中で不気味に輝きながらアリエルを睨みつける。


 その瞬間だった。青年の身体が、自分の意に反して動き出したように感じられた。手元の弓が揺れ動き、鋭いやじりが影に潜むベレグに向けられる。心臓が凍りつくような感覚が全身を駆けめぐる。〈幻翅百足〉の能力に影響されているのだろう。


「クソ、何が……」

 青年の意志とは裏腹に、腕は矢を放つ準備を進めていた。強靭な意志で抗おうとするが、ムカデの能力は凄まじく、まるで精神と身体が別々に動いているようだった。


 視界がハッキリせず、意識が遠のくような感覚に襲われる。そこにラライアがやってくると、突風のようにムカデに飛びかかり、鋭い爪で翅を切り裂いて見せた。ムカデは再び苦痛の叫びを上げた。それは耳障りな金属音のように森に響き渡っていく。攻撃を受けた化け物の影響力が一瞬だけ弱まる。ノノとリリはその瞬間を見逃さなかった。


 彼女たちは準備していた呪術を一気に解き放ち、不可視の〈風刃〉がムカデの翅を斬り飛ばしていく。翅は地面に落ち、淡い光を放ちながら微かに震えた。その瞬間、アリエルの身体は抗うことのできない束縛から解放された。


 青年は深呼吸しながら化け物に弓を向け、ムカデの頭部、無数の単眼の中心に狙いを定めた。弓を引き絞ると、矢が発光し始めた。その光は森に立ち込めていた瘴気を払うように鮮烈で、膨大な呪力が矢に集中していくのが感じられた。


 そして矢は正確にムカデの頭部を貫いた。青白い光が炸裂し、ムカデの身体が震えた。激しい衝突音が周囲の空気を震わせ、地面が揺れるほどの衝撃波が発生した。化け物の頭部は破裂し、その巨体は地面に崩れ落ちる。

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