第253話 34
アリエルたちは息を整えながら、泥濘に横たわる巨大なムカデの死体を見下ろしていた。〈
周辺一帯に大きな動きがなく、戦闘が終わったことを確認すると、仲間たちと手分けして蛮族の死体から使えそうなものを回収することにした。死体は無数に転がっていて、どれも無惨な姿を晒している。手足が切断され、内臓が飛び出したままの死体も少なくなかった。辺りには鼻を突く糞尿の臭いが漂っていて、すでに蠅の大群が死体に群がっていた。
長居できないので黙々と作業を続けた。弓矢や護符、それに糧食を見つければ回収していく。泥や血液にまみれているものは、残念だが泥のなかに投げ込んで後続部隊が手に入れられないように処理する。
『エル、こっちに来て』
豹人の姉妹のひとりが声をあげると、アリエルはそちらに向かう。どうやら敵の呪術師が隠し持っていた長方形の小箱を見つけたようだ。それは護符入れとして使われていて、それなりの数の護符が収められていた。これまでの戦闘で大量の護符を消費していたので、大きな助けになるだろう。
ラライアもまたオオカミの感覚を使って物資を探していたが、時折、頭を持ち上げて周囲の動きに警戒していた。戦狼の鋭い嗅覚と感覚は、敵の接近をいち早く察知するために不可欠だった。
蛮族の死体からは粗末な斧や錆びついた剣も見つかったが、それらはあまり役に立たないかもしれない。しかし放置することはできないので、使えそうなモノは〈収納空間〉にいれて回収する。砦にいる兄弟たちが有効活用してくれるだろう。
とにかく時間がない。次の襲撃に備えるためにも迅速に行動しなければならない。朝日が完全に昇り、朝霧が晴れていく。陽の光が森の中に差し込むようになると、戦場の惨状が浮き彫りになっていく。散乱する無数の死体、そして瀕死の状態で血溜まりに横たわる戦士。それらすべてが、戦いの凄まじさと悲惨さを物語っていた。
砦にいるルズィとは、すでに〈遠距離念話〉を使い連絡を取り合っていて、襲撃部隊の撃退に成功したことを報告していた。呪術によって交わされる言葉は確実な情報伝達手段だったが、敵の呪術師に会話を探知されないように警戒しなければいけない。とはいえ、対抗手段のないアリエルたちにどうすることもできなかった。
増援としてこちらにやってきていた守人の部隊も、すでに砦に引き返しているようだった。彼らには無駄な戦闘を避け、砦の防衛に専念するために迅速な行動が求められていた。
アリエルたちは敵の装備や物資の回収を終えると、すぐさま味方が待つ砦に向かって移動を開始した。ぐずぐずしていたら、また別の敵部隊に発見されて戦闘になってしまうかもしれない。この容赦のない戦場では、つねに死の影がつきまとう。生き残るためにも、最善の選択が求められていた。
移動の間、湿った土と枯れ葉を踏みしめる音だけが微かに聞こえていた。砦に近づくにつれて、戦いの痕跡があちこちで見られるようになった。倒れた木々、血溜まりに横たわる無数の死体、そして無用の長物と化した武器が散乱している。襲撃のさいの激し戦闘で倒れた守人の姿も多く目にすることになった。
「急ごう」とアリエルは仲間たちに声をかけた。
青年の声には焦燥感が滲んでいた。戦闘が終わったとはいえ、敵の斥候が近くに潜んでいてもおかしくない状況だ。蛮族が再び襲撃を仕掛けてくる前に砦に戻らなければならなかった。
一行を先導していたラライアの耳がピンと立ち、鼻が微かに動くたびに、かれらは緊張し警戒を強めた。呪術の扱いに長けたノノとリリは、上空を飛ぶ鳥の視界を使い周囲の監視をすることにした。夜間の間や濃霧が立ち込めていたときには利用できなかったが、今なら鳥の助けを借りることができた。
襲撃が頻繁に行われる戦場では、偵察能力が生死を分ける重要な役割を果たしていた。危険を察知したときにすぐに対応できるように、彼女たちはつねに準備を整えていた。
鳥の視界を通じて見える森の景色は、地上から見るソレと大きな違いはない。無数の死体が散乱し、血で染まった泥濘と倒木に寄り掛かるようにして死に絶えた化け物の姿が地獄のような光景をつくり出していた。戦闘のあとは一目瞭然で、どこを見ても死と破壊の痕跡が確認できた。
姉妹は鳥の視界を通して手に入れた情報を仲間たちに伝えていく。ノノとリリは戦場の緊張感をものともせず、冷静に状況を見極めていく。
『前方、右手に敵の生き残りを見つけた。負傷しているみたいだけど、注意して』
リリはどこか遠くを見るような目つきで言う。静かな声だったが、緊張感を含んでいる。
髭面のベレグは彼女たちから手に入る情報に逸早く反応し、影に潜みながら敵を処理していく。彼の目は鋭く、片耳だったが敏感に周囲の音を拾っていた。アリエルたちも敵が隠れている場所を見逃さないように、細心の注意を払って進んでいく。戦場では一瞬の油断が命取りになる。それは誰もが分かっていることだった。
『左前方に動きがあります』
ノノは極彩色の瞳で遠くを見つめる。彼女たちの視界は広範囲に及び、小さな動きも見逃さなかった。そして彼女の眼は木々の隙間から覗く敵の姿をハッキリと捉えていた。
アリエルたちは彼女の指示に従い、敵に対処するために行動する。敵に察知されないように慎重に動いて、敵が接近に気がつくころには、すでに戦闘に移る準備を整えていた。
豹人の姉妹は呪術の力を駆使して敵の動きを先読みしていく。その情報は、混乱した戦場において決定的な優位性をつくりだしていく。蛮族の数や配置、そして彼らの装備まで鳥の目を通して見えていた。もちろん鳥を使った偵察にも限界はあるが、戦場の緊張感は彼女たちの精神をさらに研ぎ澄ませていた。
やがて〈境界の砦〉を囲む高い壁が見えてきた。砦を出るときには気がつかなかったが、戦闘の名残をそこかしこで見ることができた。
防壁の一部は襲撃のさいに大きく崩れていて、瓦礫の山ができていた。そこには蛮族の死体だけでなく、化け物の死骸も積み上げられていた。襲撃者たちが砦に
防壁の近くでは数人の守人が呪符を使って化け物の死骸を焼却していた。彼らの顔は煤で汚れ、疲労の色が濃く浮かんでいた。アリエルたちの存在に気づいているようだったが、黙々と作業を続けていた。焼却の炎と熱波に顔をしかめながら、炎が赤々と燃え上がり、黒煙が空に立ち昇っていくのを見つめていた。
すでに多くの守人が襲撃に警戒して防壁に立っていたが、アリエルたちに声を掛ける者はいない。誰もが疲れ切っていた。戦闘の疲労と恐怖が、彼らの身体だけでなく精神を蝕んでいるようだった。化け物には慣れていたが、部族間の壮絶な戦闘を経験した者は少なく、戦場の空気にのまれているのかもしれない。
やっとのことで砦に到着したが、安心するのはまだ早い。砦の壁を越えるまで気を抜くことはできなかった。戦場では、何が起こるか分からないのだから。
アリエルは変わり果てた砦の様子を見ながら、心の奥底で得体の知れない怒りを感じていることに気がついた。戦闘の現実が彼の心に深い傷を残していた。これまでも部族同士の争いに介入してきたが、自分たちが悪意の標的にさらされることは一度もなかった。矢面に立たなければ理解できないこともあるのかもしれない。
青年は仲間たちと共に砦の中に足を踏み入れる。そのさい、瓦礫を踏みしめる音が妙に重くアリエルの耳に響いた。
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