第254話 35〈砦〉


 どこもかしこも戦いの痕跡が色濃く残り、ひどい状態だった。訓練所として利用していた広場には崩れた壁の瓦礫が散らばり、黒い石畳には血液の痕が点々と残されていた。塔の壁面にも乾いた血がシミをつくっていて、この場所で何人もの戦士たちが犠牲になったことが分かる。


 日夜戦い続けてきた守人たちもまた、戦闘の疲労や眠気に苛まれているようだった。かれらは精神的にも疲れ切っていて、誰もが重い足取りで歩いていた。ひとつひとつの動作が鈍く、かれらが戦場でどのように戦い、そして傷ついてきたのかを物語っているようでもあった。


 戦場の残酷さと壮絶な戦いのあとが、砦全体に暗い影を落としていた。防壁のそばに座り込んでいた者たちは、血に濡れた武器を握りしめ、どこか遠くを見つめている。彼らは疲れ果て、黒衣は返り血に染まり、その目は虚ろで気が狂うような戦いのなかに心を置き去りにしてきたようにも見えた。


 訓練場を見回すと、瓦礫のなかに半ば埋もれた蛮人の死体や折れた槍と刀剣が散乱し、壁際には土埃をかぶった死体が無雑作に積み上げられているのが見えた。それは森で見る毒キノコのように、ヌラヌラとした赤黒い液体に濡れていた。


 アリエルたちが歩くたびに砂礫を踏む音が聞こえ、何人かの守人は顔をあげるが、すぐに自分たちの世界に引き籠る。他人に構っている余裕なんてないのだろう。砦の世話人の中には、守人たちに応急手当を施している者もいた。しかし彼らも疲れ切っていて、負傷していた者の傷口を縫い合わせる手が震えていた。


 辺りには血に塗れた布切れや、真っ赤に染まった担架、それに天幕が張られて野外病院めいた空間をつくり出していた。そこでは動かすことすらできない者たちの応急処置が行われていて、低い呻き声が絶えず聞こえていた。


 アリエルはその光景を目の当たりにして、あらためて紛争の過酷さを思い知らされる。すでに何度も経験していたことだったし、見慣れていた光景でもあったが、これが戦場の現実だった。疲れ果てた戦士たちに瓦礫の山、そして血に染まった大地――それらすべてが戦争の姿だった。


 しかしどれほど苦しい状況であっても、まだ戦いは終わっていなかった。次なる襲撃に備え、気を引き締める必要があった。


 負傷していたラファの治療を世話人のひとりに任せると、アリエルたちは戦闘を指揮していたルズィに会いに行くことにした。世話人は負傷したラファに肩を貸し、壁の内側に立ち並ぶ塔のひとつに向かってゆっくり歩いていく。石造りの黒い塔にも投石機による被害が確認できたが、なんとか崩れずに持ち堪えていた。


 敵の侵入を許した塔内の空気は重く、嫌な緊張感が漂っていた。アリエルたちは血に濡れた廊下を抜け、ルズィが待つ塔に向かう。壁掛け燭台の薄暗い灯りに浮かび上がる廊下にも戦闘の痕跡が生々しく残っていた。折れた刀や扉に突き立てられた斧、そして誰かのものと思われる切断された指や腕が無造作に転がっていた。


 戦闘を指揮していたルズィは、総帥の住居にもなっていた高い塔の中にいた。その塔は砦内でも戦略的に重要な場所になっていた。塔の石壁は分厚く堅固に築かれていて、ある種の緊張感と厳かさに満ちていた。そこでは仲間たちがこれからの計画について話し合っていた。


 部屋に入ると、木製の長机を囲むルズィたちの姿が確認できた。そこには古い地図と、被害状況に関する数枚の粗紙が広げられていた。地図には赤いインクで無数の印が書き込まれていて、それらが敵の位置やこれまでの戦闘の経緯を示していた。


 部屋の隅には総帥を護衛する古参の守人たちが待機していて、短い休息を取っていた。彼らの顔には疲労と戦いの痕跡が刻み込まれていた。それを見るだけで、どれほど切迫した状況だったのか分かる。塔の外階段に暗部らしき者たちの遺体が放置されていたので、総帥を標的にした襲撃が行われたことも確認できた。


 返り血に染まった黒衣を身につけたルズィは、机に広げられていた地図を厳しい表情で睨んでいた。彼の周囲には戦闘経験豊富な守人たちが集まり、それぞれが自身の意見を述べていた。彼らの会話は短く、しかし的確であり、無駄話をする者はひとりもいなかった。


 アリエルたちもその会話に加わり、これからの計画について意見を交換し始めた。壮絶な戦いを経験してきた直後だったが、つぎの戦いに備えて気を抜くことはできなかった。


 その中には、照月家の姫〈照月來凪てるつきらな〉と、彼女を護衛する八元やもとの武者たちの姿もあった。彼女は厳しい状況にもかかわらず冷静さを保っていて、その目には揺らがない強い意志が見てとれた。ふたりの武者は彼女のかたわらに立ち、話し合いの行方を見守っていた。


 アリエルは皆に状況を説明するため、ノノとリリ、それにベレグに手伝ってもらいながら森の状況を説明していく。彼らの言葉は現実味を帯びていて、戦場を見てきた者だからこそ見える視点で語られた。森で遭遇した蛮族の部隊、そして〈神々の遺物〉を使い混沌の化け物を使役しようとしていた〝赤頭巾〟らしき者たちの存在についても語られる。


「連中はただの蛮族の寄せ集めじゃない」

 ベレグの言葉に部屋の空気が一瞬で張り詰めるのが分かった。

「赤頭巾だけじゃなく、暗部も関与している」


 すでに〈念話〉で聞かされていたが、ルズィはその報告に険しい表情を見せた。まさかこれまで中立的な立場をとってきた結社が襲撃に直接関与するとは思っていなかったのだろう。彼は深く息を吐き、深刻さを増していく戦局を理解するために考えをめぐらせる。


 それからルズィはつぶやくように言った。

「暗部と赤頭巾か……正直なところ、それは想定外だった。けど、それですべての辻褄が合うかもしれない。そもそも蛮族の寄せ集めに守人の砦を攻め落とすようなことはできない。高度に組織化された集団でもなければ――たとえば首長の軍隊でもなければ不可能だ」


 部屋の中にいる誰もが事態の深刻さに顔をしかめ、これから行われるであろう戦いに考えをめぐらせる。照月來凪も青年の報告に耳を傾け、静かに考え込んだ。彼女を護衛する武者たちも緊張しているのか、骨刀に手を添え、いつでも彼女を守れるように準備しているように見えた。


「私たちも、首長の計画に巻き込まれたの?」

 彼女は眉を寄せながら、じっと地図を見つめていた。

「それとも、これはただの偶然なの?」


「正直なところ、それは俺にも分からない」ルズィは彼女の言葉に返事して、ふたたび全員に向けて厳しい声で言った。「いずれにせよ、戦いの準備を整えろ。これからの戦いは今までとは桁違いに厳しいものになる。俺たちは生き残りをかけて、死力を尽くして戦わなければいけない」


 暗部と赤頭巾の関与は、それらの組織を実質的に束ねてきた首長が背後にいることを示唆していた。首長が率いる軍隊はただの戦闘集団ではなく、策略と知略に長けた人物が多く所属している。かれらの戦力は〈混沌の化け物〉と対峙してきた守人に匹敵するだけでなく、一部の軍団は守人を凌駕しているといっても過言ではない。


「私たちが相手にしなければいけない敵は、ただの蛮族じゃない……」と、彼女は小さな声で言った。「首長の策略と結社の力が組み合わさった、この森で最も恐ろしい存在になる」


 部屋の中は緊張感に包まれていた。アリエルの報告がもたらした新たな情報は、古参の守人にも衝撃を与えていた。総帥は黙り込んでいたが、その表情には驚きと共に深い憂慮が浮かんでいた。


 アリエルは窓際に立つと、砦を囲む壁上歩廊を見つめる。そこにも瓦礫が散乱し、負傷者を運び出す世話人の姿が見られた。森から帰還した戦闘部隊は、すでに戦狼と一緒に戦いに戻る準備を始めていた。数人の守人は自ら戦い続けることを選んだのか、その動きには迷いがなく、戦いに対する恐れも感じられなかった。


 視線を動かすと、焼け焦げた草木や崩れた防壁の全容を目にすることができた。焼却される死骸からは黒煙が立ち昇り、つめたい風にのって流れていくのが見えた。そこでアリエルはふと〈幻翅百足げんしむかで〉の死骸を処理していなかったことを思い出す。帰還を急いでいたこともあり失念していたが、瘴気を放つ死骸を放置することはできないだろう。


 ルズィに相談すると、ついでに敵の本隊の位置を偵察してきてほしいと頼まれる。

「ラライアを連れて行ってくれ」


 青年はベレグか豹人の姉妹を連れて行こうとしたが、砦の戦力として重要な役割があるようだった。しかしラライアとふたりなら、すぐに砦に戻ってこられるだろうと納得し、出発の準備を整えることにした。

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