第4話 02


 入り口の薄い垂れ布が風に揺れて動くと、薄暗い天幕のなかに冷たい風が侵入してくる。アリエルは黒オオカミの毛皮に包まると、戦士長たちの終わりの見えない話し合いにうんざりして思わず溜息をついた。


 天幕の中央に置かれた円卓には奴隷たちが運んできた果物とチーズ、それに樹皮のように硬い干し肉が置かれていたが、食欲がないのか、青年はほとんど手をつけていなかった。


 戦闘に疲れていた所為せいなのかもしれないし、身体中に染みついた泥と血液の臭いの所為だったのかもしれない。いずれにせよ、彼は温い蜂蜜酒を飲んで空腹をごまかしていた。


 夜襲を指揮すると息巻いていた戦士長と話をつけていた〈ルズィ〉が戻ってくると、アリエルは作戦に変更がないか戦友にたずねた。


「いや、連中はやる気だ」

 ルズィは後頭部でまとめた黒髪を揺らしながら言う。

「それに、夜襲には俺の部隊も参加することになった」


「どうやら連中は、〈境界の守人〉の戦闘力を過大評価しているみたいだな」


 青年の言葉に戦友はニヤリと笑みをみせる。

「連中が俺たちの戦力を必要以上に過信するのも仕方ないことだ。森が〈混沌〉の脅威に晒されていた時代には、〈境界の守人〉は各部族の最精鋭で構成された戦闘集団だったんだ。今では見る影もないがな」


「盗人に強姦魔……そういえば、死罪を言い渡された殺人者も見かけるようになった」と、アリエルは泥で汚れた爪を見ながら言う。「首長が身の周りにはべらせている女戦士たちのほうが、そいつらよりよほどいい仕事をするだろうな」


「たしかに」

 ルズィは戦士長たちの顔をちらりと盗み見たあと、アリエルの思慮深く、それでいて冷たい輝きを放つ深紅しんくの瞳を見つめた。黒衣のフードから覗く青年の長髪は黒い泥に汚れていたが、種族特有の薄い青みを含んだ月白色げっぱくいろの髪は彼が特別な存在であることを皆に思い出させていた。


 そのアリエルは溜息をついてみせたあと、蜂蜜酒を口に含んだ。

「首長は俺たちの働きを評価しているみたいだが、〈境界の守人〉が〝調停者〟だってことを忘れている節がある」


「忘れてなんかいないさ」と、ルズィは鼻を鳴らす。

「それどころか、利用できるモノなら、なんだって利用するつもりでいる」


「総帥はそのことを知っているのか?」

「大将は生真面目な人間だが、部族の支援がなければ〈境界の守人〉が存続できないことも知っているんだ」


「この紛争に守人が積極的に介入するのを、総帥は見て見ぬフリをするつもりなのか」


 アリエルが興奮して深紅の瞳をあやしく発光させているのを見ながら、ルズィは言った。


「落ち着け、兄弟。誰も彼もがお前のように馬鹿正直に生きられるわけじゃない。駆け引きが必要なときもあるんだ。たとえそれが間違った道だと分かっていてもな」


 彼が干し肉にかじりつくと、アリエルは戦友のために木製の湯飲みに酒を注ぐ、そしてそこで奇妙な視線に気がついて顔をあげる。


 天幕の薄闇に佇む大男の姿が見えた。浅黒い肌に編み込んだ黒髪が特徴で、厚い毛皮に隠れた甲冑の一部には鉄が使われていた。見慣れない風体の戦士だったが、自分たちのことを〈黒い人々〉と呼ぶ部族の戦士で間違いないだろう。


 毛皮交易で財を成した商人たちは健康な子どもたちを買い集め、幼少のころから厳しい訓練をさせ、恐れを知らない戦士に育てると聞いたことがあった。けれどそれが事実なのかは分からなかった。


 現在の〈境界の守人〉には、〈黒い人々〉の戦士はひとりもいない。怪物に殺される役は誰にでもできるが、危険な森で行商人たちの護衛ができるのは特別にきたえられた〈黒の戦士〉たちだけだったからだ。


 商人たちは森で生きる部族の義務を放棄しているようにみえるが、〈境界の守人〉が現在も活動を続けられるのは、〈黒い人々〉の支援があるからだった。守人たちの食料や衣類など、物資の多くは行商人たちによって〈境界の砦〉に運ばれてくる。ときには、〈黒の戦士〉たちが守人の戦闘訓練に参加することもあった。


 実際のところ、アリエルも行商人を護衛する〈黒の戦士〉と試合をしたことがあるが、木刀を手に取って一分も経たないうちに地面に倒されることになった。


 起き上がるたびに倒され、血が滴り月白色の髪を赤く染めた。神々が彼らに与えたのは類まれな身体能力だけでなく、恐るべき潜在能力を秘めた戦闘技術でもあった。


 アリエルは何度も打ちのめされた。それでも彼は決して戦いを放棄せず、勝つことを諦めなかった。何度も立ち上がり、木刀に叩かれ皮膚が裂けても戦い続けた。


 そのうち、名もなき〈黒の戦士〉はアリエルを勇敢な戦士と認め、商人の護衛で〈境界の砦〉にやってくるたびに特別な訓練をしてくれるようになった。


 青年が多くの戦場で戦い、そして生き延びることができた理由があるとすれば、それは〈黒の戦士〉に鍛えられたことに理由があるのかもしれない。


「おい、エル」戦友の言葉で視線を外し、もう一度視線を戻したときには、〈黒の戦士〉の姿は天幕から消えていた。「こんな硬い肉じゃなくて、蜂蜜を塗った柔らかい鶏肉が食いたくないか?」


 アリエルは眉を寄せて、それから慎重に言った。「あの戦士を見たか?」

「どの戦士だ?」


 ルズィは熟れた果物を手に取ると、天幕の隅に立っていた豹人の子どもに手渡した。それを近くで見ていた奴隷は、一瞬嫌な顔をみせたが、彼に睨まれるとすぐに顔を伏せた。部族の奴隷は人として扱われることはない。


 痩せ細った奴隷はモノのように扱われ、仕事ができない者は飢えて死んでいく。そしてそれを気にする人はいない。


「そんなことより」と、ルズィは言う。「駄獣だじゅうがひいてきた荷車のなかに首長の物資があるのは知っているな。あの中から武器を選んで持っていけ。〈呪術鍛造じゅじゅつたんぞう〉された名刀はないが、なにも持たずに夜襲をかける必要もないだろう」


 戦友の言葉にアリエルは肩をすくめて、それから低い静かな声でたずねた。

「この戦い、俺たちに勝ち目があると思うか?」


 ルズィはにやけた表情を消すと、氷の彫刻のような冷たい表情で言った。

「俺たちと一緒に砦からやってきた兄弟はともかく、首長が派遣する戦士たちの多くは遺跡で死ぬことになるだろうな」

「秘宝を探している余裕なんてないか……」


「いや、お前は呪術師の姉妹を使って、その〝秘宝〟とやらを探せ。敵の主力部隊は俺が引き受ける。遺跡を探索できる機会を、みすみす逃すようなことはしたくない」

「助かるよ」


「気にするな、そいつは俺のためでもあるんだからな。でもな、兄弟。こんな馬鹿げた戦いで無理をする必要はない。危ないと思ったら、すぐに安全な場所まで逃げろ。俺たちには〈混沌〉の怪物を退治するっていう、イノシシの糞みたいに立派な任務があるんだ」


 アリエルは戦友の言葉が気に入ったが、それを悟られないように視線を逸らした。

「ああ、あの牢獄のような砦に帰るまでは死なないさ」


「それがいい」彼は酒を飲んで、それから口元を拭いた。

「クソ、ここに来れば女が抱けると思っていたのに、古墳地帯を彷徨さまよう〈食屍鬼グール〉みたいに干からびた女しかいない」


「あれは奴隷だ。綺麗な女戦士なら何人か見たけど」

 アリエルの言葉に彼はニヤリといやらしい笑みを浮かべたあと、なにも言わずに天幕を出て行った。戦友の態度に思わず溜息をついたあと、アリエルは自分が指揮することになる戦士たちに会いに行くことに決めた。


 彼が天幕を出て行くとき、数人の戦士長は嫌な顔を見せたが、青年の深紅の眸で見つめられると黙り込んで何も言えなくなってしまう。彼らは知っているのだ、神々の血を継ぐものたちが、他者に対してどんなに残酷になれるのかを。


 かつて森の巨人たちが暮らしていたという大樹のうろでは、落ち着きを取り戻した戦士たちがあちこちで焚き火を囲んで談笑している姿が見られたが、時折、冷たい風にのって苦痛に苛まれる声と、微かなすすり泣きが聞こえていた。


 アリエルは黒オオカミの毛皮をしっかり羽織ると、天幕のそばで彼のことを待っていてくれていた豹人の姉妹と合流する。彼女たちは嬉しそうに瞳を輝かせると、彼のために確保してくれた食事を差し出す。青年は食欲がないことを伝えたあと、ふたりの厚意に感謝を示した。


 それから干し肉にかぶりつく姉妹を見ながら、部隊のことを相談することにしたが、勝気な姉妹は首長の戦士たちが足手まといになると不満を口にする。けれど難しい戦いになることが分かっているのか、真面目に部隊の編成に取り組んだ。


 夜明けと共に出発して、夜には〈霞山かすみやま〉の麓に到着する予定だ。戦士たちを招集したあと、慎重に装備の確認を行った。

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