第5話 03〈神々の森〉


 古の神々が愛した〝原生林〟は果てしなく広がっている。


 部族間の交易を行う行商人たちは森の地形に詳しいが、それでも〈神々の森〉の全容を知るものはいない。北部には豹人と人魚の聖地〈イアーラの涙〉と呼ばれる広大な湖があり、南部の沼地には古の邪神を崇拝する排他的で危険な亜人が潜み、行商人を護衛する〈黒の戦士〉たちの頭部を切り落として干し首にする風習があるという。


 ちなみに切断された頭部は、頭蓋骨と筋肉、それに脂肪や臓器が取り除かれたあと樹液が入った熱湯で茹でられる。頭部が半分ほどの大きさに縮むと――その光景は想像もしたくないが――裏返しにされて、余分な肉を削ぎ落とされ、皮膚を縫い合わせながら整形していく。


 そのさい、煮込んだときに抜け落ちていた頭髪を装飾として再利用することもある。


 それらの行程が終わると火で熱した石を詰め込む。石が冷えてきたら取り出す。それを何度も繰り返すことで頭部は縮んでいき、ついには石が入らなくなる。すると今度は焼いた砂を使って皮を引き締めていく。


 すべての行程が終わると、亜人たちは拳大ほどの大きさになった頭部を紐で首や腰に吊るし、敵対者たちに己の武力を誇示するために利用する。


 商人たちはこの広大な森に、今も存在が知られていない多くの部族が存在するというが、あながち間違いでもないのだろう。〈境界の砦〉を離れ、薄暗い原生林を歩いていると、それを身にしみて感じることができた。


 敵部族が占拠する〈霞山かすみやま〉に夜襲をかけるため、独立混成部隊が大樹のうろを出発してから数時間、敵対的部族からの襲撃を警戒していたアリエルは主力部隊から距離を置いて森を移動していた。


 風は冷たく道は険しい。ゴツゴツした岩は緑に苔生していて滑りやすく、歩くだけで余計な体力を使うことになった。


 青年と一緒に行動するのは豹人の姉妹と、砦からやって来ていた守人が七名、それに首長の戦士が九人。兄弟たちは背中を預けられるほど頼りになるが、首長の戦士たちは病人のように痩せていて、歩くのもやっとの状態だった。それに加えて、人間よりも身体能力に優れている亜人はひとりもいなかった。


 アリエルは年齢のわりに思慮深く賢い青年だったが、まだ世界を知らず経験が浅かった。だから首長が嫌がらせに弱い戦士を部隊に配属したのだと勘違いして、ひとり憤慨していた。


 守人が命を危険に晒しながら、組織と関係のない争いの真只中に立つというのに、どうして紛争の当事者である首長は姿を見せないのだ。


 しかし感情的な青年が軽視していた戦士たちは、森では一般的な戦力とされ、戦闘経験も豊富な男たちだった。不幸なことに、アリエルは〈境界の砦〉という小さな世界しか知らなかった。


 兄弟たちは〈混沌〉からやってくる怪物と戦うため、血の滲むような戦闘訓練を行っている。そしてその代価に――命を懸けなければいけない守人は、決してそれを代価だと認めようとはしないが、森の各部族から提供される食料や酒を好きなだけ胃袋に入れることができた。


 けれど多くの部族は貧しい。彼らが日常的に略奪を行うのも、部族を養うための十分な量の作物が得られないからだった。


 そのことを考えようともしなかったアリエルは、険しい道のりにウンザリしていたこともあり、次第に首長に対して怒りが込みあげてくるのが分かった。いっそのこと首長を殺して、この馬鹿げた紛争を自分の手で終わらせればいいのではないのか。


 しかし、もちろんそれは現実的な考えではなかった。首長を護衛する戦士の多くは、〈黒の戦士〉に匹敵、あるいは凌駕するほどの力量を持つと言われている。結局のところ、アリエルにできることは何もなかったし、すべて根拠のない憶測から始まった意味のない考えだった。


『エル』

 ノノの声が頭のなかに直接聞こえると、彼は足を止めて振り返る。綺麗な体毛に包まれた豹人の姿を見ると、それまでに感じていた怒りが消えていくのが分かった。


「どうしたんだ、ノノ」

 彼女は牙を見せながら、小さく唸ってみせる。


『先行する部隊から、だいぶ遅れてしまっています。このままだといくさに間に合わなくなります』


 仕方ない。と、疲れ切った様子の戦士たちを見ながら青年は思う。


 ひどく汗を掻き、白い息を吐いていた男たちは立ち止まると、深紅の眸を発光させる青年の姿を不安そうに見つめる。彼らの多くは人間だけで生活する部族の出身で、そもそも豹人や人間以外の亜人を見たことがなかった。だから不安だったのだ。


 北部の広大な地域を占める〈赤霧の森〉では、人間の血を好む〈夜の狩人〉と呼ばれる悪鬼が徘徊していて、生命あるものを見境なく襲うと、まことしやかに語られている。ソレは真っ白な肌に真っ赤な瞳を持つと信じられ、人々の想像を掻き立て恐怖させた。


 その悪鬼を思わせる得体の知れない守人が彼らを指揮していることも、戦士たちの不安に拍車をかけていたのかもしれない。


 アリエルは黙り込んだまま思考したあと、姉妹の助言に従い、人間の戦士たちを休ませることにした。無理をして大事なときに動けないようでは意味がない。兄弟たちに周囲の警戒を任せると、彼は姉妹を連れて移動経路の偵察に行くことにした。


 目的地である〈霞山〉の麓には、水牛とさほど変わらない体長を持つ肉食昆虫が生息しているため、ここからは慎重に移動しなければいけない。


『この先にはね――』

 艶のある黒い毛皮に覆われたリリは、腰に巻きつけていた長い尾をゆらゆらと左右に揺らしながら言う。


『幅が広くて静かな流れの川があるんだ。足場は悪いけど、川を渡れば広大な〈死の都城〉を囲む黒壁が見えてくる。そこをグルっと迂回すれば、〈霞山〉の麓にうんと早くたどり着くことができるんだ』


「死の都城……」アリエルは不安に眉を寄せる。「その廃墟はひどく危険な場所だと、商人たちに聞いたことがある。そんな場所に近づいても大丈夫なのか?」


 リリは振り返ると、つねに色が変化して極彩色ごくさいしきに輝く大きな瞳で青年を見つめて鳴く。


『都城の四方に巨人たちが築いた大門があるんだけど、そこに近づかなければ都を守る〝悪霊〟に襲われる心配はないって言ってたから、大丈夫だと思う』


「言ってた……? 誰に聞いたんだ」

『女神さまだよ』


 豹人たちの聖地〈イアーラの涙〉と呼ばれる湖の底に女神がいることを思いだすと、アリエルは納得する。古の神々の言葉なら無条件に信じられる。


 しばらく歩くと目的の川が見えてくるが、長雨の影響で増水していて、川を渡るのは困難に思われた。


『これは参ったね』リリはまったく気にしていない陽気な声で言う。『普段は膝まで浸かるくらいの深さだけど、今は一ラァオ(豹人の子どもの平均的な尾の長さを基準にした単位)くらいの深さはありそうだね。ちょっと調べてくるよ』


 リリの向こう見ずな行動にノノは困惑していたが、リリは厚くてゴワゴワした媚茶色のローブをするすると脱ぎ捨てると、裸になって川のなかに入っていく。すでに十三回目の命名日が過ぎていたにもかかわらず、彼女は恥じらいを知らず、また異性の目を気にしたことがなかった。


 リリとふたつしか年が離れていないと思われるアリエルは、彼女の裸体を興味深く眺めた。


 それは亜人の身体からだに対する純粋な興味だったが、まるで人間のように体毛に覆われていないスベスベとした肌の乳房と腹部を見た瞬間、彼はリリの身体をじろじろと見ていた自分のこと恥じて、耳が真っ赤になるのを感じて目を逸らした。


 そのことを気にしていないリリは、しなやかな肢体したいを隠そうともせず川のなかに入っていく。水の冷たさに乳首が立つと、彼女はふくらみはじめた乳房を右腕で隠しながら、そそくさと川から離れた。


『ちょっと油断しただけで流れに足を取られそうになるから、川を渡るのは諦めたほうがいいと思うな』


 ノノはゴロゴロと喉を鳴らすリリの身体を拭きながら、別の移動経路がないか考えていた。とにかく時間がなかったのだ。夜襲が行われるそのときまでに、首長の戦士たちを無事に〈霞山〉の麓に送り届けなければいけない。そしてそれは姉妹が慕う守人の名誉にも関わる問題だった。



〈神々の森〉は、北海道を横にふたつ並べたほどの面積があります。

 広大な森には人間以外にも多種多様な種族が暮らし、地形や気候も多彩です。

 しかし森のことを〈神々の森〉と呼ぶモノはいません。部族にとって、森が世界のすべてなので〝森〟としか呼ばれることがないのです。

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