第266話 47
任務の報告を終えたあと、アリエルは個人的に利用していた古びた塔で休息を取っていた。そこで彼は悪夢を見ることになった。疲労が全身に重くのしかかり、硬い寝台に身を投げ出すと、すぐに意識が薄れて深い眠りに引き込まれていった。
それは
大広間には無数の柱が立ち並び、時折、柱の陰に人影を見た。けれどその影は暗く、奇妙な輪郭だけが浮かび上がっている。それは人の形をしていたが、実際には夜の森を徘徊する幽鬼のような邪悪な存在だったのかもしれない。目も鼻も口もない暗い影。それは表情を持たなかったが、確かにこちらを見つめているように感じられた。
恐怖に胸が締めつけられる。心臓の鼓動が速くなり、息が詰まるような感覚に襲われる。黒い影にじっと見つめられていることに耐えられなくなると、アリエルは急いでその場から離れようとする。長い廊下を通って次々に扉を開いていくが、どの部屋にも人の姿はなかった。しかしあの黒い影のような幽鬼たちだけは、どこにいても見かけることになった。
不思議なことにその城のことは何も知らなかったが、どういうわけか、どこに何があるのか正確に把握していた。これは過去の記憶なのか、それとも夢特有の幻想なのか、その答えは見つからない。でもとにかく、青年は逃げるように駆けていく。助けを求めるために、知らぬ間に胸に刻まれた恐怖と戦いながら。
地下につづく螺旋階段を見つけると、背後を振り返り、それから階段を駆け下りていく。暗く邪悪な気配が迫り、足音が背後に近づいてくる。嫌な恐怖に駆られ、必死に階段を下りていくが終わりが見えない。心臓が激しく鼓動し、冷たい汗が背中を伝っていく。
そこで突然、青年は目を覚ました。額に汗が滲み、心臓が激しく鼓動している。暗い部屋のなかで寝台に横たわっていることを確認するが、未だ夢と現実の境界は曖昧だった。夢の中で感じた雨のニオイや遠くで鳴り響く遠雷、それに冷たい風の感覚が肌に残っているように感じられた。
アリエルは深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとする。すると、すぐとなりに誰かが寝ていることに気がついた。戦狼のラライアだ。彼女の銀色の髪が暗闇の中で微かに光を反射している。
いつの間に忍び込んできたのだろうか、アリエル不思議に思いながら、はだけていた毛布を掛け直す。その瞬間、彼女の瞼が開いて紅い眸に見つめられる。その眼は何かに驚いた様子で、寝起きにも拘わらず冴えていた。
「なにか嫌なモノが忍び込んできたみたい」
彼女の言葉に青年は眉を寄せた。今も防壁には兄弟たちが立っていて、砦の警備は万全だった。敵が忍び込む余地なんてなかったはずだ。しかし、オオカミとしての彼女の感覚は信用できる。この警告を無視するわけにはいかない。
アリエルは寝台から身を起こすと、窓の外に耳を澄ませた。雨が降っているが、騒ぎになっている様子はない。ずっと遠くに雷の光が見えると、青年は窓から侵入してくる雨に顔をしかめて板戸を閉じる。真っ暗な部屋でラライアの紅い瞳が光る。
彼女は目を細め、集中するように耳を澄ます。
「近くにいる。とても近くに」
アリエルはすぐに黒衣を身につけたあと、戦闘に備えて鴉羽色の羽根が特徴的な籠手や
夜の寒さには慣れることはなかった。寝台から出ると、途端に暖かいという感覚が消えてしまう。この場所では何もかも凍えているようだった。
毛皮のマントを肩にかけたあと、ラライアにも手渡すが、彼女は「んん、いらない」と首を横に振る。戦狼が人よりもずっと寒さに耐性があることは知っていたが、凍てつく夜の空気は容赦ない。つめたい雨に濡れないためにも、ちゃんと毛皮を羽織ってもらう。
「準備はできたか?」
アリエルが小声で尋ねると、彼女は無言でうなずいた。
ふたりは今にも崩れ落ちそうな塔を出て、暗く冷たい空気に支配された広場に向かった。夜の冷気が肌に刺さり、吐く息が白く凍っていく。雨にけぶる広場は静まり返っていて、石造りの防壁が重々しく
すぐに〈念話〉を使ってルズィや仲間たちと連絡を取ろうとするが、なにかに妨害されているようだった。やはり砦内に侵入者がいるのだろう。闇に沈み込む広場を見ながら詰め所として利用されていた塔に向かう。室内を見回すと火鉢のなかで石炭が燃えているのが見えたが、ここでも兄弟たちの姿は見られない。
けれど何か異常なものが潜んでいる気配がした。目を凝らし、耳を澄ませる。静寂の中で、ふたりの息遣いだけが聞こえる。
「敵の位置が分かるか?」
「近い」ラライアは小声で答える。「すぐ近くにいる」
彼女の視線に従い、アリエルはゆっくり踏み出した。足音を殺し、室内の隅々まで目を光らせる。古びた調度品の陰、あるいは暗がりで揺れる影のなか、そのどこかに敵が潜んでいるはずだ。嫌な緊張感が立ち込めていく。
やがて暗がりから足音が聞こえてきた。誰かがこちらに近づいている。アリエルは壁に立てかけられていた剣を拾い上げると、ラライアも適当な小刀を手にする。闇の中からあらわれたのは、黒衣を身につけた若い男だった。見覚えのない顔つきで、その目には敵意がハッキリと宿っていた。
「誰だ?」
アリエルが問いかけると男は薄笑いを浮かべてみせたが、次の瞬間には表情を消し、鋭い動きで襲いかかってきた。
刀が音もなく降り抜かれる。青年はさっと後ろに飛び退いて刃を
爆発的な衝撃がアリエルを後方に吹き飛ばした。青年が机やら火鉢に身体を打ち付けながら転がっていくとほぼ同時に、ラライアが男に飛びかかる。襲撃者はすぐさま〈火球〉を撃ち込むが、彼女は紙一重でそれを躱し、男の胸に小刀を突き刺し、そのまま後方に蹴り飛ばした。
壁に背中を打ち付けた男は苦しそうにしながらも、すぐに起き上がろうとするが、そこにアリエルが放った〈氷槍〉が直撃して頭部が弾け飛んだ。血と脳漿が薄暗い部屋の中に飛び散り、男は起き上がろうとしていた姿勢のまま地面に崩れ落ちた。
そこに別の男が飛び込んでくる。アリエルはすぐに立ち上がり、咄嗟に飛び掛かってくる襲撃者を斬りつけた。刃が肉を裂き、骨を断つ感触が伝わる。だが男は血を吐きだしながらも組み付いてくる。もつれあうように倒れ込むと、そのまま凄まじい力で首を絞められてしまう。
視界の隅が暗くなりかけたとき、ラライアがやってきて男の首に小刀を突き刺すと、戦狼特有の凄まじい力で男の頭部を引き千切った。大量の血液が周囲に飛び散り、男はドサリとアリエルの上に倒れ込む。彼女の紅い目は怒りに明滅し、暗闇の中で輝いていた。
アリエルは男の血液に濡れながら立ち上がると、息をつきながら周囲を見回した。戦闘の喧騒は収まり、雨と冷たい風の音だけが聞こえていた。詰め所は敵の血肉に染まり、死体が転がっていた。
「これで終わりか?」アリエルは息を整えながら
「まだ分からない」と、ラライアは答えた。「でも、嫌な感じがする」
ふたりはその場に立ち尽くしていたが、すぐに総帥の砦に向かうことにした。侵入者の目的は分からなかったが、総帥が標的にされる可能性があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます