第308話 05
長い間、存在そのものが忘れ去られていた倉庫は、冷たい静けさに支配されていた。倉庫全体が暗闇に沈み込むなか、アリエルが手にした燭台の弱々しい灯りが、かろうじて周囲を照らし出していく。
その倉庫に足を踏み入れると、まるで別世界に迷い込んだかのような感覚がアリエルを包み込んでいく。それは不可視の結界を
足元の滑らかな石畳には
ゆっくりと暗がりに燭台を向けると、そこに並ぶ無数の棚が壁のように浮かび上がる。それらの棚に古びた革表紙の書物や、数え切れないほどの巻物が無造作に収められているのが見えた。その多くは長い年月を経て朽ち果て無残な姿に変わっていた。革表紙が腐った埃だらけの本は、触れた途端に崩れていった。
棚の間を歩いていると、紙と塵、それに廃墟特有の空気が混ざり合いながら身体にまとわりついてくる感覚がした。その空気のなかには、何か忘れ去られた歴史の一端が隠されているようにも感じられた。この倉庫はただの貴重品の保管場所ではなく、かつての守人たちの記憶や知識を守り続けてきた書庫としても機能していたのかもしれない。
そのまま暗がりに進むと、蝋燭の灯りに鉄格子の影が浮かび上がる。空間を隔てる格子は錆びつき、年月に蝕まれた跡がハッキリと確認できた。アリエルはその格子の向こうに置かれていた無数の木箱が、蝋燭の灯りに照らし出されていく様子を眺めた。木箱は無造作に積まれていたが、貴重なモノが保管されているのかもしれない。
入り口を見つけることができたが、錠前でしっかりと閉じられていた。倉庫の大扉を開くために使った鍵を取り出すと、慎重に鍵穴を探してみたが、それらしきモノは見つけられなかった。どうやら、この錠前は別の方法で開けなければならないようだ。
錠前の表面を指でなぞると、錆びた金属の奥に何か刻まれていることに気がついた。燭台を近づけて確認すると、それがただの装飾ではなく、古代の神々の言葉に関連する文字だということが分かった。これが〈呪術器〉だとするなら、呪素に反応するかもしれない。
アリエルがゆっくりと呪力を流し込んでみると、錠前が微かに振動し、内部の機構が反応しているのが感じられた。
その直後、カチリと音が聞こえて錠前が開いた。錆びついた鉄格子に触れると、蝶番が軋みながらゆっくりと開いていく。どうやら、この錠前は一定の呪力に反応する仕組みだったようだ。いずれにしろ、これで長い間閉ざされていた空間は開かれた。
揺れる蝋燭の火が作業台に影を落とし、無造作に置かれた工具の数々を浮かび上がらせた。長い間使用されていなかったため、錆びついた金槌や鉗子、目釘抜きが過去の遺失物のように背景のなかに溶け込んでいる。アリエルはその台に燭台をそっと置いたあと、近くの木箱に何が入っているか確認することにした。
中には毛皮が詰め込まれていたが、ほとんど原形を留めていない。薄汚れた茶褐色の毛皮は劣化して裂け目だらけで、手で触れるだけで崩れ落ちそうだった。毛皮の下に目をやると、黄ばんだ骨のようなものが見えた。
細長く曲がったその形状から、おそらく獣の骨だろうと推測できたが、それがどんな生物のものか、どうして倉庫に保管されていたのかまでは分からなかった。
となりの木箱の中身も確認すると、今度は鉱石が姿をあらわした。灰色の石の中に微かに輝く金属の筋が走っている。貴重な資源なのかもしれないが、埃をかぶり、長い間放置されていたことが分かる。それが何故ここで眠っていたのか、その理由は謎のままだ。
その時だった、背後から重い足音が近づいてきた。振り返ると、蜥蜴人のポォルタが金属の棒を抱えてやってくるのが見えた。その背後には世話人がいて、ポォルタの仕事を手伝ってくれていたことが分かる。ポォルタは倉庫内の冷気に身震いしたあと、空いている場所に金属の棒を慎重に並べていく。
世話人も嫌な顔をすることなく、彼の作業を手伝ってくれていた。体内に蓄えられる呪素が少ない所為なのか、金属の影響をほとんど受けることがないのだろう。
ふたりの作業を手伝おうとしたときだった。アリエルはふと視界の端に何かを感じた。微かな燐光が暗闇の奥で微かに揺らめくのが見えたのだ。赤みを帯びた不気味な光が、暗闇のなかでぼんやりと浮かび上がる。目を凝らすが、すぐに光は消え、何もなかったかのように暗闇が戻ってきた。
けれど違和感は消えない。それに、どこからともなく低い囁き声が耳に届く。それは言葉にならない、遠くで誰かが話しているかのような曖昧な声だ。その声が耳の奥でざわつき、徐々にその存在感を増していく。
やがて深い闇の向こうから、誰かが自分を呼んでいるように感じられた。アリエルは暗闇の中に何かが潜んでいるかもしれないという不安に駆られながらも、ポォルタに問いかける。
「今、何か聞こえたか?」
しかしポォルタは首を横に振る。世話人も同じように何も聞こえていないし、感じていない様子だった。自分にだけ聞こえているのかもしれない。アリエルは戸惑いながらも、その声に誘われるように、ほぼ無意識に暗がりのなかに歩みを進めていく。
つめたい空間に響く足音に耳を澄ませながら、蝋燭の灯りがとどかない暗闇に向かって歩いた。すると、ぼんやりとした光源が再びあらわれた。
暗闇の中、腰の高さほどの台座が浮かび上がる。その上に、赤く淡い光を発する物体が置かれているのが見えた。近づくにつれてその物体の輪郭が鮮明になり、それが顔面を守るための防具〝面頬〟であることがわかった。
その面頬は、鋭い牙を持つ化け物を象ったモノのように見えた。鋭く尖った牙をむき出しにし、獰猛な表情を浮かべたその姿は、ただの防具とは思えないほど生々しい。黒を基調とし、暗黒に滴る血のような
アリエルはその場に立ち尽くし、口元を完全に覆う面頬をじっと見つめた。喉が渇き、心臓の鼓動が少しずつ速くなるのを感じた。まるで、この面頬が自分に何かを語りかけてくるかのようだった。その淡い光を見ていると、再び得体の知れない囁き声が耳元でざわめき、さらに深くアリエルの心を魅了していくように思えた。
妖鬼――あるいは、魚人の口元を精巧に象った面頬をじっと見つめていると、右腕が徐々に熱を帯び、脈打つように感じられた。混沌の瘴気が
砦の地下〈奈落の底〉に眠る都市遺跡から発掘された神々の遺物なのかもしれない。古代の邪悪な力がこの防具に宿っている――そんな不吉な予感が頭をよぎる。それでも、その不思議な魅力に逆らうことができなかった。
アリエルは無意識に負傷した顎に手を当てた。戦いの激しさ、そして打撃による衝撃が脳裏に浮かぶ。あの時、顎を守ることができていれば――この面頬があれば、顔を守ることができたのかもしれない。
ほとんど意識せずに手を伸ばす。その面頬に指先が触れた瞬間、全身に痺れが走るような感覚が広がる。アリエルはわずかな
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