第185話 40


 アリエルは急に立ち止まると、背後の木々に視線を向ける。雨に濡れた髪から水滴が流れ落ち、紅く明滅していた瞳に入るが、青年は動じることなく森の暗がりを見つめ続ける。それは微かな気配だったが、アリエルは確かに追跡者の存在を感じ取っていた。


 雨音のなかに奇妙な音が含まれている。それは森の奥深く、遠くの暗闇から聞こえてきていた。その意味を理解するのは難しく、それでいて嫌な予感を抱かせるモノだったが、追跡者の足音で間違いないのだろう。低いささやき声と枝の折れる音が異物のように交じり合っていて、雨音が森で奏でる旋律を乱していく。


 豹人の姉妹はアリエルの横顔を見ながら黙って立ち尽くしていた。嫌な悪寒に全身を震わせたあと、ノノは耳先の房毛に落ちた水滴を払うように耳を動かした。彼女も直感的に敵の気配に気がついていた。


 断言するのは難しかったが、おそらく暗部の戦士に追跡されているのだろう。それも、洞窟で相手にした半端な戦士ではなく、よく訓練された本物の精鋭だ。彼女は極彩色に発光する眸で闇の中を見つめる。


 雨が大地を濡らし、足元は泥濘でいねいに変わり、アリエルたちの足音や痕跡を消し去っていた。しかしそれでも、敵は森の闇に紛れながら忍び寄ってきていた。度重なる戦闘で疲弊していたアリエルたちには、この戦いを避ける理由があったが、敵が見逃してくれるとは思えなかった。


 ノノとリリは手をつなぐと、体内で渦巻く呪素じゅそをつかい〈呪霊じゅれい〉を顕現させる。それは精神力を激しく消耗する呪術だったが、このままでは追跡者たちに追いつかれてしまう。敵に包囲されて身動きが取れなくなる前に、追っ手に対処する必要があった。


 やがて背筋が冷たくなるような戦慄を伴いながら、雷光を身にまとった巨大な黒豹が虚空からあらわれる。膨大な呪素によって顕現した獣は唸り声をあげ、なめしたようにつややかな尾で宙をなぞり、それから暗い森のなかに駆けていく。


 わざわざ〈呪霊〉に標的を示す必要はなかった。雷をまとった恐るべき獣は、姉妹たちと敵対するあらゆる生命を爪で引き裂き、鋭い牙でみ殺すだろう。


 雨降りの暗い森を移動していた追跡者たちは、呪素による空間の揺らぎを感じ取っていた。その揺らぎは爆発的に膨れ上がり、周囲の環境に影響を及ぼすほどの濃い瘴気を発生させていた。


 それは警戒すべき異常な現象だったが、追跡者たちは任務遂行を優先させた。〝自分たちは混沌の化け物が徘徊する〈獣の森〉にいるのだ。ここでは何が起きようとも、不思議なことなどひとつもない〟彼らは不安を押し殺し、冷静に事態に対応しようとした。


 しかし、それがいけなかった。突如、暗く深い茂みの中から黒豹の咆哮が轟いた。その恐るべき声は森に響き渡り、直後、まばゆい閃光が闇を裂くように猛然と近付いてきた。


 美しい獣は――雷光を帯びた黒豹は瞬く間に追跡者たちに接近すると、その身に宿る野性的で獰猛な本性を露わにする。鋼の武器を手にした戦士たちに飛び掛かると、鋭い牙と爪で彼らの肉体を引き裂いていく。革鎧は役に立たず、鎖帷子は破壊され、布切れのように切断されていく。


 戦士たちの断末魔と獣の咆哮が交じり合い、血しぶきが暗い森に赤黒い花を咲かせていく。闇を裂く雷光が瞬いて獣の姿を浮かび上がらせるたびに、戦士がひとり、またひとりと倒れていく。


 いかなる事態にも混乱することなく、つねに冷静さを失わないように彼らは恐怖を克服するための訓練を受けていた。しかしそれでも、得体の知れない黒豹の襲撃に怖気づき、混乱する者があらわれた。恐怖は仲間たちに伝播し、冷静さを失った戦士たちは次々と傷ついていく。


 姉妹が放った〈呪霊〉が暴れているころ、アリエルは遠くから聞こえてくる悲鳴とは異なる、足音に耳を澄ませていた。何者かが接近してくる。それも相当な手練れだろう。


 ラファを木の根元に寄り掛かるようにして寝かせると、ノノに預けていた両手剣を手にする。鞘から剣を引き抜くと、汗と血に汚れた柄をしっかりと握る。動きの邪魔になるので、鞘は投げ捨てることにした。


 ノノとリリも敵の接近に気がついていたが、呪素を制御して〈呪霊〉を森にとどめるための繊細な操作が不可欠で、集中力が途切れないようにする必要があった。だから敵の相手はアリエルひとりに任せることになった。


 青年は身体能力を底上げしながら、明滅する紅い瞳で木々の向こうに広がる暗闇を見つめる。すると背の高い大柄の男が近づいてくるのが見えた。闇に紛れる黒い装束を身につけ、頭部を覆い隠すように黒い布を巻いていた。僅かな光に反射して輝く瞳だけが、不気味に青年を睨んでいるのが見えた。


 その追跡者は腰を落とすと、手にしていた二本の曲刀を胸の前で交差させる。すぐにでも飛び込んでくるような気配を感じていたが、アリエルはゆっくりした動作で重たい両手剣を上段に構えた。曲刀の刃が雨に濡れて、妖しく輝くのが見えた。


 嫌な緊張感が漂うなか、ふたりの視線が絡み合う。そしてその瞬間がやってきた。追跡者は目にもとまらない速度で近づくと、鋭い刃で空気を斬り裂きながら攻撃を仕掛けようとする。アリエルも重い両手剣を振り下ろし、たった一撃で終わらせようとする。


 しかし追跡者は攻撃に反応してみせると、曲刀を振り抜いて両手剣を弾き、迅雷の如き動きで二本目の曲刀を振り抜いた。アリエルは咄嗟に後ろに飛び退くが、肩を斬られて血が噴き出す。足元が泥濘でなければ、首をねられていたかもしれない。


 傷口は熱を持っていたが、身体中に冷たい汗をかいていた。アリエルと追跡者は再び対峙したまま睨み合うことになった。雨粒がふたりの戦士を打つたび、彼らの身体からだからうっすらと白い湯気が立ち昇るのが見えた。


 つめたい雨のなか、鍛えられた戦士たちによる壮絶な戦いが行われると思われたが、戦闘はすぐに決着がつくことになった。


 追跡者がアリエルの懐に飛び込んでくると、青年は力任せに両手剣を袈裟懸けに振り下ろした。その一撃は追跡者の曲刀を破壊すると、そのまま鎖骨を砕き、肉を引き裂きながら腹部に到達した。追跡者は目に絶望を浮かべながらアリエルを睨んだあと、その場にくずおれた。


 アリエルは立ち尽くしたまま死体を見下ろし、斬られた肩を押さえながら静かに呼吸を整えていく。それからその場に膝をつくと、死体に向かってこうべを垂れる。そして森の神々に感謝の祈りを捧げたあと、自らの血に濡れた手で男の額に触れながら瞼を閉じた。


 青年は心を静めながら、痛みを忘れるように意識を研ぎ澄ませていく。しだいに意識の底に落ちていくような、奇妙な浮遊感が全身を包み込んでいく。そして気がつくと、すでに見慣れた暗い回廊に立っていた。深い闇に沈み込む空間に視線を向けると、すぐ目の前に石棺があるのが見えた。


 なかを覗き込むと、黒いもやが立ち込めていて真っ暗でなにも見えなかった。けれど、そのなかに潜むモノの正体を知っていた。青年は棺のなかに手を入れる。ひどく冷たく、皮膚が裂け、血を凍らせるような痛みを伴う感覚に襲われる。やがてアリエルの指先は硬いものに触れる。


 目を開くと、男の死体が青い炎に包まれて燃え上がるのが見えた。死体から立ち昇る黒煙を眺めていると、やがてそれは人の姿を形作っていく。


 青年は紅く明滅する眸で黒い人型を見つめたあと、静かな声で言った。

「敵を――俺たちの敵をひとり残らずほふれ」


 不定形の人影はその場に立ち尽くしていたが、うなずくように頭部を動かすと、滑るようにして木々の間に消えていった。そのさい、両手に曲刀が形成されていくのが見えた。

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