第186話 41


 ルズィは〈境界の砦〉に林立する無数の塔を見ながら、半壊した黒い塔に近づくと――薄暗く陰湿な部屋に入り、そこで待っていた兄弟の顔を見ながら口を開いた。

「ラファの容態は?」


「治療は済んだが、まだ意識は戻っていない」

 アリエルの言葉に反応して影が揺らいだように見えると、ベレグの声が聞こえた。

「尋問……いや、拷問の所為せいか」


「そうだ。ノノに頼んで拷問の記憶そのものを呪術で封印してもらったけど、彼女ほどの呪術師でも記憶の操作は難しい。日常の中で突発的に拷問の恐怖や痛みを思い出して、恐慌状態に陥るような発作が出るかもしれない。つねに戦場に身を置く戦士にとって、それは致命的になるかもしれない」


 アリエルの話を聞き終えたルズィは溜息をつくと、蜘蛛の巣が張り巡らされた天井に視線を向ける。


 石造りの塔内部には乾燥した冷たい風が吹き込んでいて、ひどく寒々しく感じられた。壁際には雨漏りで小さな水たまりができていて、その周囲にだけ雑草が生えて壁に絡みついているのが見えた。明かりは壁に掛けられた蝋燭ろうそくの淡い光だけで、その弱々しい光が部屋のなかにゆらゆらと揺れる影を生み出していた。


 時折吹き込んでくる風の音を除けば、部屋の中は静寂に包まれている。石の壁と床、それに壁や天井に張り巡らされた蜘蛛の巣が、この荒廃した塔に寂れた印象を与えていた。


 ひび割れたタイルの床には、朽ちた家具の残骸が散乱している。壊れた机や椅子、経年劣化で崩壊した瓦礫がれきが散らばっている。かつてこの塔で生活していた兄弟たちの痕跡も見られた。壁の高い位置には錆びた剣やほこりを被った斧と盾が飾られ、守人の戦いの記憶として残されていた。


「その洞窟にいた連中は――」

 ベレグが暗闇から姿を見せながら言う。

「本当に首長が組織した部隊に所属する戦士だったのか?話を聞いていると、どうも精鋭の部隊とは思えない言動が見られる」


「これを見てくれ」

 アリエルはそう言うと、敵の戦士から奪っていた二本の曲刀を〈収納の腕輪〉から取り出し、コトリと長机にのせる。片方の曲刀は刃が砕かれていたが、もう片方の曲刀は完全な状態で回収できていた。


「敵が使っていた武器だな」

 ルズィは曲刀を手に取る。刀身と柄の接合分がなく、羽根のように軽い銀色の輝きを発つ金属で造られていた。呪素じゅそは帯びていないが、高度な鍛造技術によって造られていることが分かる。それは古い名家の戦士が代々受け継いできた剣や、〈影の淵〉で働く刀鍛冶の手で城内鍛造された刀に見られる特徴でもあった。


「数人の手練れに、蛮族の寄せ集めで構成された強襲部隊か。奇妙な組み合わせだが、正体を隠すには打ってつけなのかもしれない」


「それに謎の儀式に興じる呪術師……」

 ベレグは折れた曲刀を手に取ると、柄に巻かれた赤い布を見つめる。

「混沌の気配に引き寄せられた〈地走じばしり〉の群れに襲撃されたんだ、連中が精鋭と噂される暗部の戦士だったとしても、もう生き残りはいないだろう」


「ああ、間違いなく連中は化け物どもに喰い殺されている」

 ルズィは鼻を鳴らしたあと、机に曲刀を突き立てた。


「……けど、件の邪神像を放置することはできない。すぐに部隊を編成して石像を破壊しに行ったほうがいいだろう。ヤシマ総帥とは俺が話をつける、ベレグは部隊を率いて洞窟に向かってくれ。〈地走り〉の群れが洞窟にとどまっているかもしれないから、侵入するときには充分気をつけてくれ」


 ベレグは眉を寄せる。

「洞窟の入り口を塞いで、化け物どもを生き埋めにするほうがずっと簡単じゃないのか」


「ダメだ」ルズィは納得しなかった。

「呪術師たちが血に酔うほど精神錯乱していたんだ。それがただの儀式じゃないってことは、どんな馬鹿でも分かる。何かの間違いで〈混沌の領域〉につながる空間の歪みが発生していたら、ただでさえ危険な〈獣の森〉が地獄に変わる。それは守人として絶対に避けなければいけないことだ」


「兄弟たちの命と引き換えにしても、俺たちはこの任務を遂行する必要がある……そういうことでいいんだな?」

 ベレグの問いにルズィは迷いなくうなずいてみせた。


「俺たち守人は混沌の脅威を退けるために〈境界の砦〉にいるんだ。忘れたのか、ベレグ。守人は〝森の民〟の守護者なんだ。兄弟たちが薄暗い洞窟で戦って死のうが、〈地走り〉に捕まって生きたまま喰い殺されようと、それは関係がないんだ。森の神々に仕えると誓ったときから、俺たちは化け物と戦うことを運命づけられている」


「誰も彼もがルズィのように信心深いわけじゃない。兄弟たちの大半は森の神々に対する信仰心なんて持ち合わせちゃいない。死ぬと分かっていて、自ら墓穴を掘るような連中じゃないんだ。〈地走り〉の群れをみたら、兄弟たちは後先考えずに逃げ出すぞ。統率を失った守人たちが、あの忌々しい砦で女性たちに何をしたのか覚えているだろ。守人の誇りや名誉なんてものは、もう誰も持ち合わせていないんだ」


「それならちょうどいい。守人の責務を果たそうとしない兄弟には死んでもらう」

 ルズィの言葉にベレグは溜息をつく。

「なぁ、兄弟。そいつは本気で言っているのか?」


「ああ、俺は本気だよ。洞窟に向かう準備をしてくれ、首長が本気で〈境界の砦〉を襲撃しようとしているのかは分からないが、ぐずぐずしている時間はない」


「了解、最善を尽くす」

 ベレグが影に溶け込むようにしていなくなると、ルズィは〝やれやれ〟と頭を横に振る。

「ところで、豹人の姉妹は?」


「ノノとリリは戦狼いくさおおかみの群れと合流して、今はラライアたちと一緒にいる。ほら、〈境界の砦〉には一部の例外を除いて、守人以外の立ち入りを禁止にいているだろ」


 ウアセル・フォレリのように、〈境界の守人〉の後援者や名家の人間であれば特別な待遇を受けることもあるが、基本的に砦には守人しか入れない。


「南部の拠点に残してきた仲間たちとも話し合わないといけなくなったな」

 ルズィの言葉にアリエルは首をかしげる。

「もしかして照月家に助力を仰ぐのか?」


「まさか、その逆だよ。もしも首長が本気で〈境界の守人〉と敵対しようとしているのなら、この戦いから照月家を遠ざける必要がある」

「西部との大規模な戦争に発展しかねないから?」


「ああ、戦争になれば大勢の森の民が犠牲になる。俺たちがその発端になる必要はない」

「そうだな……」


 アリエルは蝋燭の灯りをじっと見つめたあと、ずっと気になっていた疑問を口にする。

「そもそも、どうして首長は〈境界の守人〉と敵対するような行動を取るんだ?」

 そもそも首長のような後援者がいなければ、とっくに衰退し消滅していた組織だ。今さら武力による制圧は必要ない。首長はただ支援の手を止めるだけでいいのだ。


「俺たちの南部遠征が首長の考えを変えたのかもしれない」

「というと?」


「状況が変化したんだ。今までのように、適当に支援して守人を飼い慣らすことができなくなったと判断した。だから動いたのかもしれない」


「……俺たちが森の外につながる〈転移門〉を発見したことで、状況が変化したんだな?」


「おそらく組織内に首長の間者がいたんだろう。どうやって俺たちの動きを探っていたのかは分からないが、とにかく〈転移門〉のことが知られてしまった。南部で雇った傭兵のなかにも、間者がいたのかもしれないな」


 南部で遠征に参加した〈黒の戦士〉の顔が過る。イザイアは森の外につながる〈転移門〉のことを知っていたし、暗部に所属していてもおかしくない実力を備えていた。彼を間者だと決めつけるのは早計だが、やはり暗殺しておくべきだったのかもしれない。


「とにかく、襲撃に備えたほうがいいだろう」

 ルズィが塔から出ていったあとも、アリエルは机に突き立てられた曲刀を見つめながらこれからのことについて考えていた。

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