第282話 63〈古墳地帯・石人〉


 屍食鬼グールの叫び声を聞きながら、ふたりは濃霧の中を慎重に移動していた。アリエルのすぐとなりにはシェンメイが寄り添っていて、つかず離れずの距離を保っていた。ふたりの周囲には濃霧が立ち込めていて、視界は悪く、手探りで歩いているような状態だった。しかし背後からは絶えず屍食鬼の唸り声が聞こえていて、足を止めることはできなかった。


 霧の中では空気が一層冷たくなり、亡者たちの息吹が混ざっているかのようだった。〈古墳地帯〉は古の幽鬼たちの領域としても知られていて、どこからともなく死者の呻き声や、恨みつらみの感情を含んだ悲痛な声が聞こえてくる。


「気をつけて……」

 シェンメイは囁くように言った。彼女の声も霧に吸い込まれるようにして聞こえなくなる。時折、霧の向こうに手足を欠損した戦士や内臓を引きりながら歩く戦士の姿を見たが、おそらく幽鬼が見せる幻影なのだろう。


「この道であっているのか?」

 アリエルが不安げに質問すると、シェンメイは小さくうなずいた。彼女の瞳が明滅していたのは、目に呪素じゅそを集中させて何らかの痕跡を探しているからなのかもしれない。〈古墳地帯〉は瘴気に満ちていて、そこら中に呪素溜まりが発生していて、人は簡単に道を見失ってしまう。


 呪素溜まりは、異界から漏れ出る呪素が一箇所に留まり続けることで形成される濃い瘴気のことだ。呪素が濃縮されることで、混沌の化け物が超自然的に発生する環境をつくり出してしまう。呪素溜まりの近くでは空気が歪んで見えるため、呪術に精通していない種族や人々にもハッキリと認識することができた。


 化け物たちは呪素溜まりを好み、そこから生まれるようにして出現するため部族にとって非常に危険な場所となっていた。アリエルとシェンメイは、その危険な場所を慎重に進んでいた。呪素溜まりのおかげで、敵に呪素を探知される心配はなかったが、それでも気を抜くことはできない。


 墓所が近いからなのか、地面には苔むした石畳が敷かれていて、その上には赤紫色の霧がうっすらと漂っている。その霧の中に化け物の影を見たが、不気味な呻き声をあげながら消えていく。この場所では瘴気が生き物のようにうごめいていて、呪素が脈動している。


 墓所の近くには、かつての戦士たちの姿をかたどった〈石人〉と呼ばれる石像が点在している。〈石人〉は精巧に彫刻され、戦士たちの姿を今も昔のままの姿で残している。その表情は威厳に満ち、手には剣や槍を持ち、まるで今にも動き出しそうな迫力を感じさせる。それら数千体にも及ぶ〈石人〉たちは、神々の時代に造られたものだと信じられていた。


 部族の伝承では、〈石人〉は墓守だとされているが、本当のことは誰にも分からない。その静かな佇まいは、長い年月を経てもなお、人々の心に畏敬の念を抱かせる。霧が立ち込めるなか、〈石人〉たちのぼんやりとした輪郭が浮かび上がる。それは霧の中に消え入りそうな儚さと、永遠に続く静寂を象徴しているかのようだった。


 ふたりは厳かな静けさに満ちた場所を慎重に進んでいく。どこからともなく風が吹くと、木々の枝葉を揺らす音が響き渡り、その音がまるで〈石人〉たちのささやき声のように聞こえることもある。


 アリエルとシェンメイは、この神聖な地を侵すことがないよう歩を進める。不思議なことに、〈石人〉の近くでは幽鬼の気配や屍食鬼の叫び声も聞こえてこない。周囲に漂う瘴気は依然として濃厚だったが、呪素溜まりもなく、瘴気による影響も少ないように感じられた。


 そこでは何か目に見えない力が働いているようだった。もしかしたら〈石人〉によって結界が張られているのかもしれない。


 その石像の表面には神々の言葉が刻まれている。その文字はあまりに古く、それでいて呪力を宿しているように見えた。しかし長い年月を経て文字は摩耗していて、読むことはできなかった。アリエルはその摩耗した文字を指でなぞりながら、そこに何が記されているのかを探ろうとしたが、砦の書物を読み漁った青年にも分からなかった。


「ここなら、少し休めそう」

 シェンメイはそう言うと、〈石人〉のそばに腰をおろした。


 それを見たアリエルは眉を寄せる。

「休むって、そんな悠長なことはしていられない」


「なら、ひとりで勝手に行けば」と、彼女は突き放すように言う。「ちなみに、この先にはもっと危険な場所がある。集中力が切れてる状態で進むなんて、自殺と変わらない」


「いや、それはおかしいだろう」

「なにがおかしいの?」


「そんな危険な場所に、どうして前哨基地があるんだ?」

「いけ好かない呪術師のおかげだよ」


「呪術師……?」

「そう、やたらと結界を張る道具を持ってる。おかげで、霧の中から出てくる化け物も前哨基地には近づこうとしない」


「そうか……」

 アリエルは彼女を見つめたままあれこれと考えていたが、やがて諦めたように座り込んだ。実際のところ、彼もひどく疲れていたのだ。すでに襲撃者の自爆で死にかけていたし、度重なる戦闘で呪素の多くを消費していた。このまま休息せずに進むことは、彼女が言うように自殺行為でしかなかった。


 だから〈石人〉の力を利用し、しばしの休息を取ることにした。厳かな静寂に包まれた空間で、瘴気の中での戦いから解放され、ようやく安堵の息をつくことができた。疲労と緊張が少しずつ和らぎ、心にわずかな余裕ができると、ほとんど何も食べていなかったことに気がついた。


 アリエルは〈収納空間〉から乾燥した果物に干し肉、それに餅を取り出すと、彼女と分け合うようにして一緒に食べることにした。つい先ほどまで殺し合いをしていた相手だったので、拒否されるかと思っていたが彼女は素直に受け取る。


「ありがとう。こんな場所で餅が食べられるなんて思ってもみなかった」

 彼女は呪術で生成した水で手を清めたあと、神々に感謝の言葉を口にしながら餅を手に取り、喜びの感情を隠すことなく食べ始めた。米は大きな集落や街でしか手に入らない貴重な食材だったので、彼女にとってもご馳走だったのかもしれない。餅は柔らかく、噛むたびにほんのりとした甘さが口のなかに広がった。


 乾燥した果物は甘酸っぱさのなかに確かな甘みがあり、疲れた身体に活力を与えてくれる。干し肉は噛み応えがあるだけで、ハッキリ言えば樹皮を食べているような気分にさせた。でもとにかく、ふたりの空腹を満たすことはできた。


 食事を取りながら、アリエルはあらためて彼女の姿を観察した。シェンメイは肌が透けるほどの薄布を身につけていて、その布越しに刺青が見えた。刺青は複雑な模様を描いていて目を引いたが、それ以外は普通の人間の身体と変わらないように見えた。


 けれど彼女の黒髪からは樹木の枝にも似た不思議な細枝が伸びていて、その先には赤みを帯びた葉が生えていた。その異質な特徴が、彼女が部族の大多数を占める人間とは異なる種族だと示していた。青年はその細枝と葉をじっと見つめながら、彼女が亜人だと再認識した。けれど見たことも聞いたこともない種族だった。


「その枝と葉は、どうして頭に生えてるんだ?」青年は思わず質問した。「いや、そもそもソレは本物なのか?」


「これは私の一部で、私たち種族の特徴でもある」

 失礼ともとれる発言だったが、彼女は気にする様子を見せず、髪を撫でるようにして細枝に触れた。すると彼女の呪素に反応したのか、赤色の葉が淡い光を帯びていくのが見えた。


 短い休息のあと、ふたりは移動を開始した。静寂が支配する〈石人〉の領域をあとにし、ふたたび瘴気の漂う〈古墳地帯〉を進んでいく。人々を誘惑する死者の声や幽鬼が見せる幻影、そして墓所に張り巡らされた罠など、一瞬も気を抜くことができなかった。


 やがて屍食鬼の気配もなくなり、骸骨兵の姿も見られなくなった。襲撃者たちの前哨基地になっている遺跡が近いのだろう。

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