第50話 30


 混沌からい出た化け物と戦狼いくさおおかみの争う音が森に響き渡るなか、ラファは周囲を見回して攻撃に適した場所を探す。適当な樹木じゅもくを見つけると、素早くのぼり自身の体重に耐えられる太い枝の上に立つ。オオカミのれに追い立てられた化け物の姿が見えたのは、収納の腕輪から数本の矢を取り出して長弓を構えたときだった。


 それは体長四メートルを優に超える大熊だったが、身体からだのあちこちが傷つき、背には得体の知れないこぶが――気色悪い腫瘍しゅようにも、粘液に濡れた植物にも見える物体がついているのが確認できた。それは木々が大地に根を伸ばすように皮膚に張り付き、その身体からだを傷つけながら侵食していた。


 ラファは弓弦ゆづるを引き絞ると、みにくい化け物に照準を合わせながら、いつか森で見たキノコに寄生された昆虫のことを思い出した。そしてあのあわれな生き物に意識があるのか考えた。幽鬼のように、生者に対する憎しみに執着して地上を彷徨さまよう生物なのかもしれない。いずれにしろ、そんなことを考えている余裕なんてなかった。


 戦狼のラライア=イルヴァは、あの獣が混沌からやってきたと言っていた。そうであるなら、守人がやらなければいけないことはひとつしかない。ラファは精神を研ぎ澄ますと、構えていた弓のつるを放した。


 矢は大気を切り裂きながら飛び、気色悪い体液を吐き出していた化け物の頭部に突き刺さる。が、全身から粘度の高い体液を垂れ流している化け物の動きは止まらない。それどころか身を起こして後足で立つと、足元に転がっている倒木を拾い上げ、飛び掛かってくる戦狼の動きに合わせて木を叩きつけた。


 化け物の予想外の攻撃に反応できなかった戦狼は、凄まじい打撃を受けて吹き飛び、樹木じゅもく身体からだを打ち付けながら森に立ち込める深い闇の中に消えていく。すると、その深い闇の中から次々と白銀のオオカミがあらわれ、化け物に飛び掛かるのが見えた。牙を剥き出しにし、唸り声をあげながら鋭い爪で化け物を攻撃する様子は、どこか野性的で美しさすら感じられた。


 けれど異形の化け物は統率のとれた戦狼の攻撃にもひるまず、背中の腫瘍しゅようから強酸性の体液を飛ばし、周囲の植物や樹木じゅもくを溶かしていく。さすがに近づくことができないのか、戦狼の動きが止まると、化け物はオオカミに向かって突進してみつこうとする。


 その様子を遠くから確認していたラファは、弓弦を引き絞り慎重に狙いを定めると、標的に向かって矢を射る。狙いすました一撃は化け物の背中、気色悪い体液を吐き出す腫瘍しゅように直撃する。その瞬間、膨れ上がっていたこぶは乾いた音を立てながら破裂して、周囲に大量の体液を撒き散らした。


 強力な酸によって溶かされる植物や木々から蒸気が立ち昇り、たちまち視界が悪くなる。ラファは攻撃の視界を確保するため、地面に飛び降りて化け物に接近しようとするが、兄弟たちの背中を見て思い直す。腕輪の異空間には、この場所から攻撃が続けられるだけの矢が収納されている。無闇に接近するよりも、兄弟たちの支援にてっしたほうがいいだろう。


 夜の闇を切り裂きながら飛ぶ矢が、鋭い矢音やおとを響かせながら頭上を通り過ぎていくのを聞きながら、ルズィとベレグは木々の間を駆けた。敵の姿が見えてくると、ルズィは呪素じゅそを練り上げ、運動機能を強化しながら身体からだを保護する呪術の膜で全身を覆う。そして人間離れした速度で化け物に接近して、急所に渾身の力を込めて剣を突き立てた。が、たしかな手応てごたえは得られなかった。


 厚い体毛におおわれた化け物が太い前足を振りかぶるのが見えると、ルズィは後方に飛び退きながら、手のひらに収束させていた力を一気に放出する。攻撃を諦めきれず、彼にみつこうとして飛び掛かってきていた化け物は、呪素によって生み出された火炎に呑まれる。


 人間相手なら決着がついていたのかもしれない。けれど化け物を侮ることはできない。素早く化け物と距離を取ると、体内の呪素を練り上げながら次の攻撃に備える。


 ルズィには、炎の苦痛から逃れようとして暴れる化け物の大きな影が地面で揺れ動くのが見えた。しかし次の瞬間には、まるで地面にい付けられたように影が動かなくなる。すると炎に包まれていた化け物もピタリと動きを止める。


 苦痛にあえぎ、傷ついた身体からだからは体液が噴き出しているが、決して動くことはなかった。化け物の影に注意を向けると、人の影のようなモノがかさなっているのが見えた。


 ベレグは〈影縫かげぬい〉の呪術を使用して化け物の動きを封じると、そのまま炎に焼き尽くされるまで術を継続しようとした。けれど目論もくろみ通りにはならなかった。化け物は咆哮ほうこうしながら呪術による拘束を解くと、近くにいたベレグに向かって猛然と駆け出した。


 みにくく変異した身体からだは傷つき、皮膚が裂けて頭蓋骨が見え、絶えず血液を流れ出ていた。しかしそれでも異形の化け物は動きを止めることがなかった。


 凄まじい速度で飛んできた矢が眼球に突き刺さると、化け物は一瞬だけ動きを止め、また走り出そうとする。しかし次の瞬間には、ルズィが放った火球が直撃して地面に倒れ込む。そこに戦狼が飛び込み、鋭い爪で化け物の身体からだを破壊していく。


 戦狼のれは油断することなく、一定の距離を保ちながら攻撃を続ける。そのさい、牙は決して使おうとはしなかった。やはり酸性の体液を警戒しているのだろう。


 化け物は血液を吐き出しながら叫び、折れ曲がった異様な足で起き上がろうとする。しかしベレグの呪術により、ふたたび拘束されることになる。そしてルズィがその機会をふいにすることはなかった。呪素を練り上げながら化け物に近づき、火炎で焼き払っていく。


 熱風で上昇気流が生じ、炎のうずが竜巻を発生させる。しかしそれでもルズィは集中し、炎を放出し続ける。このまま化け物を焼却するつもりなのだろう。


 ラライア=イルヴァの判断で戦闘に参加せず、遠くから仲間たちの様子を確認していたアリエルは、不吉な気配に鳥肌が立つのを感じた。

 なにか近づいてくる。この世界に存在していてはいけないモノが。


 アリエルは無意識に抜刀すると、暗闇に視線を向けた。すると深い闇に沈み込んだ樹林の間に、ひとつの影があらわれた。それは豹人の姿をしていたが、彼にはソレがまとっている邪悪で禍々しい混沌の気配が感じ取れた。


 ソレの頭部は縦に割れ、まるで月光花ルナトゥーラのつぼみが花開くように外側に大きくめくれていて、その中心から菌類にも似たグロテスクな器官が突き出ていた。それは戦狼が追い立てた化け物の背中にある得体のしれない腫瘍しゅようにも似ていたが、意思があるように、奇妙な菌糸をウネウネと動かしていた。


 ラライアは混沌の生物に――あるいは菌類に寄生された豹人に飛び掛かろうとしたが、アリエルは彼女の動きを制止する。ある種の直感に過ぎないが、あの豹人に接近することの危険性を感じ取っていたのだ。


 彼は目をつむると意識を集中させながら、暗い領域に存在する石造りの螺旋階段を歩く自分自身の姿を見る。そして壁際に並ぶ無数の棺に目を向ける。そのうちのひとつにれると、棺のふたがゆっくりと開いていくのが見えた。


 アリエルがまぶたを開くと、彼のすぐ目の前に夜の闇に溶け込みそうな黒いもやが、月明りを浴びて立っているのが見えた。彼はその黒い人影に指示を出す。


 あれがお前の敵で、お前が自由になるためにほふるべき存在なのだと。


 その黒いもやが豹人に向かって猛然と駆け、襲いかかったときだった。豹人の割れた頭部から突き出ていた得体の知れない器官から無数の菌糸が伸びて、黒いもやに巻き付こうとした。しかし煙のように実体のない存在に触れることはできない。かたや黒い人影は豹人に組みつくと、みつき、爪を立てながら敵対者の肉体を容赦なく破壊していく。


 アリエルはその様子をじっと見つめながら、夜の闇に支配された森に意識を向ける。しかし彼らの脅威になる存在は確認できなかった。

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