第342話 39


 蛇を思わせる縦長の瞳孔が開いていき、その眼から徐々に輝きが失われていくのが見えた。まるで〈爬人はじん〉の命の炎が消えていくようで、冷たく、どこか不気味な光景だった。


 その直後、アリエルを拘束していた尾から力が抜けていき、霜で白く染まった地面に落下することになった。硬い地面に全身を打ち付け、ひどい痛みが身体中に走るが、それでも尾の締め付けから解放された安堵感が勝っていた。


 アリエルは痛みに震える手を地面につけると、ゆっくり立ち上がろうとしたが、無意識のうちに膝を折った。そのまま座り込むようにして崩れ落ち、荒い息を吐く。


 尾に締め付けられたさいに負傷したのか、胸部がひどく痛む。肋骨にひびが入ってしまったのかもしれない。呼吸するたびに刺すような激痛が走り、全身の筋肉は疲労で鉛のように重かった。冷たい空気と土の匂いが鼻をかすめ、痛みと疲労感をより鮮明に感じさせる。


 すぐに〈治療の護符〉を取り出すと、胸部にそっと押し当て、わずかな呪素を流し込んで効果を発動する。護符が柔らかな光を帯びていくと、水面に立つ波のように、暖かな感覚が押し寄せて全身を包み込んでいく。治療の効果は即座にあらわれ、鋭い痛みが徐々に鈍くなり、耐えられるほどに変わっていく。


 そこで深く息を吸い込むと、これまで感じていた苦しさが嘘のように和らいでいくのが分かった。〈爬人〉の得体の知れない術で変装が解かれて、そのまま戦闘に突入したからなのか、護りの効果が付与されていた〈ダレンゴズの面頬〉を装着する余裕がなかった。


 もしも冷静に対処することができていれば、尾の締め付けや衝撃波による負傷も多少は軽減されていたかもしれない。痛みが引いていくのを感じながら後悔を募らせる。


「ねぇ、大丈夫なの?」

 どこか困惑したような声が聞こえて顔を上げると、シェンメイが目の前に立っているのが見えた。


 彼女の左腕は異常に腫れ上がっていて、額に汗が滲んでいるのが見て取れた。盾で衝撃を受け止めきれずに、骨や筋を損傷したのかもしれない。肌が透けるほどの薄布を身につけた彼女は、身体中に切り傷ができていて血に濡れていた。


 アリエルは護符を取り出すと、すぐに彼女に手渡した。

「これで多少は良くなるはずだ」


「ん、ありがとう」

 シェンメイは護符を受け取ると、腕に押し当てながら呪素を流し込む。


 アリエルは彼女が治療している様子を眺めながら、すぐに撤退を決意する。

「この場に長居することはできない」


 周囲には兵士たちの死体が積み重なり、戦闘の痕跡が痛々しく残っている。敵の陣地内でこれほどの騒ぎを起こしたのだ。すぐに増援が駆けつけてくるだろう。まだ完全に回復していない身体を無理やり動かして立ち上がると、シェンメイと視線を合わせる。彼女も短くうなずき、移動の準備が整ったことを示した。


 ふたりは血の臭いと冷気が漂う戦場を振り返ることなく、足早にその場を離れた。そのさい、アリエルの視界の隅に氷柱つららめいた氷に貫かれた〈爬人〉の無惨な姿が映る。そのすぐ背後に崩れた天幕や散乱した装備が目に入ったが、足を止めるわけにはいかない。


 あの中には、きっと種族に由来する貴重な品があるのだろう――けれど、ここで欲に目をくらませれば敵に見つかってしまう。少しでも躊躇ためらえば命を失う、彼の直感が告げていた。


 すでに陣地内にいるので、衛兵に身元の確認をされる心配もなかったので、変装することなく人気ひとけのない場所を目指して移動を続ける。それでもシェンメイの艶かしい姿は目立ち、腕に巻いていた包帯も血で赤く染まっていたので悪目立ちするかもしれない。


 アリエルは〈収納空間〉に手を伸ばし、彼女から預かっていた毛皮を取り出した。黒い毛皮は野趣あふれる見た目で、守人の雰囲気を漂わせているが、これで彼女の素肌を隠すことはできるだろう。毛皮を羽織ると、彼女の装いは一気に蛮族じみた風貌に変わり、敵兵士の目を欺くのに効果的に思えた。


 しばらくすると、騒ぎを嗅ぎつけた数人の敵兵士とすれ違った。彼らは慌ただしく駆けていて、鎖帷子がカチャカチャと揺れるのが見えた。焦りと緊張感がその表情に浮かんでいて、落ち着きのない様子で言葉を交わしているのが見えた。おそらく司令官の暗殺も、すぐに露見するかもしれない。


 それでもアリエルは冷静さを保ち、毛皮の頭巾を深く被り、顔を少し伏せるようにして歩を進めた。となりを歩くシェンメイも黒い毛皮に身を包んでいるからなのか、あまり目立たない。戦闘で泥まみれになっていたことが幸いしたのか、彼らの姿が注目されることはなかった。


 やがて視界に本陣の出入り口が見えてきたときだった。突然、鐘を打ち鳴らす甲高い音がどこからともなく聞こえてくる。その音は陣地内に警戒を促すかのように広がり、兵士たちの間に緊張感を漂わせていく。それは陣鐘を打ち鳴らす音なのだろう。


「司令官の死体が見つかったみたいだな……」

 鐘の音が何を意味するのかは明白だった――司令官の暗殺が露見したのだろう。


 呪素で形成されていた氷は解けてしまっていたが、この警戒態勢のなか〈混沌の化け物〉が陣地内に侵入することは不可能なので、すぐに暗殺者の存在が疑われることになる。


 周囲が慌ただしくなり、兵士たちの怒声や足音があちこちから聞こえてくる。陣鐘の音に応じるように、兵士たちは武器を手に取り警戒態勢を整えていく。出入り口に接近する時機を誤れば、すぐに拘束されてしまうかもしれない。


「急ごう」

 陣鐘が響き渡る緊迫した雰囲気のなか、ふたりは混乱に乗じて出入り口へと近づいていく。騒ぎによって周囲の警備が手薄になったのは幸いだったが、相変わらず門櫓もんやぐらには兵士が立ち、厳しい目付きで周囲を睨んでいた。


 落ち着け……アリエルは心の中で自分にそう言い聞かせながら、敵から奪っていた槍を手に背筋を伸ばし、いかにも巡回に出る風を装いながら門に近づいていく。しかし青年の思惑通りにはいかなかった。


「おい、待て!」

 兵士の鋭い声が飛び、アリエルたちの足が止まる。視線が絡みつくように刺さり、冷たい汗が背中を流れた。


「お前たち、こんなときにどこに行こうとしてるんだ?」

 アリエルは冷静を装い、振り向きざまに槍を軽く肩にかけながら答える。


「鐘の音が聞こえないのか?怪しい連中がいないか探してこいと命令されたんだ」

 その返答が気に入らなかったのか、兵士の目がさらに細くなった。


「誰がそんな命令をしたんだ?」

 アリエルは間を置き、少し眉をひそめて答える。

「十人隊長だ。ほら、あの片言の」


 兵士の表情がわずかに変わり、疑念が和らぐ気配がした。

「ああ、あの辺境から来た兵士たちの部隊か……」


 納得したように小声でつぶやいたものの、まだ完全に信じた様子ではなかった。鋭い視線を崩さないまま、兵士は手を差し出す。


「部隊章だ。さっさと見せろ」


 さすがに兵士を欺くことは出来なかったようだ。アリエルは冷静さを装いながら周囲を見回し、他に兵士がいないことを確認しながら近づいた。


「ほら、これだ」

 そう言いながら、部隊章を手渡すフリをしながら左手を差し出す。つぎの瞬間、アリエルの右手が鋭く動いた。


 兵士の目が驚愕に見開かれると同時に、小刀が静かにその腹部に突き刺さる。


「ああ……お前?」

 兵士が短く呻いた声は鐘の音と騒ぎにかき消され、兵士たちに聞かれることはなかった。アリエルは刀を引き抜くと、そのまま兵士の鎖骨の間に切っ先を突き立て、確実に致命傷を与えた。


 兵士の身体から力が抜けると、倒れる前にしっかりと抱え込み、音を立てないようゆっくりと地面に座らせた。


「行こう」アリエルは短く告げる。

「すぐに俺たちのことが知られる」


 シェンメイは一瞬だけ兵士の死体に目を向けたが、すぐに視線を戻してうなずく。ふたりは足早に敵陣を離れ、木々が鬱蒼と生い茂る森に入っていく。

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