第297話 78


 怨霊が徘徊する都市遺跡の通りは、まるで亡霊たちの記憶が染み付いているかのように暗く冷たかった。半ば崩れた廃墟の間に吹き荒ぶ風は刃物のように肌を刺し、微かに立ち込める腐敗臭が鼻をつく。その荒廃した風景のなか、モグラの〈呪霊〉が放つ淡い光が足元を優しく照らし出してくれていた。


 その光は死者の怨念が彷徨うこの都市において、ある種の聖域のようにも感じられ、アリエルたちに安心感を与えていた。


 幻想的な雰囲気が漂うなか、モグラたちは地中を巧みに進み、時折地表に顔を覗かせる。そのたびに、瘴気に満ちた空間が一瞬だけ明るさを取り戻すようだった。彼らは進むべき場所を確認すると、総帥が囚われている廃墟に向かって地中を掘り進めていく。土を操作する呪術に長けているのか、あっという間に地中を移動することができた。


 道中、どこからともなく怨霊の呻き声が聞こえてくる。けれど怨霊らしきものの姿は見えてこない。やはり浄化された空間に近づくことを嫌うのだろう。瘴気のなかに含まれる何かしらの力が、怨霊として存在し続けるために必要なのかもしれない。


 雑草が繁茂はんもする大通りに出ると、視線の先に瓦礫がれきに埋もれた十字路が見えてくる。アリエルたちは自然と足を止めて警戒心を強めた。先行していた複数のモグラも十字路の手前で地中から顔を出し、こちらをじっと見つめていた。道を確認するために立ち止まったのかと思っていたが、ザリは眉をひそめて首を振った。


「おそらく待ち伏せだろうな、すぐ近くに何者かが潜んでいるようだ」

 猫人の言葉に反応し、アリエルは〈気配察知〉の能力を使い周辺一帯に潜んでいるであろう脅威に意識を集中させた。シェンメイも身を低くすると、いつでも戦えるように呪術の準備を整えていく。


 アリエルの視界は霧がかっていたが、〈気配察知〉によって徐々に視覚が広がり、目に見えない存在を捉える感覚が鋭くなっていく。通りに面した廃墟のなか、確かに複数の気配が感じられる。その存在を意識すると、朧気おぼろげな気配が輪郭を帯びていくのが分かった。


 どうやら数人の戦士が潜んでいるようだ。彼らはじっと息を潜め、武器を手に十字路を監視していた。どのような意図を持って待ち伏せしているのかは分からないが、アリエルたちにとって敵対的な勢力であることは間違いないだろう。


 アリエルは敵の位置を確認すると、ザリにそっと囁いた。

「敵を始末してくる。どこかに隠れて待っていてくれ」


 その声には微かな緊張感が含まれていたが、冷静さは失われていなかった。己の仕事に誇りを持つザリは、森の守護者として生きてきた青年に対しても、ある種の敬意を持っていた。だからアリエルの戦士としての言葉を疑うようなことはしなかった。すぐに廃墟の陰に入ると、小さな身体を隠すようにしゃがみ込んだ。


 アリエルはシェンメイを連れて敵の側面に慎重に移動した。ふたりは闇に溶け込むように音を立てずに移動する。待ち伏せしている者たちの動きに目立った変化は見られない。まだアリエルたちの存在に気がついていないのだろう。


 それでも敵に呪素を感知されることを恐れたアリエルは〈念話〉での会話を避け、小声で敵の位置をシェンメイに伝える。敵が潜んでいる建物の位置を頭に叩き込んだあと、彼女は無言でうなずく。そうしてふたりは手分けして敵が潜む廃墟に忍び寄る。


 まず厄介な射手を始末する必要があった。シェンメイは巧みに呪素を制御し、ほとんど感知できないほどの微量な呪素で〈暗視〉を使い、瓦礫が散らばる暗闇のなかを移動して敵の背後に近づく。


 蛮族の射手は大通りに注意を向けていて、背後から迫る脅威に対して気にも留めていない。その瞬間を逃さず、彼女は射手が腰に差していた短刀に手を伸ばし、素早く引き抜くと、間髪を入れずにその鋭い刃で敵の首を横に引き裂いた。致命的な攻撃によって射手の身体はぐらりと揺れ、膝から崩れ落ち、自分自身の血液で窒息していく。


 彼女は冷静にその様子を眺めたあと、射手の手から弓矢を奪う。そして鼓動に合わせるように首の切断面から溢れていた血液に矢を近づけると、やじりを血液で濡らし、それから自身の呪素を注ぎ込んでいく。血液と呪素が混ざり合うと、鏃は赤黒い光を帯びていく。すると矢に追尾の能力が付与されていき、何の変哲もない矢は呪力の矢に変化する。


 弓を構え、矢をつがえると、彼女はそっとまぶたを閉じて意識を集中させる。そして微かな気配を感じ取るように、周囲の呪素の動きを探り、その中に潜む敵の存在を感じ取っていく。狙いが定まると、彼女は瞼を閉じたまま矢を射る。


 彼女の手から放たれた矢は瓦礫を避けるように飛び、そして狙い澄ましたように敵の喉を貫いた。敵の目は大きく見開かれ、そして悲鳴を上げることなく倒れ込んだ。


 暗闇の中でひとり、またひとりと、単独行動していた敵を次々と仕留めていく。彼女の行動に隙はなく、無駄のない動きで矢を射続ける。


 シェンメイが敵を排除している間、アリエルも脅威を取り除くため、廃墟のなかに足を踏み入れていた。崩れた天井から薄明りが射し込み、不気味な影を作り出していた。青年は音もなく敵に接近していたが、これまで感じていた敵の気配がふっと消えたことに気がつく。どうやら敵は侵入者がいることに気がついたようだ。


 それなら、もう小細工をする必要はない。青年は堂々と廃墟のなかを進む。天井から射し込む微かな光のなか、廃墟の中央にひとり佇む男性の姿が見えた。


 それは裏切り者のザイドだった。相変わらず髪と髭は伸び放題で白髪が目立っていた。黒い戦闘装束は汚泥にまみれていて、遠くからでも悪臭が鼻を突くほどだった。ザイドは黄ばんだ歯を見せながら、汚らしい笑みを浮かべるようにして青年を迎えた。


「てめぇは、本当にしつこい野郎だな」

 裏切り者はあざけるように言った。

「そんなに俺を殺したいのか?」


「兄弟たちを裏切り、ヤシマ総帥を敵に差し出したんだ。ただで済むわけがないだろ」

 青年は冷ややかに返す。その声には殺気が含まれていて、彼の怒りを肌で感じることができた。


 しかしザイドは鼻で笑い、たくましい男を演じるように自信満々に言った。

「兄弟だって? おい、よせよ。お前だって連中のことを兄弟だなんて思っていないだろう。所詮、俺たちは他人だ。それも、罪を犯した犯罪者どもの集まりでしかない。そもそも、守人なんてものは誰からも必要とされていない組織なんだ。なくなっても誰も困らない。それなら権力者の側について、本来、俺たちが手にするはずだった利益を享受するのが正しいやり方じゃないのか。なぁ、そうだろう?」


 ザイドの言葉には一片の誠実さもなく、彼が裏切りの末に手にしたモノが、いかにむなしいものであるのかが分かったような気がした。


「利益ね……それで、守人の名誉すら失くしたお前は、一体何を手にいれたんだ?」

 ザイドは一瞬、恥じるように青年から目を逸らすが、すぐにいやらしい笑みを浮かべた。その空虚な表情に意味がないことは誰もが知っていた。しかし彼だけは、それが優れた戦士の態度だと信じて疑わなかった。


「お前には理解できないさ。だが今さら後悔することもない、俺は俺の道を選んだんだ」

 彼は胸を張りながら大仰に言うが、その声には迷いが含まれているように感じられた。


 アリエルは明滅する深紅の瞳で裏切り者の顔を冷ややかに見つめた。

「正しい道を選んだつもりでいるのか……それなら、その選択の結果がどうなるのか、一緒に見届けよう」


 青年が何処からともなく赤黒い剣を取り出すのを見て、ザイドは不敵な笑みを浮かべる。


「赤眼の化け物が、やれるもんならやってみろよ!」

 ふたりの間に漂う緊迫感が増していくなか、崩れた天井から射し込む光が、戦いの舞台を不気味に照らし出していく。


 ザイドは太刀を手に、怒りと憎しみに満ちた目で駆け出した。その姿からは、かつての仲間とは思えないほどの決意が感じられたが、青年の心にも迷いはなかった。なにより、彼の動きは精彩を欠き、大雑把で焦りが滲み出ていて、もはや敵ではなかった。


 アリエルは背後からの奇襲に警戒していたが、どうやらザイドにはもう味方がいないようだ。蛮族たちにも見限られ、今や彼はただ孤立した男に過ぎなかった。


 そのザイドが攻撃の間合いに入ると、アリエルは迷わず前に一歩踏み込んだ。太刀が振り下ろされるその瞬間、青年が低い位置から鋭く突き出した剣は、容易くザイドの脇腹に突き刺さる。


 すると裏切り者の表情から余裕の笑みが消え、ゆっくりと絶望に変わっていくのが見えた。が、青年は容赦しなかった。脇腹から肩にかけて、右下から左上に向かって一気に斬り上げてみせた。


 切断されたザイドの半身が僅かに離れ、鮮血が飛び散る。呪術で強化された青年の動きは閃光のように素早く、まばたきをした次の瞬間には、もう決着がついていた。アリエルはそのまま返す刀で裏切り者の首をね飛ばした。宙を舞った彼の頭部は、驚きと苦痛の表情を浮かべたまま固まっていた。


 ふたりの間には圧倒的な実力差があり、ザイドが夢見ていたであろう劇的な戦いは――偉大な戦士に相応しい戦いにはならなかった。ソレは一瞬で終わり、彼の時間は永遠に断ち切られることになった。

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