小さな騎士

 あれから、何度かレナータと対戦した。結果は、アレスが勝ったり、レナータが勝ったり、その時々で勝敗が変わったため、互いに楽しんで遊ぶことができた。


「――アレス。雨、なかなか止まないから、今日は家まで送っていこうか?」


 アレスの、もう幾度目になるか分からない「もう一回」という言葉に応え、レナータがトランプに付き合ってくれてから、どれくらい経ったのだろう。不意に、レナータは大聖堂にあるバラ窓に目を向け、そう提案してきた。


 マリンブルーの視線の先を辿っていけば、バラ窓越しに薄暗い空が見えた。まだ帰るには少し早い時間なのだが、今日は空が雨雲に覆われているからか、いつもよりも外が暗くなるのが早い。


 レナータへと視線を戻すと、緩く首を左右に振る。


「ううん、大丈夫。いつもと同じで、橋のところまででいい」

「……そう?」

「うん。レナータ、その格好で居住区まで行ったら、目立つだろ」


 今日もレナータは、ふんわりとしたラインを描くスカートが特徴的な、ドレスを身に着けている。淡いブルーのドレスの裾に泥が跳ねたらと思うと、自分でもよく分からないが、すごく勿体無いような気がする。


 それに、ヴォルフ家の近所の住人がレナータを見かけたら、ひどく驚くに違いない。そして、不躾にじろじろと眺め回してくるだろうことは、火を見るよりも明らかだ。


 レナータが少し視線を彷徨わせたかと思えば、ふと苦笑いを浮かべた。


「……確かに、そうだね。アレスを困らせるのは嫌だから、今日もお見送りは橋のところまでにするね」

「俺は困らないけど、レナータが困ると思う」


 周囲から奇異の目を向けられるのは、あまり居心地のいいものではない。慣れてきたおかげで、気にならなくなってきたアレスでさえ、避けられるものなら、できれば避けたいと思うのだから、レナータに同じような目には遭って欲しくない。


 そう思い、アレスがレナータの言葉を訂正すると、目の前の微笑みから苦みが消えた。レナータがふわりと柔らかく微笑んだ直後、アレスの頭に手が伸び、そのまま濡れ羽色の髪を撫でられた。最近ではすっかり、アレスの頭を撫でることが、レナータの癖か習慣になりつつある。


「ありがとう、アレス。アレスは、私の小さなナイトみたいだね」

「ないと?」

「あれ、知らない? お姫様を守る、男の人のことだよ」


 お姫様を守るという言葉に、一瞬どきりと心臓が跳ね上がる。


(レナータを、守る……)


 どうしてだろう。レナータの言葉を胸中で反芻した瞬間、さらに心臓が早鐘を打ち始めた。


 確かに、レナータはお姫様みたいに可愛い。だが、これまでのアレスに、レナータを守るという発想は微塵もなかった。


 レナータにはいつも笑っていて欲しいし、アレスのことをそのマリンブルーの瞳に映して欲しい。だから、こうして毎日のように大聖堂に通い詰め、レナータの気を引きたくて、いつだって必死だ。


 しかし、自覚がなかっただけで、もしかしてアレスはレナータのことを守ろうとしていたのだろうか。そして、レナータは多少なりとも、アレスに守られて喜んでくれているのだろうか。そう思ったら、少し気恥ずかしく感じるのと同時に、自信みたいなものが胸の奥底から湧き上がってきた。


 でも、すぐになんてことのないふりをして、小さく頷いた。


「そうなんだ」

「うん、そうだよ。――じゃあ、アレス。帰りの支度をしちゃおうか。それが終わったら私、ちょっと傘を取ってくるから――」


 ――ここで、待っていてね。


 おそらく、レナータはそう続けようとしたのだろう。


 だがその時、レナータの言葉を遮るかのごとく、大聖堂の扉が重い音を立てて開かれた。アレスとレナータがほぼ同時に、扉へと振り向くと、そこには見慣れた兄の姿があった。


「リック?」


 何故、兄がここに現れたのだろうと疑問に思って呼びかけたのだが、リヒャルトの視線はレナータに釘付けになっていた。扉を開けた格好のまま直立不動になり、レナータを凝視する姿に既視感を覚える。


 眉根を寄せ、少し考え始めれば、答えはすぐに分かった。


(……あの日の俺と、同じだ)


 お姫様みたいな美少女に、兄も見惚れているのだろうかと思った刹那、どうしてか苛立ちが込み上げてきた。思わず一際深く眉間に皺を寄せ、呆けたようにレナータを見つめている兄を睨み据えていたら、すぐ隣から透明感のある柔らかい声が聞こえてきた。


「――もしかして、アレスのお兄さん?」


 隣を振り仰げば、レナータは小首を傾げ、兄を見つめ返している。アレスと初めて出会った日と、ほとんど同じ対応に、やはり何故かは分からないものの、余計に怒りが煽られていく。


 だから、咄嗟にレナータの手を掴むと、驚いたようにマリンブルーの瞳がアレスを見下ろしてきた。レナータの意識が兄ではなく、アレスに向けられると、不思議と安心した。


「うん、俺の兄さん。リヒャルトって名前で、周りからはリックって呼ばれているんだ」


 兄の代わりにアレスが返答すれば、レナータはきょとんと目を瞬かせた後、可愛い笑顔を見せてくれた。


「やっぱり、そうだったんだね」


 ちらりと兄を見遣れば、リヒャルトは我に返ったみたいだが、アレスの乱入により、レナータに返事をする機会を逸してしまったため、仕 方がなく口を噤んでいるようだ。その姿を見た途端、自然と勝ったと確信できた気がした。


「アレス。お兄ちゃんが迎えにきてくれて、よかったねー。お兄ちゃんが来てくれたから、私のお見送りはいらないかな?」


 しかし、その言葉が耳に入ってきた瞬間、勝利の高揚感は急激に萎んでいった。慌ててレナータへと向き直れば、マリンブルーの眼差しと琥珀の眼差しが絡み合う。それから、勢いよく首を横に振る。


「やだ、もっとレナータと一緒にいたい」

「そう? それじゃあ、いつも通り、橋のところまで――」

「おい、アレス。あんまり迷惑かけるな」


 せっかくレナータがいつものところまで送ってくれると言ってくれたのに、兄がアレスの大好きな声を遮り、呆れたように注意を促してきた。


 レナータとの会話に突然割って入ってきた兄を、振り向きざまに睨みつければ、アレスと同じ琥珀の瞳が睨み返してきた。それから、つかつかとこちらに歩み寄ってくる。


「アレス、相手は人類の守り神なんだぞ。我儘言って許される相手じゃないことくらい、お前でも分かるだろ」

「――リック。私は確かにそう呼ばれてきたけど、本当はそれほど大層な存在じゃないの。だから、そんなに気にしなくて大丈夫だよ。それに、このくらいの我儘は、可愛いくらいだよ」


 レナータが笑顔のままリヒャルトへと視線を向け、そう答えると、兄は顔を真っ赤にして口ごもった。


「いや、でも……」

「もしかして、私が一緒だと、リックが嫌かな?」

「そういうわけじゃ……」


 二人のやり取りを眺めているうちに、再度面白くない気分になってきた。途中までとはいえ、三人で一緒に帰ったら、レナータとリヒャルトはこうして言葉を交わしたりするのだろうか。ならば、残念な気持ちは消えないが、今日はレナータとここで別れた方がよさそうだ。


「……分かった。リックの言う通りにするから、レナータは今日のお見送りはいい」


 アレスがそう憮然と言い放つと、兄はほっと安堵したように表情を緩め、レナータは不思議そうな表情を浮かべていた。


 掴んでいたレナータの手をぱっと放し、まずはリュックサックを背負う。それから、長椅子の背にかけて乾かしていた、紺色のレインコー トを手に取り、その上から羽織る。フードを引っ張り、目深に被ったら準備万端だ。


 アレスがレインコートのフードを被るなり、唐突に強い視線を感じた。何事かと、くるりと振り返れば、きらきらと目を輝かせたレナータが、こちらに向かっておずおずと両手を広げてきた。

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