二人並んで

 ――あの事件が起きた日から、一週間が経過した。


 アレスはレナータを連れて、このスラム街から去ることにした。そして、これからは、スラム街ではなく、政府が定めたエリアに居住することにしたのだ。


 この話を持ちかけた当初、レナータは難色を示した。

 それだけの資金はあるのか。確かに、二人でずっと稼いだ給金をなるべく貯金に回してきたが、今がその貯金を崩す時なのか。どこに移住するつもりなのか。

 そもそも――身を隠しやすいという理由で、スラム街を移住先に選んだのに、政府が指定したエリアを生活の拠点にして、万が一アレスたちの居場所が楽園の人間の耳に入ったら、どうするつもりなのかと、散々問い詰められた。


「じゃあ、訊くが。レナータは、これから先もここで生活できるのか?」


 随分と意地の悪い質問だと、我ながら思ったものの、そう問い返さずにはいられなかった。

 未遂とはいえ、レナータは純然たる婦女暴行の被害者だ。きっと、これから先、好奇の目を向けられるだろう。今までだって、程度の差こそあれ、レナータはそういう目で見られることが度々あったが、これからはその比ではなくなるに違いない。

 そんな環境に身を置き続けていたら、いつかレナータの心が壊れてしまうのではないか。レナータは精神的に強いが、この世に絶対なんてものは存在しない。環境を変えられるのならば、この場合は変えるべきだ。もしものためにと、これまで貯めてきた資金を今使わずして、いつ使うというのか。


 それに、二人での生活を始めてから七年が経つが、未だに楽園の手がアレスたちに及ぶ気配はない。

 いくらスラム街が各地に点在し、その全てをしらみ潰しに捜し回り、政府が定めたエリアの住人の個人情報に目を通していかなければならないにしても、あまりにも時間をかけ過ぎているのではないか。

 やはり、かつてレナータが言っていた通り、エリーゼたちと一緒に暮らしていた場所を突き止めるまで、八年もかかっていたことを鑑みる と、楽園にアレスたちの行方を本気で探すつもりなんて、最初からなかったのではないかと思えてくる。


 だから、今になってもまだ、アレスたちを見つけられていないのではないか。あの時は、単純に運が悪かっただけなのではないか。そもそも、今も探しているのかどうかすら、怪しいところだ。

 楽園の人間と思しき犯人たちの襲撃を受けた直後は、アレスセレナータも神経質になっていたが、だんだんとそちらに気を回さなくなってきた。それよりも、今は目の前にある障害を、どう排除するのか、考えるべきだ。


 そう考えると、政府が指定したエリアに移住するのが妥当だ。

 元々、スラム街の中でも比較的住みやすいという理由で、この街を避難先に選んだのに、既にレナータに実害が及んでいるのだ。これ以上、ここに居座る必要性は感じられない。もっと治安の悪い場所に移住するなんて、正気の沙汰ではない。

 楽園の手が及ぶ可能性が低く、ある程度の治安が維持されているエリアに引っ越そうと考えるのは、この流れではごく自然なことなのではないか。

 幸い、エリーゼが偽造した認証IDは、たくさん残されている。だから、今のところ、不安要素は限りなく少ないと思う。


 そう説き伏せれば、レナータも最終的には頷いてくれた。そして、申し訳なさそうに表情を曇らせつつも、アレスに礼を告げてきた。

 だが、アレスからすれば、わざわざ礼を言われるほどのことではない。惚れた女の身の安全と、心の安寧を守りたいと思うのは、当たり前のことだろう。

 それに、そろそろ母と連絡を取り合ってもいい頃合いかもしれない。息子の旅立ちを快く送り出した母とはいえ、七年も音信不通になっていたら、さすがに心配しているに違いない。だから、そういう意味でも、できるだけ治安のいいところに住みたい。


 そんなことをつらつらと考えながら隣を見遣れば、アレス同様、必要最低限の荷物を持って歩いている、レナータの姿があった。

 今まで暮らしていた家の中は片付け、互いの職場にもそれぞれ挨拶を済ませている。あとは、最寄りのバス停にやって来るバスに乗り、新天地に向かうだけだ。


「――どうしたの? アレス」


 アレスの視線に気づいたレナータが、不思議そうに見上げてきた。

 レナータの言う通り、あの暴漢は手加減をしたらしく、薔薇色の頬には殴られた痕跡は残っていない。元の綺麗な肌に戻っている。

 既に暴行を受けた痕が綺麗さっぱり消えているから、あんな出来事はなかったのではないかと錯覚させるが、十中八九、レナータの心には消えない傷痕が残っているのだろう。未だに、時折悪夢にうなされ、過呼吸を起こしているのが、その証拠だ。


「――レナータ。手、繋ぐか」


 だから、ゆっくりと時間をかけて、レナータの心が負った傷を癒していきたい。なかったことにはできないが、少しずつで構わないから、思い出すことも難しいくらい、レナータにとって遠い出来事にしてやりたい。

 アレスが手を差し出せば、レナータはぱっと翡翠の瞳を輝かせた。そして文字通り、宝石みたいな瞳に魅入られそうになるアレスに向かって、嬉しそうに大きく頷いた。


「うん!」


 すかさずレナータの手がアレスの手に乗せられ、きゅっと握る。

 アレスが幼い頃も、レナータが幼い頃も、二人でいるとよく手を繋ぎ、並んで歩いた。これからも、こうやって二人並んで歩んでいけたらいい。

 そんな願いを胸に、レナータの手が決して離れないように握り直したら、アレスの大好きな笑顔が琥珀の瞳に映った。

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