八章 暁の祈り
雪が降る夜
――スラム街から第三エリアに移住し、およそ二年半が経過していた。アレスは二十五歳となり、レナータはもうすぐ十八歳になる。
木を隠すなら森の中という言葉がある通り、アレスたちは最も人口が多い第三エリアへと、あえて戻ったのだ。もちろん、以前エリーゼたちと住んでいた場所とは全く違うところでアパートを借り、相変わらず二人で暮らしている。それでも今のところ、楽園の人間に居場所を突き止められた気配はない。
そうしているうちに時は過ぎ、今日はバレンタインデーだ。レナータ曰く、元々はとある聖人が亡くなった日だというが、旧時代の頃からいつの間にか恋人たちの日と化していたらしい。しかも、旧時代の国々の文化が混ざり合った結果、男性は意中の女性に花を贈り、女性は意中の男性にチョコレートを贈る日になったのだと、教えてくれたのだ。
アレスとレナータは、あの秋の日から恋人同士となったため、世の恋人たちに倣い、仕事終わりに待ち合わせをして、互いにプレゼントをする約束を交わしていた。
付き合い始めたばかりの頃は、レナータがアレスとの歳の差を気にして、あまり恋人らしいことはしてこなかった。どちらかといえば、今まで通り、兄妹みたいに接していたのだ。
だが、レナータが十七歳になってからは、次第に恋人らしく振る舞うことを許可されるようになっていった。そして、成人間近となった今では、レナータも随分と積極的になってきたと思う。
「――ずっと前から、好きでした! どうか、俺と付き合ってください!」
――だから、今日という日をアレスなりに楽しみにしていたのだが、どうして待ち合わせ相手である恋人が、どこの馬の骨とも知れない野郎に愛の告白を受けている現場を目撃しなければならないのか。
アレスとの待ち合わせ場所である店の近くに立っていたレナータは、目の前の男と差し出されている赤い薔薇の花束を、困り顔で交互に見遣っている。少しふっくらとした柔らかい唇から零れ落ちた吐息が白くなり、粉雪が舞い落ちる夜の空気にゆっくりと消えていく。
今日のレナータは、白いファーがあしらわれているアイボリーのコートに身を包み、もこもことした素材のオフホワイトの帽子を被っている。淡いグレーの手袋を嵌めている手は、有名なチョコレート専門店のロゴが入っている、小さな紙袋を提げている。
どこからどう見ても、恋人と待ち合わせをしているか、気になる人に意を決して告白しようと、待ち伏せをしていると考えるのが妥当な格好をしている相手に、薔薇の花束を渡そうとするなんて、どういう神経をしているのだろう。そもそも、レナータに赤い薔薇は似合わない。
眼前に広がる光景を、冷めた目で眺めていたら、アレスの視線に気づいたのか、ふと翡翠の眼差しがこちらへと向けられた。その直後、レナータは満面の笑みを浮かべた。
「――アレス!」
つい先程、告白を受けたばかりだというのに、そんなことは忘れたとでも言わんばかりに、にこにこと嬉しそうに笑うレナータは、アレスの元へと小走りで駆け寄ってきた。相手に対して失礼だとか、さすがに薄情ではないかと思わなくもないが、尻尾を千切れんばかりに振っている子犬みたいに愛くるしいレナータが、迷わずアレスの元に走り寄ってきたら、多少の優越感に浸るのは、致し方ないことだと思う。
「……待たせたか?」
「ううん、そんなに待ってないよ」
だから、アレスも何事もなかったかのように声をかけると、レナータは首を横に振った。つまり、アレスがやって来るのを待ち始めて、それほど時間が経たないうちに、先刻の野郎に言い寄られたということか。
レナータから視線を外し、ちらりと男を見遣れば、表情を絶望一色に染め上げ、その場に立ち尽くしていた。一応、釘を刺しておくべきかとも思ったが、レナータのこの反応を見れば、答えを明示されたも同然かと考え直す。これ以上、傷口に塩を塗るような真似をしたら、さすがに相手が可哀想だ。
(……俺も、歳を取ったな)
昔の自分ならば、間違いなく容赦のない牽制をしただろう。今は、見て見ぬふりをして、この場からさっさと立ち去ろうとしているのだから、アレスなりに成長したものだ。
「じゃあ、帰るか」
「うん、そうしよ」
世の恋人たちの大多数は、こういう場合、どこか洒落たレストランにでも向かうのかもしれないが、生憎とアレスたちの懐事情はなかなかシビアだ。
だから、この後はまっすぐに二人で暮らしているアパートに帰り、プレゼントを渡し合い、いつも通り、アレスが作った料理を一緒に食べる予定だ。
しかし、レナータはアレスの手作りの料理でも、心の底から幸せそうに食べてくれるのだから、本当に可愛い。
アレスが左手を差し出せば、レナータは躊躇なく右手を出し、きゅっと手を繋ぐ。手袋越しに、レナータの小さな手のぬくもりが伝わり、自然と穏やかな気持ちにさせられる。
未だ立ち直れずにいる男に二人揃って背を向け、家路へとついた。
***
入浴を済ませ、もこもことした布地の、パステルピンクのルームウェアを身に纏ったレナータは、リビングのソファに腰を下ろし、鼻歌を歌いながらアレスからプレゼントされた花束を手に持ち、視線を落とす。
アレスがプレゼントしてくれた花束は、白い薔薇の花がメインで、紫の菫の花が控えめに添えられている。アレスが初めてプレゼントしてくれた花束と、全く同じ花束を眺めていると、自然と笑みが零れる。
(本当に、アレスは変わらないな……)
それが、いいことなのかどうかは分からないものの、少なくとも、レナータを温かな気持ちにさせてくれる。
アレスが昨夜のうちに仕込みをしておいてくれた、ビーフシチューもおいしかったし、レナータが用意したチョコレートも、食後のデザートに、一人一粒ずつ食べたのだが、非常に美味だったから、本当に今日はいい日だ。
アレスは優しいから、自分のものになったチョコレートを、レナータにも分けてくれるのだ。だから、いつもバレンタインの時は、レナータが食べたいものをついつい買ってしまう。
嬉しくてたまらず、どうしていいのか分からなくなり、一旦アレスからもらった花束をローテーブルの上に置き、クッションをぎゅっと抱きしめる。それから、そのままソファの座面の上でごろんと横になり、ぱたぱたと足を動かす。
「……何やっているんだ」
突然、頭上から降り注いできた低く美しい声に導かれるように、視線だけを動かせば、タオルで濡れ髪を拭いているアレスが、呆れ顔でレナータを見下ろしていた。
「あ、アレス。もう、お風呂から上がったんだ」
「俺はレナータほど、風呂は長く入らねえよ」
クッションを抱えたまま、上体を起こして座り直すと、アレスが隣に腰かけてきた。
「アレス、ドライヤーで髪乾かさないの?」
答えは分かりきっていたものの、一応訊ねれば、アレスはタオルで髪の水気を取りつつ口を開いた。
「面倒くせえから、タオルで拭くだけで充分だ」
「もう……アレス、せっかく綺麗な髪の毛なのに……。しょうがないなあ」
ぶつくさと文句を言いながらソファから腰を上げると、洗面所へと向かう。そして、ドライヤー片手にリビングへと戻り、コンセントにプラグを差し込み、床の上にクッションを置くなり、ソファに座っているアレスへと振り向く。
「ほら、アレス。こっちおいで。私が髪、乾かしてあげるから」
ぽんぽんとクッションを叩きつつ、そう声をかければ、アレスは特に嫌がる素振りを見せず、素直にレナータの元へと歩み寄ってきた。自分で髪を乾かすのは面倒臭いが、レナータに乾かしてもらう分には構わないみたいだ。
アレスがクッションの上に座り込むや否や、ドライヤーから温風を出し、まだ水気を含んでいる濡れ羽色の髪を乾かしていく。
「アレスってば、何だか子供返りしていない? 昔は、自分で乾かしていたのに」
アレスの髪を乾かしながらの言葉だから、きっとドライヤーの吹き出し口から吐き出されている温風に、レナータの声は掻き消されているに違いない。でも、アレスに言い聞かせたいわけではないから、聞こえていなくても構わないのだ。
付き合い始めてから、アレスは徐々にレナータにこうして甘えてくるようになった。甘えられるのは嫌ではないし、妹分ではなく、対等な恋人として見てくれているみたいで、悪態をつきつつも、実は結構嬉しかったりする。
アレスの髪はレナータの髪よりも短いから、乾くのも早い。これならば、面倒臭がる必要など、どこにもないような気がする。
温風から冷風に切り替え、熱を帯びた髪を冷ましていく。濡れ羽色の髪を指先で梳き、こんなものかとドライヤーのスイッチを切る。それから、ドライヤーと一緒に持ってきておいたヘアコームを今度は手に持ち、先程までドライヤーの風を受けていた髪を整えていく。
「よし。アレス、終わっ――」
言葉の途中で唐突にアレスがレナータへとくるりと向き直ったかと思えば、腰を掴まれ、ぐっと引き寄せられた。バランスを崩したレナータを難なく受け止めると、アレスの膝の上に向き合う形で座らされた。
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