好みの香り

「――ガキが、こういうことするかよ」


 どうやら、先刻のレナータの小言を、アレスは聞き逃さなかったらしい。さすがグラディウス族だと思う反面、この体勢に気恥ずかしさがじわじわと込み上げてくる。


「……髪の毛乾かして欲しいなんて、子供みたいだって、私は思うけど」


 羞恥を誤魔化すように、唇を尖らせてそう言い返せば、アレスは何故か眉根を寄せた。


「自分の女に甘えるのは、そんなにガキくせえか」


 アレスの自分の女発言に、ますます居たたまれなくなっていく。


(どうして、アレスはそういうことを、さらっと言えるのかなあ……)


 レナータには無理だ。いや、もしかしたら無意識のうちにこういうことを言っている時があるのかもしれないが、少なくとも、意識して口にするのには抵抗がある。


「……そうですね。そんなに子供っぽくないです」


 首を竦め、自身の主張を訂正する。

 その口振りから察するに、アレスはレナータに子供扱いされたくないみたいだ。だったら、そう思われないように振る舞えばいいのにと思わなくもないが、レナータに甘えたいという気持ちがあることを吐露された手前、悪い気はしない。


 レナータの返事を耳にしたアレスは満足そうに頷いたから、そろそろ放して欲しいと頼んでも大丈夫だろう。

 そう判断したのも束の間、アレスはレナータを抱えたまま立ち上がった。そして、そのままソファへと移動して腰を下ろすと、先程と同じような格好になった。


「……アレス、そろそろ下ろして欲しいんですけど」


 アレスの膝に跨っているこの姿勢は、なかなかに羞恥心を煽ってくる。その上、向き合っている体勢だから、互いの顔がよく見えるのも、あまりよろしくないと思う。

 ソファの座面にちらちらと視線を向けながら、そう訴えたものの、アレスの手はレナータの腰をがっしりと掴んだままだ。それだけではなく、アレスの視線が顔面にびしばしと直撃しているのが、肌に伝わってきたから、仕方がなくソファの座面から目を逸らすと、琥珀の眼差しと翡翠の眼差しが絡み合う。

 すると、琥珀の瞳に灯っている熱に気づき、思わず息を呑む。こうして見つめ合っていると、まるで琥珀の眼差しを通して熱が伝染してきたかのごとく、レナータの頬まで熱くなっていく。


 先刻まで、あれほど恥ずかしくてたまらなかったというのに、いつの間にかそんな気持ちは霧散していた。ただただ、その美しい琥珀の瞳に呑まれていく。その瞳の奥に宿っている熱が欲しいと、望んでしまう。

 魅入られたかのように琥珀の瞳を覗き込んでいたら、アレスの右手だけレナータの腰から離れ、後頭部に添えられた直後、二人の距離があっという間に消えていく。琥珀の瞳に飛び込んでいくような感覚を味わっているうちに、互いの唇が一分の隙間もなく重なり合った。同時に、そっと目を閉じる。

 アレスの唇からは、夕食後に摘まんだチョコレートの甘い香りがした。きっと、まだ歯磨きを済ませていないのだろう。レナータも、まだ歯磨きをしていないから、チョコレートの香りが漂っているのだろうか。それとも、ビーフシチューの牛肉の匂いが染みついてしまっているのだろうか。


(後者だったら、やだなあ……)


 初めのうちは、アレスとのキスに夢中になっていたのだが、不意に現実的な思考が脳裏を過った途端、一気に我に返ってしまった。

 一旦キスを中断し、歯を磨いて口臭を確かめさせてもらおうと、閉ざしていた瞼を持ち上げ、身を捩ってみたものの、アレスの手も唇も、ちっともレナータを解放してくれない。それどころか、濡れた感触が唇を這って無理矢理こじ開け、アレスの舌がレナータの口の中に侵入してきた。


「ん!? んんんっ……!」


 唇を触れ合わせるだけのキスでも、牛肉臭くないかと気が気ではなかったというのに、何たる仕打ちだ。

 さすがに、これ以上は本気でやめてもらいたかったから、拳を作ってアレスの胸元を叩いたものの、やはり放してくれない。


(そんなに飢えていたのか、この男は……!)


 なんて自分の欲望に忠実な男なのかと、意外と長い睫毛に縁取られた瞼を睨み据えた直後、うっすらと目の前の瞼が持ち上がった。

 レナータの心の声を読み取ったかのようなタイミングの良さに驚き、つい目を丸くすると、薄目を開けたアレスの薄く形のよい唇が、意地の悪い笑みの形に歪んで見えた気がした。


 嫌な予感に身構える暇すら与えられず、アレスに強く舌を吸われる。その瞬間、脳髄に甘い痺れが走り、思考が散り散りになっていく。口の中で生まれる、どちらのものとも知れぬ水音が、鼓膜を侵食していく。

 アレスが食べたチョコレートはウィスキーボンボン入りだったみたいで、キスが深まっていくごとに、アルコールの香りも強くなっていく。その香りを嗅いでいるうちに、レナータの体内にもアルコールが回っているような錯覚に溺れ、酪酊状態にも似た眩暈をくらりと覚える。


 熱に浮かされ、思考回路が使いものにならなくなっていたレナータの唾液を、アレスは何の迷いもなく飲み込んだ。これだけ深いキスをしているのだから、口から唾液が溢れ出す前に飲み込むものだが、自分の口臭がどうなっているのか気になって仕方がないレナータの目には、信じ難い行為に映った。

 だんだんと落ちかけていた瞼が急速に持ち上がり、もう一度驚愕に目を見開いたレナータは、無駄な抵抗かもしれないと思いながらも、アレスの胸を両手で押し退けようと奮闘していたら、ようやく唇が解放された。


 アレスの両肩に手を置き、弾んだ息を整えようと、何度も深呼吸を繰り返す。そして、呼吸が整ったところで、アレスを半眼で見遣る。


「……アレス、ひどいよ。私、まだ歯磨きしていなかったのに」

「あんなに物欲しそうな顔、していたくせに」

「ど、どんな顔?」

「そういう顔だ。……それに、安心しろ。俺も、まだ歯は磨いてねえよ」

「本当に、どんな顔なの……。あと、アレスはいいよ。チョコの甘い香りがしただけだもの。そ、その……私の口、臭くなかった?」


 ここで、臭かったと言われたら、レナータの乙女心が大ダメージを受けてしまうが、現状把握は大切だ。もし、レナータの心を抉る答えが返ってきたら、今後は歯を磨いていない時はキスをしないように気をつけよう。


「臭くねえよ。レナータも、チョコの匂いしかしていなかった。ああ……けど、ヴァーベナに似た匂いと桃の匂いはしたな」

「……ヴァーベナ?」


 臭くなかったと断言されて安堵したものの、同時に疑問が芽生えた。

 桃の香りがしたというのは、よく分かる。今、レナータとアレスが共用で使っているボディーソープは、桃の香り付きのものだ。

 だから、お風呂上がりのレナータから、桃の香りがしているのは、不自然ではない。レナータには全く分からないが、おそらくアレスも同じ香りを身に纏っているに違いない。グラディウス族の嗅覚は本当に優れていると、つくづく思う。

 だが、ヴァーベナに似た香りとは何なのか。レナータはボディーソープこそ香り付きのものを使用しているが、シャンプーもコンディショナーもボディークリームも、特にこれといった香りはついていない。香水だって、使っていない。


(お母さんは、ヴァーベナの香りが好きだったから、香水とかボディークリームとか、ハンドクリームとか、ヴァーベナの香りがするのを使っていたけど……)


 レナータが首を傾げていると、アレスは浅く頷いた。


「ロボットだった頃から、レナータからはヴァーベナみたいな匂いがした」


 アレスが発した言葉の意味が頭の中に浸透していくにつれ、次第に頬に熱が上ってきた。

 つまりは、レナータが人工知能だった頃から、アレスに体臭を嗅がれていたということか。

 そう理解した刹那、アレスの肩から両手を放し、すぐさまクッションを掴もうとしたが、今はソファの上にはなかったことを、今さらながら思い出す。悔し紛れにアレスの両肩を強く掴み、がくがくと揺さぶる。


「アーレースー! 女の子の匂いを嗅ぐなんて、どういう神経をしているの! デリカシーがなさ過ぎだよ!」

「うるせえな、耳元で喚くな。近所迷惑にもなるだろ」

「今、アレスの口から正論なんて聞きたくない!」


 とはいえ、本当にご近所さんがクレームをつけにきたら困るから、一旦口を噤む。耳を澄ませてみたものの、お隣さんから文句を言う声は聞こえてこないし、玄関の扉や壁を乱暴に叩く音も聞こえてこない。とりあえず、レナータの悲痛な叫び声は、騒音までには至らなかったらしい。

 内心胸を撫で下ろしつつも、目の前のアレスの顔をじろりと睨みつければ、低く美しい声が再び耳朶を打つ。


「別に、いいだろ。臭いって言ったわけじゃねえんだし」

「そうだけど……」

「むしろ、いい匂いだろ。レナータの匂いは」


 レナータの後頭部に添えられたままになっていたアレスの指先が、ダークブロンドを一房絡め取っていく。それから、その感触を楽しむかのように、レナータの髪を弄ぶ。


(いい匂い……)


 一応、好きな人に褒められたとはいえ、体臭について触れられているのだと思うと、十七歳の乙女としては、素直に喜べない。


(アレスって、匂いフェチなのかな……)


 これまで、そういった素振りは見受けられなかったが、先程の発言を耳にした今となっては、その疑惑は結構濃厚だ。あるいは、グラディウス族は普通の人間よりも遥かに嗅覚が鋭いから、もしかすると、匂いに強いこだわりを持つ習性でもあるのかもしれない。それに、生物は匂いで相手との身体の相性を無意識に確かめるため、それも何か関係しているのかもしれない。


(つまり、アレスが私の匂いをいい匂いって、思っているってことは……)


 そこまで思考を巡らせたところで、恥ずかしさにアレスの肩に顔を埋める。これだけ頬が熱を持っているということは、ほぼ間違いなく今のレナータの顔は真っ赤に染まっているのだろう。そんな顔をアレスに真正面から見られるなんて、正直耐えられない。

 万が一にも唸り声を漏らしたりしないよう、軽く唇を噛んでいたら、急にアレスに身体を引き剥がされた。今さら、この程度の接触でアレスが不快に思うはずがないのに、いきなりどうしたのだろうと、目を瞬かせていると、そのまま身体の向きを変えられた。


 思考が現状に追いつかず、アレスにされるがままになっていたら、今度は肩を押された。その拍子に、ソファの座面に仰向けに倒れ込み、後頭部が肘掛けに当たる。視界いっぱいに映ったアイボリーの天井をぼんやりと眺めていたのも束の間、すぐに影が落ちる。

 天井の代わりにアレスの顔が視界を埋め尽くしたかと思えば、また唇を奪われた。

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