雨音
(最悪だ……)
――翌朝。
昨日は昼休みの間に、アダムに事情を説明した途端、さながらアレス自身が病原菌のごとく扱われ、さっさと帰れと言い渡された。言葉こそ乱暴だったものの、その厚意に甘え、半日近く早く仕事を切り上げ、帰宅した。
レナータの夕食の支度だけ手早く済ませ、アレスは早々にベッドに潜り込み、体調の回復を目指して眠りに就いたのだが、憎たらしいことに、体調は良くなるどころか、悪化の一途を辿ったのだ。
「――アレス、熱はあった?」
起床するなり、二段ベッドの上段から下りてきて、アレスの様子を見にきたレナータが、心配そうにもう一度顔を覗かせた。
レナータに頼んで持ってきてもらった、体温計に表示された数値を睨みつけていたアレスは、渋々と体温計を差し出す。すると、パジャマからパーカーとショートパンツ姿に着替えていたレナータは、無言で体温計を受け取り、表示されている数値を目にした直後、珍しく眉間に皺を寄せた。
「九度台って……アレス、今日は絶対に、仕事に行っちゃ駄目だからね。私から、職場にお休みしますって、連絡しておこうか?」
体温計からアレスへと視線を移したレナータは、どこまでも冷静だ。しかも、真っ先に仕事先への連絡を思いつく辺り、まだまだ子供のくせに、社会人としての意識が既にあるのではないかと思う。
「いや……自分で、する……」
「アレス、携帯のアラームを目覚ましに使っているから、近くに携帯はあるよね?」
「ある……」
「じゃあ、アレスはまず、職場に今日はお休みしますって、伝えておいてね。その間に私、アレスの朝ごはんと風邪薬、用意しちゃうから」
「……お前、料理できねえだろ」
てきぱきと動き始めたレナータに、慌てて口を挟む。
そう、今のレナータは料理の経験が皆無だ。
人工知能だった頃に作ってくれた、菫の砂糖漬けは美味だったから、料理下手と決めつけるのは早計かもしれない。でも、人間に生まれ変わり、両親と一緒に暮らしていた時期に、レナータが料理をしているところなんて、一度も見たことがない。そして現在は、アレスが毎食作っている。
レナータはその手伝いこそしてくれるものの、簡単な作業しか頼んだことがない。手先が不器用で、要領が悪い今のレナータに、いきなり料理しろだなんて、無茶だ。
アレスの言葉に、レナータは一瞬きょとんと目を瞬かせていたが、すぐに苦い笑みを零した。
「確かに、アレスの言う通りだけど……アレスが買い置きしておいてくれた、レトルトのスープがあるでしょ? その中に、お魚と野菜のトマトスープがあったから、それをボイルしてくるよ。そのくらいは、さすがに私でもできるよ」
あっさりと機転を利かせてみせたレナータに、思わず軽く目を見張る。
「私の朝ごはんは、ハムトーストと牛乳で充分だし。だから、アレスは何も心配しないで、職場に連絡だけしたら、ゆっくり寝ていてね」
笑みに含まれていた苦みを消すと、アレスを安心させようとしているのか、レナータはふわりと微笑んだ。それから踵を返し、ぱたぱたと寝室から小走りで出ていった。
ぱたんと静かに扉が閉まった瞬間、気づけば深く息を吐き出していた。
(そういえば、レナータには三千年分の記憶があるんだよな……)
かつて、三千年の時を生きてきたレナータには、それ相応の経験が蓄積されていて当然だ。そして、今のレナータはその記憶を完全に取り戻したのだから、ある程度のアクシデントには即座に対処できるのだろう。
見た目は年相応だから、ついついアレスがあれこれと手を焼いてしまっていたのだが、もしかしたらレナータにとって、余計なお世話だったのだろうか。レナータは特に不満を漏らしたりしていないが、内心鬱陶しく思っていたのだろうか。
(いや、レナータはそういう奴じゃねえだろ……)
どうやら高熱を出し、気持ちが弱っているらしい。身体が丈夫なアレスは滅多に風邪なんて引かないから、少しでも体調を崩すと、普通の人よりも精神的に参ってしまうのかもしれない。
自分らしくない思考に舌打ちをしつつ、とりあえず仕事先への連絡を済ませてしまおうと、枕元に置いておいた携帯端末に手を伸ばした。
***
「アレスー、スープ持ってきたよー。これ飲んだら、薬も飲んでねー」
アダムに連絡を入れ、ベッドの上で横になっていたら、そっと扉が開き、トレイを慎重に持ったレナータが寝室に戻ってきた。今にも落ちそうな瞼を無理矢理こじ開ければ、トレイの上には湯気を立ち上らせたスープ皿やスプーン、水がなみなみと注がれたグラス、それから風邪薬の箱が乗っていることが、確認できた。
「アレス、起き上がれる? この薬、食後じゃないと飲めないタイプだから、ちゃんと食べてもらわないと困るんだけど……」
「ん……大丈、夫……」
自分で言っておきながら、全く大丈夫そうではないと、心の底から思う。
それでも己を叱咤し、ひどい倦怠感に苛まれた身体をむくりと起こすと、不安そうにアレスの様子を窺うレナータと目が合った。 琥珀の眼差しと翡翠の眼差しが絡み合った刹那、レナータの表情がほんの少しだけ安堵で緩んだ。
「あのね、アレス。スープ、さらっとしているし、味も薄めだから、飲みやすいと思うよ。私、ちゃんと味見したけど、結構おいしかったよ」
ベッドのサイドテーブルの上にトレイを置くと、レナータは懸命にスープについて説明してきた。
この状況で、わざわざ用意してくれたものに文句を言うほど、アレスは薄情ではないつもりなのだが、レナータは必死な面持ちをしている。それだけ、自分が用意したスープをアレスが口にしてくれるのか、不安を覚えているに違いない。
緩慢とした動作でベッドの端に腰かけ、サイドテーブルの上に乗せられているトレイに手を伸ばす。そして、スプーンを掴み、細かく刻まれた白身魚や野菜が浮かんでいるトマトスープに差し入れる。レナータの言う通り、スプーンで掬ったスープはとろみが少なく、喉がひどく渇いているアレスでも、飲みやすそうだ。
そのまま口に運び、一匙飲むと、固唾を呑んでアレスの反応を見守っているレナータに視線を向ける。
「……ん、美味い」
正直に言えば、今のアレスは味覚が麻痺しているみたいで、味なんてほとんど分からなかった。そもそも、レトルトのスープならば、失敗なんてありえない。
それでも、緊張に表情を強張らせているレナータの顔を見たら、自然とその一言が唇から零れ落ちていた。
アレスがそう伝えた途端、レナータの翡翠の瞳がぱあっと輝いたように見えた。少しふっくらとした柔らかそうな唇は綻び、薔薇色の頬も嬉しそうに緩んでいく。
「よかったあ……! あ、アレス。でも、無理して全部飲まなくても、大丈夫だからね。飲めるだけ飲んで、薬飲んで、早く休んでね!」
だが、こんなにも喜んでくれたのならば、きちんと感想を伝えておいてよかったと、心底思った。ついでに、素直に喜びを表現するだけではなく、アレスへの気遣いを忘れないところが、レナータらしいとも胸中で呟く。
「それじゃあ、私も朝ごはん食べてきちゃうね! 食べ終わったら、また様子を見にくるから、食器はテーブルの上に置いておいてね!」
にこにこと微笑むレナータはそう告げるや否や、再び寝室を後にした。
レナータが視界から消えた瞬間、食事を続けることを億劫に思うほどの倦怠感に全身が襲われたが、とりあえず風邪薬を服用するためにも、目の前のスープくらいは飲まなければならない。それに、ああは言っていたものの、実際にアレスがスープを残したら、レナータは落ち込んでしまうかもしれない。そう自分に言い聞かせ、再度スプーンで赤い液体を掬う。
レナータがいなくなった静かな寝室に、ふと雨音が響き始めた。昨日のアレスが予想した通り、いつの間にか、雨が降り出していたみたいだ。
鼓膜に纏わりつく雨音が、頭痛を増長させるかのような錯覚を引き起こし、眉間に皺を刻みながらもスープを喉の奥に流し込んだ。
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