姫と番犬

「おい、クソガキ。なに、逃げようとしていやがる」


 ――そう、アレスが首根っこを掴んだ相手は、レナータとさほど歳が変わらなさそうに見える、幼い少年だった。レナータに向かって小石を投げつけてきたのだと判明した時点で、相手は子供に違いないと思っていたが、子供だからといって容赦するほど、アレスは子供好きではないし、優しくもない。


「はっ……放せよ!」


 アレスに首根っこを掴まれて持ち上げられ、宙に浮いた少年が、じたばたと手足を動かして暴れる。


「ここで放したら、てめえは逃げるに決まっているだろうが」


 眉間に皺を刻み、舌打ちを零しながら言葉を続ける。

 ――ああ、頭が痛い。レナータに体調不良を指摘されたからなのか、次第に頭痛を覚えてきた。


「――いいか、よく聞け。お前はちょっとした出来心で、あいつに石を投げただけなのかもしれねえがな。当たり所が悪ければ、相手は怪我をする。そして、お前が投げた石は、あのままだったら、あいつの頭に当たっていた。……もし、そうなっていたら、あいつがどうなるのか、ガキの頭でも理解できるだろ」


 子供の力で投げた石とはいえ、レナータのこめかみに衝突していたら、もしかすると血を流していたかもしれない。場合によっては、痕が残るような怪我を負う羽目になっていたのかもしれない。たかが小石だとは、侮れないのだ。


 そういった可能性については、全くといっていいほど、考えていなかったのだろう。アレスの手から逃れようと、抵抗を試みていた少年はぴたりと動きを止め、ぐっと黙り込んだ。


「これからは、自分の行動がどういう結果を招くのか、よく考えることだな。今回は見逃してやるが……もう一度、あいつに何かしてみろ。 その時は、ただじゃ済まさねえぞ」


 捕まえた少年に凄んでみせてから、本人の望み通り、ぱっと手を放すと、慌ててアレスから距離を取った。

 しかし、あっという間に逃げ去っていくものばかりだと思っていた少年は、アレスとは距離を取りつつも、すぐには逃げ出さなかった。それどころか、何故か敵意を剥き出しにアレスを睨みつけている。


「……なんだ、何か言いたいことでもあるのか」


 先刻よりも、倦怠感も頭痛もひどさが増してきた気がする。心なしか、背筋を悪寒が撫で上げていった感覚もある。

 目の前の少年への苛立ちと、自らを襲う体調不良による不快感から、きつく眉根を寄せれば、少年は何を思ったのか、アレスに食ってかかってきた。


「……だって! そいつ、ちっともここから出てこないから!」

「あ?」


 だったら、何だというのか。


「この前、せっかく一緒に遊んでやるって声をかけてやったのに、ここでみんなの仕事を見ていた方が楽しいからって、ほざくから! こんな汚ねえ工場なんかにいても、楽しくも何ともないくせに!」

「だから、腹いせに石を投げつけてやろうと思ったのか? 馬鹿か、お前は」


 少年の言い分に耳を傾けていたら、ますます頭が痛くなってきた。これは、体調不良だけが原因ではなく、精神的なものもあるに違いない。


 要するに、ただの逆恨みではないか。


 アレスの知らないところで、レナータはこの少年に遊びに誘われたものの、やんわりとではありながらも断った。レナータはまだこのスラム街に馴染んだとはいえないから、無闇にアレスから離れるべきではないと判断したのだろう。それに、こんな上から目線の誘いを受けたところで、乗り気になれるはずがない。

 だから、レナータの対応は、妥当だといえる。ただ、レナータが想定していた以上に、相手が幼稚だったというだけの話だ。


「つうか、人の職場を汚ねえとか堂々と言っているんじゃねえよ。ガキだからって、何を言っても許されるとか、甘ったれているんじゃねえぞ」


 アレスたちの騒ぎに気づいたらしい従業員たちが何事かと、徐々にこちらに集まってきた。先輩方が不快な発言を耳に挟む前に、少年を手で追い払う。


「とにかく、さっき俺が言ったこと、忘れるんじゃねえぞ。分かったら、さっさと失せろ。目障りだ」


 大人たちが集まってきたからか、少年は悔しそうに歯噛みした。幼いながらに、このままでは分が悪いと察したみたいで、この場から立ち去ろうと、身を翻す。


「――待って!」


 少年がこちらに背を向けた直後、アレスの後ろに隠れて事の成り行きを見守っていたレナータが、脇から飛び出してきた。そして、アレスが止める間もなく、ダークブロンドをなびかせつつ少年の元に駆け寄り、その手を取った。


「な……なんだよ」

「あのね、この間はごめんなさい。私、貴方が嫌々仲間の輪に入れようとしているのかと思ったから、無理しなくていいよって意味で、断ったの。……でも、貴方は本当に私と一緒に遊びたくて、誘ってくれたんだよね? あの時、気づけなくて、ごめんね」


 殊勝に謝罪の言葉を述べられ、翡翠の眼差しをまっすぐに注がれ、少年は咄嗟に声が出なかったらしく、口を噤んだ。


「でも私、偉そうな言い方をしたり、石を投げつけてくるような人とは、やっぱり遊びたくないな」


 それはそうだろうと、アレスが内心同意していたら、不意にレナータがにっこりと微笑んだ。


「でもね、もう偉そうな言い方をしたり、石を投げつけたりしないって約束してくれるなら、私も一緒に遊びたい!」


 間近で陽だまりのごとき笑顔を向けられた少年の頬が、みるみるうちに紅潮していく。何か言いたげだが、相変わらず声が出てこないみたいで、意味もなく口をぱくぱくと動かしている。


(ガキのくせに、色気づきやがって……)


 ふてぶてしくて可愛げのない子供が、瞬く間にレナータの笑顔に陥落した様を、アレスが冷めた目で眺めている間にも、目の前の二人はあろうことか、指切りを交わした。指切りが終わると、走り去っていく少年の背に向かって、レナータが小さく手を振っていた。


 少年の後ろ姿が見えなくなったところで、くるりとこちらを振り返ったレナータが、アレスの作業着の裾をきゅっと掴んだ。


「アレス。早く事情を話して、家に帰ろう?」


 まるで何事もなかったかのように、帰宅を促してくるレナータを苦々しい気持ちで見下ろしながらも、最早体調不良を誤魔化せなくなりつつあったアレスは、頷く他なかった。

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