恵みの雨

「アレス、氷枕持ってきたよ。ちょっと、頭の下、失礼しますねー」


 自分の食事を済ませ、アレスの食器も下げたレナータは、朝食の後片付けが終わるなり、保冷剤をタオルでくるんだものを片手に声をかけてきた。アレスが浅く頷くと、頭と枕の間にひんやりとした物体が差し込まれた。タオル越しの保冷材に頭部を押し当てれば、あまりの心地よさに、思わず目を細める。


「アレス、ちょっとは楽になった?」

「ん……」


 声を出すのも面倒臭くなってきたアレスの頭に、レナータの小さな手がそっと触れてきた。それから、苦痛を和らげようとしているかのように、何度も何度も濡れ羽色の髪を撫でていく。


「……きっと、疲れが出ちゃったんだね。アレス、いつも頑張ってくれているもんね。だから、せめて体調が良くなるまでの間は、ゆっくり休んでね」


 アレスの頭を撫でるその手つきは、かつてのレナータを想起させるのに充分だった。目を閉じれば、白銀の長い髪を背に流し、慈愛に満ちたマリンブルーの眼差しを向けてくる、昔のレナータの姿が瞼の裏に蘇ってくる。


「――ねえ、アレス。ここに来たばかりの時も言ったけど……アレスは私よりお兄ちゃんになったけど、まだ十五歳の子供でもあるんだよ。本当は、もっと自分のために時間もお金も使いたいよね。それなのに、生活のためにいつもお仕事頑張ってくれて、ありがとう。私の面倒を見てくれて、ありがとう。いつもおいしいごはんを作ってくれて、ありがとう」


 たくさんの感謝の言葉が、頭上から降り注ぐ。まるで、恵みの雨みたいだ。今、外で降っている雨は不快感しかもたらさないが、惜しみなく言葉を捧げる透明感のある柔らかい声は、鼓膜に沁み込んでいくにつれ、頭の痛みが薄れていくようだ。


「でもね、アレス。私にだって、できることもあるんだよ。アレスみたいに、働きに出ることはまだできないけど、家のことはもう少し私もやるよ。……アレスは朝に弱いから、これからは朝ごはんは私が作るよ。お手伝いも、今までよりももっと頑張るね。だから……だからね、アレス――」


 淀みなく紡がれていた声が、だんだんと震えてきた。アレスの頭を撫でていた手も動きを止めたというのに、微かに震えている。

 どうしたのかと薄目を開くと、くしゃりと表情を歪めたレナータが、アレスをまっすぐに見つめていた。


「――アレスは……いなく、ならないで……」


 痛切な響きを帯びた願いが、少しふっくらとした柔らかそうな唇から零れ落ちた刹那、レナータの目の縁から大粒の涙が溢れ出し、薔薇色の頬を濡らしていった。


(ああ、そうだ――)


 ――レナータはいつもいつも、明るく振る舞っていたものの、両親を失ったばかりなのだ。


 エリーゼもオリヴァーも、未だに安否は不明だが、あの日からもう三カ月近く経過しているのだ。それなのに、連絡の一つも寄越してこない。

 だから、おそらく二人の生存は絶望的だろう。仮に二人とも生きていたとしても、連絡を取ることすら叶わない状況下に置かれていることは、想像に難くない。あの二人に生きて会える可能性は、限りなくゼロに近い。


 しかしレナータは、アレスとたった二人で、これまでとは全く異なる環境で生きていかなければならないと思い知らされた日以外、一度も涙を見せなかった。泣き言なんて、たったの一度も吐いたことがない。両親のことには一切触れず、毎日を懸命に生きていた。

 そんなレナータに、アレスは知らず知らずのうちに甘えていたのかもしれない。目の前のことだけで精一杯で、レナータが内心何を思っているのかなんて、考えている余裕は欠片もなかった。


 それが当たり前だと、頭の片隅でもう一人の自分が囁く。レナータの言う通り、アレスはまだ十五歳の子供だ。この状況下で常にレナータを思いやれる余裕なんて、あるはずがない。そんなことは、できるはずもないのだ。

 でも、アレスのすぐ目の前で、しゃくり上げて泣いているレナータの姿を見ていると、頭よりもずっと強く胸が痛んだ。


 間違いなく、アレスが弱った姿を晒したから、レナータはあの日の喪失感を思い出してしまったのだろう。万が一にも、一人になってしまったらどうしようと、恐れているに違いない。

 それでも、レナータはあの日同様、声を押し殺して泣いていた。必死に嗚咽を噛み殺し、静かに涙を流している。声を張り上げて泣いたところで、アレスは怒りもしないのに、余計な気を遣っているのだろうか。


 ――こん、な……泣き言、言う、なんて……守り神、失格、だね……。


 どうして、自分は人工知能なのか、人間の女の子として産まれてくることができなかったのか。何故、もっと早くアレスに会えなかったのか。

 悲痛な声でそう訴えた後、自嘲するようにそんな言葉を涙と共に零したレナータの姿が、今、目の前で泣いている少女に重なっていく。


 内でも外でも降り止まない雨に、きつく眉根を寄せる。


(この、馬鹿……)


 痛む頭を片手で押さえつつ、ゆっくりと上体を起こす。そして、声もなく涙を流しているレナータの華奢な腕を掴み、ぐっと引き寄せる。

 ベッドの枕元に立っていたレナータは、驚愕に目を見開き、間近に迫るアレスの顔を凝視していた。そんなところまで、あの日のレナータにそっくりだ。


 だが、眼前に広がるのは、神秘的なマリンブルーではなく、生命の息吹を感じさせる翡翠だ。アレスを捉えて離さない翡翠の瞳を見つめたまま、少しふっくらとした柔らかそうな唇に、自分の唇を重ねた。すると、レナータのただでさえ大きな目が一際大きく見開かれ、目尻から止め処なく涙が押し流されていく。

 幼いレナータの唇は、不思議とかつてのレナータの唇と同じ感触だった。ただ、アレスが高熱を発しているせいか、レナータの唇からぬくもりは伝わってこない。


 レナータから唇を離せば、相変わらずアレスを凝視している翡翠の眼差しと、琥珀の眼差しが交錯した。

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