姫の呪いを解く方法

「――姫の呪いを解くのは、口同士のキスって決まっているからな」


 あの日と同じ台詞を口にした直後、レナータははっと息を呑んだ。レナータも、あの日の記憶を思い出しているのだろうか。

 それにしても、アレスがキスした途端、ぴたりと涙が止まってしまうところまで、あの日と同じになるとは思っておらず、つい苦笑いを浮かべる。


 言葉を失い、完全に固まってしまったレナータをより一層強く抱き寄せれば、いつも通り、その小さな身体はアレスの腕の中にすっぽりと納まる。


「俺は、そう簡単にはレナータの前からいなくなったりしねえよ。……悪かったな、ちゃんと泣かせてやることもできなくて」


 右手でレナータの背を叩きながら謝ると、華奢な肩がぴくりと揺れた。


「レナータ。さっきお前は、俺のことをまだ子供だって言ったが、お前はもっと子供なんだ。三千年分の記憶があっても、レナータがまだ八歳の子供だっていうのも、事実だ。だから、もっと我儘を言ってもいいんだ。もっと甘えていいし、今みたいに泣いてもいい」

「でも……」


 アレスの言葉を耳にしたレナータは、戸惑いに満ちた声を漏らし、シャツをきゅっと握ってきた。アレスの汗で湿ったシャツは、触っていても気持ちが悪いだけだろうに、レナータは手を放そうとしない。


(いや……こうやって抱きしめられている時点で、気持ち悪ぃか)


 アレスの全身は、相も変わらず熱を発している。それでも、レナータは嫌がる素振りを砂粒ほどにも見せず、大人しくアレスに抱き竦められている。


「でも、じゃねえよ。安心しろ。俺が聞き入れられねえ我儘だったら、はっきり無理だって言ってやるし、甘えられて困る時も、そう言う。だから、変な意地を張って、一人で抱え込むのはやめろ。……ここで一緒に暮らし始めた日、お前、言っていただろ。俺と楽しく暮らしたいって」

「うん……」

「なら、約束できるか?」

「うん」

「よし、いい子だ」


 約束できると、こくりと頷いたレナータの頭をくしゃりと撫でる。しばらくの間、レナータは大人しくされるがままになっていたが、突然アレスの胸元に伏せていた顔を上げた。


「……アレス。私が泣くのは、どんな時でも困らないの?」

「困らねえよ。どうせ、俺がキスすれば、お前、すぐに泣き止むだろ」


 ありのままの事実を告げると、レナータはどうしてかまた目を大きく見張った。


「だから、泣きたい時は、好きなだけ泣け。そうしたら、俺も好きな時に、勝手に泣き止ませるから」


 瞠目したままアレスを凝視していたレナータは、ぱちぱちと忙しなく瞬きを繰り返したかと思えば、急にふわりと微笑んだ。


「……それなら、いつでも好きな時に、思う存分泣けるね」

「ああ。だから、そうしろ」


 枕元に置いてあった、タオルに包まれた保冷剤を手繰り寄せ、ほんのりと赤くなっている、レナータの目元にそっと押し当てる。このくらいならば、冷やしておけば、すぐに赤みが引くだろう。


「でも、アレス。風邪引いている時にキスするのは、どうかと思う。私にうつっちゃったら、どうするの?」

「そうしたら、ちゃんと看病してやるから、安心しろ」

「そういう問題じゃないと思うんだけどなあ……」


 アレスの返答を聞いたレナータは、今度は苦い笑みを零した。それから、何を思ったのか、もう一度手を伸ばし、アレスの頭を撫でてきた。


「……ねえ、アレス。私、人間になって、小さくなっちゃったから、アレスに比べると、やっぱりできることは限られちゃうけど……昔みたいに、こうやって頭を撫でることは、手が小さくなっちゃっても、できるね」


 そう囁くように告げてきたレナータの微笑みからは苦みが消え、次第に天真爛漫なものへと変化していく。


「それにね、ぎゅーってするのも、できるよ! ほら!」


 アレスの頭から手を退けたレナータは、宣言通り、ぎゅっと抱きついてきた。その拍子に、アレスの手から保冷剤がぽとりと落ちる。


「こら、レナータ。少し大人しくしていろ」

「さっき、もっと甘えていいって、言ったばかりじゃない」


 アレスの肩に額を押し当ててきたレナータは顔を上げると、頬を膨らませて抗議してきた。


「甘えられて困る時も、困るって言うとも言っただろ。……ほら、ちゃんと冷やしておけ」


 むっと唇を尖らせるレナータに構わず、再びその目元に保冷剤を当てる。先程までの悲壮な面持ちは何だったのかと、問い詰めたくなるくらい、今のレナータはいつも通りに戻ってしまっている。


「……もう、気が済むまで泣けたのか」

「うん。アレスがいきなりキスしてくるから、びっくりし過ぎちゃって、涙も止まっちゃったよ」

「そうか」


 アレスのキスごときで、すっかり泣き止んでしまったレナータを目の当たりにしていると、エリーゼとオリヴァーが徐々に不憫に思えてきた。


「それに、アレスが約束してくれたから。そう簡単には、私の前からいなくならないって。だから、すっごく安心したの」


 アレスに保冷剤を押しつけられたまま、レナータは嬉しそうにはにかんだ。


「アレス、ありがとう。アレスは、いつも私が欲しい言葉をくれるね。アレスは、私を喜ばせたり、安心させたりする天才だね」


 透明感のある柔らかい声が、耳に心地よく響く。


「――それは、こっちの台詞だ」


 喜びに弾む声が伝えてくる言葉に、再度苦笑いを浮かべる。

 レナータこそ、いつだってアレスが求める言葉を捧げ、反応を返してくれている。だから、相手に感謝の気持ちを覚えているのは、決してレナータだけではない。


 家の外で降りしきる雨は、一向に止む気配を見せないが、家の中で静かに降り注いでいた雨は、姿を消した。雨が降っていた痕跡を拭い去ったら、いい加減横になって休むかと、レナータの目元を確認しつつ、心の中で呟いた。

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