約束
――翌朝。
今日もまだ雨は止まず、静かな雨音が家の中にまで侵食している。昨日よりも気温が下がったのか、室内の空気もどこかひんやりとしている気がする。
「うーん……」
アレスは昨日一日、レナータの言葉に甘え、あの後ひたすら眠り続けていたおかげで、すっかり熱は下がった。倦怠感も頭痛も消え、完全に通常運転に戻っている。
しかし、案の定というべきか、アレスの風邪がうつってしまったらしく、今朝目覚めた時から、レナータは高熱にうなされていた。保冷剤をタオルで包んだものを頭の下に置き、首の周りも冷やしているのだが、それでも寝苦しそうだ。
「――レナータ」
レナータは普段、二段ベッドの上段で寝ているのだが、それだと看病しづらいから、アレスが寝床として使っている、下段で今は寝てもらっている。シーツも布団カバーも枕カバーも、昨日アレスがかいた汗で湿っていたため、全て取り換えたから、その点は不快ではないだろう。そもそも、今のレナータは、そんなことを気にしている余裕など、露ほどにもなさそうだ。
何か用事があったわけではないものの、何となくレナータの名を呼ぶ。でも、熱にうなされているレナータの唇からは、先刻から微かな呻き声しか聞こえてこない。
(レナータには、悪いことをしたな……)
今さらながら罪悪感が込み上げてきたものの、後悔したところで仕方がない。
溜息を一つ零し、パーカーのポケットに突っ込んでおいた携帯端末を取り出し、昨日同様、アダムの電話番号を呼び出す。通話マークをタップし、コール音を三回数えたところで、通話が繋がった。
『――なんだ、小僧。まだ熱が下がらんのか。この軟弱者め』
「うるせえ、爺。まだ用件を言ってねえだろ。勝手に決めつけんな」
初っ端から勝手に誤解された挙句、低くしわがれた声に罵倒され、思わず眉間に皺を寄せる。
相手はアレスよりもずっと年上の老人だが、他の職場の人間と同じように、敬語を使っていない。その上、この老人は挨拶さえも面倒臭がるくせに、いきなり話を始めることが度々ある。技術者としての腕は確かなのだが、コミュニケーション能力が著しく欠如しているのだ。
(まあ、人付き合いに関しては、俺も人のこと言えねえけど)
胸の内で独り言ちたところで、アダムが口を開くよりも先に、言葉を継ぐ。
「俺は治ったんだが、今度はレナータが熱を出した。レナータを一人にはできねえから、家でもできる作業とかねえか? そうしたら、必要なもんだけ、そっちに取りにいって、あとは家でやる」
『貴様も、病み上がりだろうが』
「もう完治したって、言っただろ。そのくらい、できる」
『いい。――小僧、レナ嬢の風邪が治るまで、こっちには来るな。ここでは、まともな医療なんぞ、なかなか受けられんからな。病原菌を持ち込むでないぞ』
ついにアレスだけではなく、レナータまで病原菌認定を受けてしまった。ついでに、アダムは何故かレナータのことをレナ嬢と呼ぶ。
「そうしたら、仕事できねえだろうが。その分、給料だって引かれんだろ?」
『当たり前だ。甘えるな、小僧』
「いや、だから仕事するっつってんだろ。人の話を聞けよ」
『ならん。儂にうつったら、どうしてくれる。いいから、大人しく安静にしておけ。いいな?』
自分の心配だけをしているのか、一応アレスたちの心配もしてくれているのか、よく分からない言葉を吐き捨てるだけ吐き捨てたアダムは、アレスに口を挟む隙さえ与えず、一方的に通話を切った。
「あんの、クソ爺……」
レナータが回復するまで、どのくらいかかるのか、見当がつかないが、確実に二日と半日分の給料は差し引かれる現実に、盛大な舌打ちが零れる。
これで、今月と来月の節約生活は確定だ。ただでさえ、倹約しながら生活しているというのに、これ以上生活費を削れというのか。
「アレス……ごめんね」
思いきり眉間に深い皺を刻み、携帯端末の画面を睨み据えていたら、掠れ気味の弱々しい声が耳朶を打った。急いで振り返れば、高熱が出ているため、林檎みたいに真っ赤な顔をしているレナータが、申し訳なさそうに眉尻を下げ、アレスを見上げていた。どうやら、先程のアダムとの会話を聞かれていたみたいだ。
「レナータ、目が覚めたか」
「うん……アレス、ごめんね。私のせいでアレス、お仕事行けなくなっちゃって……」
もし今、レナータが立っていたら、間違いなくしょんぼりと項垂れていただろうと、容易く想像できるほど、落ち込んだ表情を浮かべている。
枕元で跪き、心苦しそうに目を伏せているレナータの頭を、そっと撫でる。
「レナータのせいじゃねえよ。聞き分けの悪い、あのクソ爺と、レナータに風邪をうつした俺が悪い」
「うん。風邪引いているのに、キスしてきたのは、アレスが悪いと思う」
そこは否定しないのかと、つい苦い笑みを零す。
「ああ、本当に悪かった。だから、レナータが元気になるまでは、俺がちゃんと面倒見るから、今はとにかく余計なことを考えるんじゃねえぞ」
「うん、分かった」
「よし、いい子だ。……レナータ、朝飯食えるか?」
昨日、レナータが言っていた通り、アレスたちが持っている風邪薬は食後でなければ服用できない。だから、無理にでも食べてもらわなければ困るのだが、この様子だと厳しいだろうか。
「……食べられるだけ、食べる」
レナータは迷うように視線を彷徨わせた末、決然とした面持ちで頷いた。薬を飲めば、多少は楽になるだろうから、意地でも食べて早く治そうと、決意したに違いない。
「レナータは偉いな。――それじゃあ、少しだけ待っていろ。何か食うもん、持ってくる」
汗で少し湿ったダークブロンドから手を放し、立ち上がった瞬間、レナータに服の裾を掴まれた。
「……どうした?」
なるべく優しい口調を心がけて問いかければ、レナータがおずおずと口を開いた。
「ごはん食べて、薬飲んだら、すぐ寝るから……だからね、アレス。私が寝るまで、手を握っていてくれる……?」
熱で潤んだ翡翠の瞳が、不安そうにアレスを見上げてくる。
きっと、風邪を引いたから、気持ちが弱り、心細くなっているのだろう。
いや、それ以前に、もしかすると、アレスもレナータも、気づかないうちに劇的な環境の変化によって精神的に疲弊し、免疫力が下がっていたのかもしれない。それで、二人とも滅多に体調を崩さなかったというのに、今回はそうはいかなかったのかもしれない。
もう一度枕元にしゃがみ込み、レナータの顔を覗き込みつつ、寝乱れたダークブロンドをアレスの手で整える。
「――ああ。レナータが寝ても、傍にいてやるから、安心しろ」
そう約束の言葉を口にすると、レナータは高熱に苦しめられているはずなのに、花も恥じらうような可憐な微笑みをふわりと浮かべた。
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