六章 変わりゆくもの

アレス二十歳、レナータ十三歳

 ――アレスとレナータがスラム街へと移り住んでから、五年の歳月が流れた。アレスは二十歳、レナータは十三歳となり、少しずつ様々なことが変化していった。

 たとえば、レナータは今年の春から、働き始めた。たとえば、レナータが十二歳の時までは、同じ部屋で寝ていたのに、今では寝室を分けている。

 たとえば――レナータがもう手がかからない年齢になったことに加え、アレスは成人済みであるため、付き合いで職場の同僚と飲みに行ったりするようになったことも、変化の一つに数えられるだろう。


「――ねえねえ、ちょっとお。私の話、聞いているのお?」


 そんなことを考えながら携帯端末を弄っていたら、すぐ隣から耳障りな鼻にかかった声が聞こえてきた。せっかくゲームがいいところまで進んでいたのに、とんだ邪魔が入ったせいで操作を誤り、携帯端末の画面に大きくゲームオーバーの文字が浮かび上がる。


 込み上げてくる苛立ちを隠そうともせず、盛大に舌打ちを零し、相手を睨み据えたにも関わらず、甘ったるい声の持ち主である女は、不満を目で訴えかけてくる。

 小麦色の肌と、漆黒の髪が特徴的なこの女の名前は、果たして何だったか。聞いたような気もするが、微塵も思い出せない。


 察してと言わんばかりに、自身の要求を言葉にして伝えようとしない女からすぐさま目を逸らし、携帯端末に視線を戻す。それから、先程まで進めていたゲームを再開しようとした矢先、アレスの行動を咎めるかのごとく、女が左腕にぴとっと擦り寄ってきた。女が身に纏っているきつい香水の匂いが、嗅覚を刺激してくる。ついでに、胸まで押し当てられ、自然と眉根がきつく寄せられていく。


「……おい、引っ付いてくんじゃねえよ。鬱陶しい」


 もう一度女を見遣ると同時に、容赦なく自分の腕から引き剥がす。唇から零れ落ちた声が、さながら地獄の亡者のようだと、我ながら思う。

 アレスの虫けらでも眺めるような目つきに、怒りのためか、女の表情が歪められていく。アルコールが回っていたらしい女の頬には、元々朱が上っていたが、さらに赤みが増していく。


(……今日の飲み会には、ついてくるんじゃなかった)


 昨日、明日の仕事帰りに飲みに行こうと、仕事仲間にいつものように誘われ、いつもの飲み会と変わらないだろうと信じて疑わなかったアレスは、二つ返事で了承した。

 アレスは特別酒好きというわけではないものの、特別嫌いというわけでもない。自ら進んで飲むことは少ないが、誘われれば飲むというスタンスだ。だから、飲み会も割と嫌いではない。


 だが、今日の飲み会はいつもとは様相が異なっていた。正確には、ごく稀に目の当たりにする光景と出くわしてしまったというべきか。アレスとその同僚の男たちと、同じ人数の女たちが、行き着いた先の店の前で待ち構えていたのだ。

 所謂、合コンと呼ばれるものの数合わせに自身が連れてこられたのだと理解するや否や、アレスは回れ右をして帰ろうとしたのだが、仲間たち数人がかりで引き留められてしまったのだ。

 頼む、帰らないでくれと拝み倒してくる同僚の姿に、憐みを覚えてしまい、最終的に折れた数時間前の自分を、アレスは殴り倒したい気持ちでいっぱいだ。


 別に、こういうことは今回が初めてではない。今までならば、明らかに無関心な態度を貫き、鋭いと評される眼光を向ければ、女たちはアレスを標的にすることは、そうそうなかった。それもそうだろう。見るからに脈のない男に媚びへつらったところで、得られるものなど何もない。

 しかし、今回はこれまで通りとはいかなかった。アレスが予想していた以上に、今、目の前にいる女はしつこい。おまけに、今回の合コンの参加者である女たちは全員、レナータの仕事先の先輩なのだから、余計に性質が悪い。


「……何よ。そこまで嫌がらなくたって、いいじゃない」

「よくねえよ。ただでさえ暑いのに、余計に暑苦しくなるような真似するんじゃねえよ」


 夏なのだから、仕方がないが、それにしても今夜はうだるように暑い。

 時間潰しと外の空気を吸うため、店の外に出て携帯端末でゲームに興じていたのだが、もういい加減帰ろうかと考えていたら、アレスの意識が全く自分に向いていないことに気づいたのか、女が眠を上げて詰め寄ってきた。


「ちょっと! いくら何でも、その態度は失礼なんじゃない!?」

「先にセクハラ仕掛けてきた、そっちの方が悪い」

「なっ……! セ、セクハラって……!」

「セクハラだろ、あんなもん」


 ああやってくっつけば、男なら皆、喜ぶと思っているのか。少なくともアレスの場合は、女ならば誰でもいいというわけではない。


 大体、色仕掛けをしてくるのならば、あのきつい香水はないだろう。おそらくフローラル系の香りで、本来ならばいい香りに違いないはずなのだが、一体どれだけ振り撒いてきたのか、最早悪臭の域に達しつつある。アレスはただでさえ嗅覚が鋭く、香水の匂いがあまり得意ではないというのに、これではただの嫌がらせだ。


 どうして、女という生き物は香水をつけたがるのか。香水で誤魔化さなければならないほどの体臭の持ち主など、そうそういないというのに、アレスと同年代の女は、大抵香水を使っている。香水をつけていない女は、少数派なのではないかと思うくらいだ。

 レナータなんて、今も昔も、香水を身に纏わなくても、ヴァーベナによく似た爽やかでいい香りがする。やはり、香水はこの世に必要のない代物だと、つくづく思う。


 それに、胸にしても、人工知能だった頃のレナータの方が大きかった。張りや形など、比べるべくもない。五歳にして、あの破壊力の洗礼を受けているアレスにしてみれば、なんてお粗末な色仕掛けなのかと、憐憫の情さえ湧き上がってくる。


 表に出すつもりは欠片もなかったが、知らず知らずのうちに、憐みの目を女に向けていたに違いない。女は頬を一際紅潮させ、わなわなと肩を震わせていた。


「……やっぱり噂通りの、ロリコンだったの……?」

「誰がロリコンだ、このアマ」


 しかも、噂通りとは何だ。誰が、そんな噂を流したのか。

 そもそも、そんな疑惑のある男に、よく擦り寄る気になったなと、ある意味感心する。もしかして、噂の真偽を確かめるために、あんな真似をしたのだろうか。


「だって、レナータにはあんなに甘々なのに、他の女には見向きもしないじゃない! 確かに、あの子は美人だけど、まだまだ子供よ? あの子にしか興味がないなら、ロリコンも同然じゃない!」

「いや、ロリコンじゃねえよ」


 今のアレスは、今のレナータを恋愛対象としては見ていない。妹分として可愛がっているだけだ。それも、相手がレナータだからこそだ。レナータと同年代の少女を見ても、別に何とも思わないのだから、アレスはロリコンではない。


「しかも、血の繋がりなんてないのに、ずっと一緒に暮らしているとか頭おかしいんじゃないの?」

「……おい、人の事情に土足で踏み込んでくるんじゃねえよ」


 再び女の糾弾の声が鼓膜を貫いた途端、先刻の比ではないほどの怒りを覚えた。


 ここに流れ着いたばかりの頃、アレスとレナータは、よく兄妹だと勘違いされていた。でも、いちいち訂正するのも面倒だったから、そのまま放置しておいたのだが、年を追うごとに、見た目ばかりか、雰囲気も何もかも似ていない二人を兄妹だと思う者は、次第に少なくなっていったのだ。だから、アレスたちの関係性について訊かれた場合には、レナータとは本当の兄妹ではないと、正直に答えていた。

 だが、そうしていたら、初めのうちは何も言われなかったのに、年々アレスとレナータの関係性に疑惑の目を向けられるようになっていったのだ。土地柄なのか、二人の間には何もないというのに、いつの間にか馬鹿馬鹿しい邪推で溢れ返っていた。アレスがロリコンだというのも、その一つだったのだろう。


 アレスもレナータも、言いたい人には言わせておけばいいと、特に気にも留めていなかった。噂話として流れているだけならば、相手にする必要などない。

 しかし、真正面からここまで言われたら、さすがに不快だ。この女は一体、何がしたいのか。


(まあ、知ったこっちゃねえな)


 とにかく、こちらも言わせてもらわなければ、気が済まない。

 手にしていた携帯端末をカーゴパンツのポケットに突っ込み、女をひたと睨み据える。


「どういう了見で、そんなことを言い出したのか知らねえが……はっきり言って、不快だ。俺は、あんたと話すことはない。――失せろ、目障りだ」


 今まで、アレスにどれだけ睨みつけられようとも、諦めようとしなかった女も、今回ばかりは違った。

 先程まで、あんなに赤く染まっていた頬から、みるみるうちに血の気が引いていく。アレスの鋭く冷ややかな眼光を浴びせられていくうちに、相手の逆鱗に触れてしまったのだと、ようやく気づいたらしい女は、徐々に恐怖に表情を強張らせていった。そして、目だけを激しく右往左往させていたかと思えば、女は突然こちらに背を向け、急ぎ足で店内へと戻っていった。


 ようやくしつこい女から解放され、自然と安堵の吐息が唇から零れ落ちていく。それから、わざわざ店内に戻って帰る旨を伝えるのも面倒 臭いから、メッセージを送るだけで済ませてしまおうと、ポケットから携帯端末を取り出そうとした寸前、ヒールの甲高い音が耳朶を打った。

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