薔薇の香り

「――ビアンカのこと、振っちゃったの? 結構、可愛い子だと思うのだけれど」


 ふわりと匂い立つような色香を纏った声の主へと振り向けば、肩までの長さのハニーブロンドの美女が、不思議そうにアレスを見上げていた。女が小首を傾げると、緩く巻かれているハニーブロンドが踊るように揺れた。


 先刻の女と入れ違いに現れた美女の問いに、眉間に皺を寄せる。

 ビアンカとは、一体誰のことかと疑問を抱いたのも束の間、この流れから察するに、先程の女の名前だろうと、一人納得する。


 淡いブルーの瞳はアレスを捉えたまま、ふっくらとした唇が再度開かれた。


「その様子だと、ビアンカの名前もろくに聞いていなかったのね? ひどい人」

「あんたに、どうこう言われる筋合いはないと思うが」

「あら。人の話をちゃんと聞くというのは、社会人として常識だと思うけれど?」

「聞く価値のある内容ならな」

「ほら。そういうところが、ひどいって言ったのよ」


 美女はアレスを責めるようなことを言っているものの、その口調はどこか楽しそうだ。


「で? ビアンカの何が気に入らなかったの?」

「……俺、帰りてえんだが」

「あら。ちょっとくらい話に付き合ってくれたって、いいじゃない」


 アレスの隣を陣取った美女はくすりと笑みを漏らし、興味津々に見つめてくる。この様子だと、女の質問に答えない限り、解放してくれなさそうだ。


(なんで、次から次へとしつこい女が来るんだよ……)


 今日は、間違いなく厄日だ。 思わず舌打ちをして、眉間により一層深い皺を刻んでも尚、ハニーブロンドの美女が動じた様子はない。


 にこにこと微笑んだまま、アレスをじっと見つめてくる姿は、どこかレナータと似通ったところがあるような気がしたが、淡いブルーの瞳が、獲物に狙いを定めた猛禽類のごとく、油断も隙もないことに気づくと、即座にその考えを打ち消した。紛れもなく笑っているはずなのに、目だけが笑っていないことなど、レナータにはない。


 先刻の女――ビアンカ以上に厄介な相手に捕まってしまったのかもしれないと思うと、自然と深い溜息が唇から零れ落ちていく。


「……で、さっきの女をなんで振ったかだったか」


 面倒極まりないから、さっさと質問に答えてさっさと退散するべく、重い口をこじ開ければ、美女は満足そうに頷いた。


「ええ、そうよ。あ、きっと私の名前も聞いていないでしょうから、一応名乗っておくわね。私は、ロザリーよ。よろしくね、アレス」


 アレスとしては、よろしくするつもりは砂粒ほどにもないが、名前を知っておいた方が、確かに何かと便利だ。

 ハニーブロンドの美女――ロザリーの社交辞令に、浅く頷くことで応え、改めて口を開く。


「一つ、俺はしつこい女は嫌いだ。一つ、香水の匂いがきつい女は、俺からすれば生物兵器以外の何物でもない。以上だ」


 アレスが端的に理由を口にした直後、ロザリーは忙しなく目を瞬かせたかと思えば、片手で口元を覆い、もう一度くすくすと笑みを漏らした。


「確かに、ビアンカはちょっと香水をつけ過ぎかもしれないわね。でも、夏場は汗をかくから、少しでも汗の臭いを消したいというのが、女心なのよ?」

「香水の匂いと汗の臭いが混ざったら、ただの悪臭じゃねえか」


 ロザリーが教えてくれた、一般的な女性の主張に、嫌悪感を露わに言葉を吐き捨てる。そんなに汗の臭いが気になるというのであれば、消臭スプレーでも吹きかけておけばいいのではないか。

 それに、レナータは夏場でも香水をつけていないが、汗臭いと思ったことは一度もない。汗をかいている時でさえ、レナータからはふわりといい香りが漂ってくる。


 アレスが顔をしかめていると、ロザリーは軽く肩を竦めた。


「……だから貴方、モテないのね」

「うるせえよ、余計なお世話だ」


 本当に、余計なお世話だ。何故、今日知り合ったばかりも同然の女に、そんなことを言われなければならないのか。


「質問には答えたぞ。だから、これで帰らせてもらう。店の中にいる奴らにも、そう伝えておいてくれ。じゃあな」


 心底疲れてしまったのだから、伝言くらい頼んでもいいだろう。


 それだけ伝え、ロザリーに背を向けようとした直前、ぐいっと腕を掴まれた。ビアンカ同様、どうしてか胸を押しつけられ、消したばかりの眉間の皺があっという間に形成されていく。

 これまたビアンカと同じで、ロザリーが身に纏っている香水の匂いが、アレスの鼻孔を掠めていく。でも、ビアンカとは違い、香水の匂いはそれほどきつくない。昔嗅いだ、薔薇の上品な甘い香りによく似た匂いだ。だが、やはりアレスはレナータの香りの方がずっと好きだ。


「あともうちょっとだけ話に付き合ってくれたって、いいじゃない」


 流れるような仕草でアレスの腕に自身の腕を絡めてきたロザリーは、艶然と微笑んだ。十中八九、大抵の男ならば、この微笑みに魅せられていたに違いない。

 しかし、アレスは自分でも驚くほど、何も感じなかった。


 ロザリーの色香を漂わせた微笑みを眺めているくらいならば、レナータの天真爛漫な笑顔を見ていたい。ビアンカよりはいい身体をしているのは、火を見るよりも明らかだが、かつてのレナータの方が断然上だ。


 そこで、今夜は何故かアレスに擦り寄ってくる女と、レナータの良さを比較してばかりいる自分自身に、ふと気づかされる。


「あのね、さっき聞かせてくれた、貴方の質問の答えに対して、言い忘れていたことがあったのだけれど。しつこい女が嫌いって言っていたけれど、貴方みたいなタイプはね、しつこいくらいの女じゃないと、相手にすらしてもらえないのよ。待っているだけでは、貴方は見向きもしないでしょう? だから、貴方とお近づきになりたければ、ある程度の押しの強さは必要なの」


 確かに、ロザリーの指摘は、あながち間違っていない。ビアンカもロザリーも、アレスの態度にめげずに食い下がってくるから、自然と相手をせざるを得なかった。もし、ロザリーたちが何の行動も起こしていなかったら、今、こうして言葉すら交わしていなかったのかもしれない。


 でも、アレスはレナータにしつこくされた覚えは、露ほどにもない。

 幼い頃は、レナータの気を引きたくて仕方がなくて、アレスはいつだって必死だった。むしろ、アレスの方がしつこくしている側だった気がする。


 そして今は、レナータはアレスのことを慕ってくれているが、いつも心地よい距離感で接してくれている。ずっと一緒に暮らしているから、 多少のスキンシップはあるものの、それを鬱陶しいと思ったことはない。


「――でも、それでも貴方は、ちっともこっちに関心なんて持ってくれない。今だって、違う女の子のことを考えていたでしょう? だから、貴方はモテないのよ」

「……そういう願望があるわけじゃねえんだから、別にいいだろ」

「あら、そうなの? ただの一度も、そういった欲求が芽生えたことはないの?」

「ねえな」


 幼い頃のアレスは、レナータを追いかけるので精一杯だった。エリーゼたちと一緒に暮らしていた頃は、レナータの世話を焼くことに全力を注いでいた。スラム街に移り住んでからは、レナータをアレス一人の手で養っていかなければならなくなったから、金銭的にも時間的にも精神的にも、他のことに気を回している余裕なんてなかった。

 今年の春からレナータも働き始めたから、以前に比べると、多少余裕が出てきたものの、それでも余所の女とどうこうしたいという願望はない。


「随分と、禁欲的なのね。一途とも言えるかしら? ――でも、貴方は本当にそれで満足なの?」


 ロザリーは感嘆の吐息を零したのも束の間、探るような目をアレスに向けてきた。

 何が言いたいのかとロザリーを見つめ返せば、目の前の微笑みがまた一段と深まっていった。

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