拒絶
「だって、貴方が私たちを前にしても考えている女の子は、あのお姫様でしょう? 確かに、愛らしいお姫様だけれど……まだ子供だから、男性の欲求を満たすことなんか、できっこないでしょう? 貴方が、噂通りの小さい女の子にしか欲情できない人ならば、話は別だけれど」
ロザリーの言葉が鼓膜を震わせた瞬間、腹の底から怒りが込み上げてきた。
お姫様というのは、間違いなくレナータのことだろう。レナータとアレスは、よく姫と番犬と評されている。どうして、レナータは人間として扱われているのに、アレスはそうではないのかと、常々疑問に思っているのだが、今は脇に置いておく。
ビアンカもロザリーも、何故レナータを穢すような言い方をするのか。アレスとレナータの関係性について、妙な憶測を立ててくるのか。そこまで、アレスとレナータの関係は、普通ではないのだろうか。
アレスが無言で見下ろしていると、ロザリーはさらに唇を笑みの形に歪めていく。だが、これまでとは異なり、ただ単純に楽しんでいるだけではなく、どこか嘲りの色が見え隠れしている。
「でも、貴方はあの子に欲情しているわけではないわよね。あの子を見る目に、そういうものは感じられないもの」
アレスの勤務先は、週五日勤務で、休みの日も決まっているが、レナータの職場の勤務体制はシフト制だ。だから、アレスにとっては休日でも、レナータにとってはそうではないことは、度々ある。
そして、そういう日は決まって、アレスはレナータを仕事先まで送り迎えしている。だから、アレスと一緒にいるところを、レナータと同じ職場で働いているロザリーに見られていたとしても、不思議ではない。
「恋愛感情と性欲って、密接な繋がりがあるっていうじゃない? 貴方の場合、どうやってそれを発散させているのかしら? 相当、溜まっているんじゃないの?」
確かに、かつてのアレスはレナータに恋をしていた。しかし、レナータが人間の女の子として生まれ変わってから、アレスの心の中にあった恋愛感情は鳴りを潜めた気がする。
レナータを可愛いと思う気持ちも、大切だと思う気持ちも変わらないが、昔に比べると遥かに穏やかなこの感情に、アレスは未だに名前をつけられずにいる。
でも、これだけは断言できる。ロザリーの発言は、ひどく不愉快だ。そんなデリケートな話題に、どうしてそこまで無遠慮に踏み込むことができるのか、その神経を疑う。
「――私が、相手になってあげましょうか?」
「……は?」
耳に飛び込んできた言葉の意味を、咄嗟には理解できなかった。
だから、つい間の抜けた声を漏らしてしまったアレスに、まるで内緒話でもするかのように、ロザリーが顔を近づけ、囁きかけてきた。
「貴方の溜め込んでいるものを処理する役、引き受けてあげてもいいわよって、言ったの。私、貴方となら寝てもいいわ? どう? 悪くない話だと思うのだけれど」
本当に、目の前にいるこの女は何を口走っているのだろう。
信じられない思いで、ロザリーを凝視していたものの、平静を取り戻していくにつれ、だんだんと頭の中が冷えていく。
「安心して。私、貴方に恋とか愛とか、そういうものは求めていないわ。だって私、そういうの信じていないから。お金も、構わないわよ。貴方、そんなに持っていなさそうだし。だから――」
「――言いたいことは、それだけか」
ロザリーの言葉を遮った声は、何の感情も含まれていなかった。
実際、ロザリーに対して何の感慨も湧かなかった。先程までの怒りも不快感も、いつの間にか消滅していた。その代わり、ひどく冷たい何かが胸の内に広がっていく。
淡々とした声音で話を遮られたにも関わらず、ロザリーは相変わらず微笑みを絶やさない。その微笑みはどこまでも綺麗に見えるだけに、かえって不気味だ。
「ええ。言いたいことは、これだけ。だから、あとはしたいことをするだけね」
ロザリーがそう告げた刹那、ハニーブロンドが再びふわりと揺れた。その拍子に、今まで髪に隠されていて気づかなかった、右耳につけている、紫の蝶のピアスが妖しく煌めいて見えた。
その直後、アレスの唇に柔らかな感触が押し当てられた。
一瞬、何が起きたのか理解できなかったが、無情にも凍り付いた思考が次第にじわじわと溶けていき、現状を否応なく把握させられていく。 ――アレスは今、ロザリーに強引に唇を奪われている。
そう理解した途端、生理的嫌悪感が背筋を這い上っていき、全身の肌が粟立った。それと同時に、濡れた感触がアレスの唇をこじ開けるように這い、咄嗟にロザリーの喉元を掴み、勢いよく引き剥がす。ロザリーの後頭部が店の壁に思いきり打ち付けられた音が鼓膜を揺らしたが、 相手の身を案じる気持ちなど、微塵も湧き上がってこなかった。
ロザリーの白く細い喉から手を放すなり、ぐいっと強く手の甲で唇に残った感触を拭う。手の甲に視線を落とすと、唇と擦れ合った皮膚に、きらきらと光るものが混ざっている、淡いピンク色が付着していることに気づき、盛大な舌打ちを零す。
(気持ち悪ぃな……)
別に、アレスが他人と唇を重ね合わせたことは、これが初めてではない。アレスが初めてキスをした相手はレナータだし、その後も何度かキスを交わしたことがある。
だから、今さらキスごときで、こんなにも動揺するとは思ってもみなかったが、レナータではない相手と、薄く柔い皮膚を触れ合わせる行為をしているのだと認識した瞬間、吐き気にも近い感覚が腹の底から込み上げてきたのだ。
ロザリーに視線を戻せば、赤い手形がくっきりと浮かび上がっている白い喉を擦りつつ、俯いて苦しそうに咳き込んでいる姿が、視界に映った。アレスの視線に気づいたのか、項垂れていたロザリーがゆっくりと顔を上げていく。
すると、生理的に浮かんだと思しき涙の膜が張っている、淡いブルーの瞳が、忌々しそうにアレスを睨み据えてきた。絶え間なく微笑んでいた美しい顔は歪められ、どこか悪魔めいて見える。
だが、ロザリーと目が合っても、罪悪感も申し訳なさも、欠片も覚えなかった。
「……女性の扱いが、なっていないのね。それでよく、あのお姫様をエスコートできるわね」
「痴女相手に、エスコートも何もないだろ」
何故、一日のうちに幾度もセクハラを受けなければならないのか。本当に、今日は厄日だ。最早、呪われているのではないかとさえ思えてきた。
唇を嘲笑の形に歪めて皮肉を返せば、ロザリーは不可解だとでも言いたげに眉根を寄せた。
「さっき、恋愛感情と性欲は密接な繋がりがあると言ったけれど、もちろん切り離して考えることもできるわ。特に、貴方くらいの年頃の男 性なら、その傾向が顕著ね。だから、目の前に誘惑を差し出されれば、陥落するかと思ったのだけれど……貴方、意外と理性が強いのね。普段お預けされている分、他の人より忍耐力が落ちていても不思議ではないのに」
「……あんた、男という生き物を馬鹿にし過ぎだろ」
ロザリーの話を聞いていて思ったのだが、目の前の女は、男性は情欲に脳を支配されている生き物だと思い込んでいるのではないかと、疑惑が芽生えていく。
アレスが半眼で見遣れば、ロザリーは軽く肩を竦めた。
「ごめんなさいね。今まで、そういう殿方ばかり見てきたものだから、男性のことはついそういう目で見てしまうのよ。でも、それにしても、 貴方は本当に珍しいタイプだと思うわ。もしかして、お姫様に操を立てているの? だから、恋人を作らないし、誰とも関係を持たないの? そうだとしたら、随分と健気ね?」
「……なんで、あんたにそこまで言われなきゃならねえんだ」
ロザリーのどこか挑発的な声音に、思わず眉間に皺を寄せる。
これまで恋人を作らなかったのは、別に欲しいとも思わなかったからだ。身体だけの関係の女を作らないのは、生理的に受け付けられる女に、今のところ出会ったことがない上、そんなことをしたら、絶対にレナータに顔向けできなくなりそうだからだ。
そもそも、アレスはレナータと同じ屋根の下で暮らしているのだ。家に女を連れ込めるわけがないし、朝帰りなんかしたら、勘が鋭いレナータは何があったのか、瞬時に悟ってしまうだろう。
それで詰られるならば、まだマシだが、レナータの場合、笑顔で受け入れてしまいそうだから、怖い。その上、アレスにそういう相手ができたと知るや否や、自分がいたら邪魔だろうからと、瞬く間に目の前から消えてしまいそうなところもあるから、不安まで煽られる。
しかし、そんなことをいちいちロザリーに教えなければならない道理はない。
眉間にさらに深い皺を刻み、盛大な溜息を零すと、今度こそロザリーに背を向けた。
「……俺は、もう帰る。店にいる奴らに、そう伝えておいてくれ」
「ええ、いいわよ。キスもまともにできない人とは、確実に相性が悪いでしょうから、貴方にもう用はないわ。――さようなら。せいぜい、 あの可愛らしいお姫様に慰めてもらうことね」
ロザリーは、本当に相手の神経を逆撫ですることばかり口にする女だ。これならば、まだビアンカの相手をしている方がマシだったと、胸中で吐き捨てる。
明日と明後日は、アレスは仕事が休みだから、今日の飲み会の参加費は、三日後に渡せばいいだろう。それとも、セクハラを受けたから、慰謝料代わりにアレスの分の飲み代は払ってもらおうか。
そんなことを考えながら、足早に歩いていたら、こういう時に限って、レナータと一緒に暮らしている家が見えてくるのが、いつも以上に早く感じられた。
しかも、携帯端末で時刻を確認してみると、まだレナータが起きている時間だった。レナータは夜更かしが苦手だから、アレスが飲みに行ってから帰る頃には、既に寝入っていることがほとんどなのだが、それだけ今日は引き上げるのが早かったということに違いない。
現に、アレスたちの家からは微かに灯りが漏れている。これからレナータと顔を合わせるのかと思うと、普段とは違って憂鬱な気分にさせられた。
でも、帰らないわけにもいかないから、腹を括ってポケットから家の鍵を取り出し、施錠されている玄関の扉の鍵をゆっくりと開けた。
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